今週のメッセージ――主日の説教から


2006年04月30日(日)(復活節第3主日 B年) 晴れ
「 魚を食べられるイエス 」

――今日の聖句――
<イエス御自身が彼らの真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。・・・こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは「ここに何か食べ物はあるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。>[ルカによる福音書 24:36―43]

 イエス・キリストが死者の中から復活されたことは、わたしたちの常識を超えた出来事で、なかなかすんなり、素直に理解できません。それは、イエスの弟子たちも同じでした。今日の聖句からは、復活のイエスに出会った弟子たちの驚きが伝わってきます。

 わたしたちが、このような弟子たちの驚きを知ることができるのは、いうまでもなく聖書があるからです。聖書の著者ルカが、このように書くことができたのは、復活の事実を見た人が、それを人々に語り伝えたからです。復活の事実を見た人とは、言うまでもなくイエスの弟子たちです。

 イエスの十字架から暫く経つと、弟子たちはイエスのことを宣べ伝え始めます。そうして、地中海沿岸のあちこちに教会ができ始めます。弟子たちは、一つの教会に定住するのではなく、教会から教会へと巡回して話をしました。今のように通信や交通の発達した時代ではありません。ある教会に、突然、ペテロが訪ねてきます、次に来るのは何時になるか分かりません。二度と来ることはないかもしれません。人々は一言も聞き漏らすまいと必死で耳を傾けます。ペテロたち弟子にとって、恥ずかしいこと、本当に愚かであったことも沢山ありました。恥となるようなことはあえて言いたくなかったかもしれません。しかし、それらをありのまま包み隠さず話しました。使徒とは、目撃者です。この目で見た、この耳で聞いた、この体で経験したことをありのまま話すのが使徒の使命でした。

 復活のイエスが魚を食べられたこともその一つです。腰を抜かさんばかりに驚き、呆然としている弟子たち、その彼らに分からせるにはこうするしかないと、イエスは思われたのでしょうか。食事は、極めて日常的かつ動物的な事柄です。弟子たちは、この3年間、イエスと寝食を共にしてきました。弟子たちが差し出した焼き魚を食べられるイエス、骨なんかもうまく選りだしながら食べられる姿に、弟子たちは、やっと落ち着きを取り戻し、つい数日前までの日常生活に引き戻されていきます。そして、はっきり、目の前のイエスが、3年間寝食を共にしたイエスであることを、自分の目をもって見届けたのです。

 弟子たちは、魚を食べられるイエスの姿の中に、復活の出来事が、とっぴょうしもない異次元の出来事ではなく、極めて日常的な出来事、つまり、自分たちの日常生活の中にイエスは今も生きておられる、ということを気づいたのです。復活を信じる心は、頭脳や智恵によって理解できるものではありません。それは、わたしたちの常識や能力を超える出来事だからです。わたしたちが復活の信仰を確実にするためには、弟子たちがそうであったように、日常生活の中で、復活されたイエスに出会うこと、つまり自分が主イエスの恵みの中に生きていることを実感するしかないのかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


2006年04月23日(日)(復活節第2主日 B年) くもり
「 愛とは、人とのつながり 」

――今日の聖句――
<その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。・・・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」>[ヨハネによる福音書 20:19−23]

 主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」[マタイ 4:4]と言われました。人間が生きて行くためには「パン」と「愛」が不可欠です。「愛」は人と人の関係です。「パンだけで生きている生」とは、パンのことしか目に入らない生き方です。自分のことしか目に入らない生き方でもあります。このような人は、人間相互の関係が断絶してしまいます。聖書は、このような生は、たとえ心臓は鼓動を打っていても、実は死んでいると言います。このような生と対照的なのが、「パンだけで生きているのではない生」です。パンだけに心を奪われるのではない生き方を示したものです。心臓の鼓動の有無に左右されない生があると言うことです。イエスの十字架人の死はそれを示しています。

 今日の聖句に、このように書かれています。
 <弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。>

 自分たちが師と仰ぎ、自分たちの人生をかけたイエスが、突然、十字架上で死んでしまいました。彼らは、行く先を見失い、混乱し、不安と絶望の中に投げ出されます。彼らは、イエスを守ることができなかったばかりでなく、自分自身がイエスを裏切るという卑怯な行いをしてしまったという、言いようのない後味の悪さを味わっていました。彼らは、自分たちにも、イエスと同じ運命が待ち受けているかもしれないという強い恐れがありました。だから、彼らは、ユダヤ人を恐れ、隠れ家に集まり、家の戸に鍵をかけ、肩を寄せ合い、声を潜めていました。彼らは、すべての人間関係と神との関係を遮断され、死の危機に直面していたのです。その時、突然、イエスが現れ声をかけられます。「あなたがたに平和があるように」。再び、他者との関係がつながった瞬間です。

 「あなたがたに平和があるように。」この言葉は、弟子たちの心から、一切の不安と恐怖を取り除いてしまいました。弟子たちとイエスとの関係が修復されます。ギリシャ語で息という言葉は、風とも聖霊とも命とも訳せます。甦られたイエスの命が、弟子たちの体の中にどんどん注がれて行きます。この命によって、弟子たちは新しい命を得、新しい人間に造り変えられていきます。これが、主イエス復活の核心です。

 罪とは、人との関係を絶つことです。イエスは弟子たちに大きな権能を与えられました。「罪を赦す力」です。人との関係をつなぐ働きでもあります。その関係を通して、弟子たちの愛がほとばしり出、注がれていきます。その愛は、復活のイエスから弟子たちに注がれた愛です。イエスから出た命が弟子たちを通して、その人に注がれていくのです。その愛によって人々は慰められ、いやされ、新しい命を得ます。新しい命をえた人は、再び立ち上がり歩き始めます。そして、イエスを知らない人々にイエスのことを伝え始めます。これが復活の出来事です。現代のわたしたちも、主イエスの弟子です。わたしたちにも、罪を赦す力が与えられていることを銘記したいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2006年04月16日(日)(復活日 B年) くもり
「 恐ろしい出来事 」

――今日の聖句――
<若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場 所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と」
 婦人たちは墓を出て逃げ去った。振るえ上がり、正気を失っていた。そして、誰にも言わなかった。恐ろしかったからである。」>
[マルコによる福音書 16:6―8]

 イースターおめでとうございます。主のご復活の喜びを分かち合いたいと思います。

 今日の聖句は、マルコによる福音書の「主イエス復活」の箇所です。この後、「結び一、二」として、復活されたイエスが弟子たちに現れる場面が記されていますが、それは後代の付加で、原文は8節で終わっているというのが定説です。

 そうだとしますと、「 婦人たちは・・・、誰にも言わなかった。恐ろしかったからである」という結末は、何とも不思議な、中途半端な終わり方です。著者マルコは、なぜそのような終わり方をしたのでしょうか。いろいろ考えられますが、大切なことは、婦人たちが「墓で経験した恐れ」、その「恐れ」を、マルコだけでなく、初代教会の人々が大変重要なこととし、それを言い伝えたということではないでしょうか。つまり、そこに、「主イエスの復活という出来事」の一つの核心があると言うことです。

 「復活の出来事」は、「単純に喜ばしい出来事」ではないということです。それは、正にそれを経験した人にとっては、恐怖のために、震え上がり、気を失うような出来事であった、ということです。それは、人間が人間を越えた超越的な存在に出会った瞬間です。死をも打ち破る神の働きが彼女たちの全存在を揺すぶったのです。「死が神によって滅ぼされる」という、人間には想像もつかない事実の前に、それに出会った人間は、ただ恐れ、暗闇に逃げ込み、震えながら沈黙するしかなかったということです。

 彼女たちは、どのくらいの期間、沈黙していたのでしょうか。数日か、数週間か。その後、打ち明けられた弟子たちは故郷のガリラヤに向かいました。その弟子たちの心に去来するもの何だったでしょうか。口では「一緒に、死のうではないか」など勇ましいことを言っておきながら、実際に危機が迫ると、我先にと、イエスを置き去りにして、散り散りに逃げてしまったことへのうしろめたい罪の意識と、一方、どうしてももう一度イエスに会いたい、会って謝りたいという気持ちが交錯していたのでしょう。

 ガリラヤで起こった出来事を、マルコは書き記しませんでした。それは、マルコが書き記せる類の出来事ではなかったということでしょう。ただ一つ確かなことは、それまで、意気消沈し、罪の意識にさいなまれ、人目を避けるように生きていた弟子たちが、再び、元気を取り戻し、公然と人々にイエスのことを語り始めたことであります。

 ガリラヤは、弟子たちが、3年間、イエスと寝食を共にした所です。ことにイエスを囲んだ食事は、弟子たちの心に深く刻み込まれていました。イエスは、弟子たちの日常生活の中に、復活のみ姿を現されました。このことは、現代のわたしたちも、わたしたちの日常の中でこそイエスに出会えることを確信させます。

(牧師 広沢敏明)


2006年04月09日(日)(復活前主日 B年) くもり
「 十字架の逆説 」

――今日の聖句――
<昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ エロイ レマ サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。・・・しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そしてイエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。>[マルコによる福音書 15:33―39]

 今日の聖句は、「マルコによる福音書による受難物語」の「イエスの最後」の場面です。福音書のクライマックスともいえます。マルコは、「イエスの死様」を通して、イエスが誰であったのかを、明らかにしようとしました。 四つの福音書の「イエスの死様」の描き方は、同じようでありながら、重要な点で異なっています。イエスの最後の言葉と、その時起こった出来事を合わせて見てみると、マルコによる福音書だけが、十字架上に血まみれになってのたうち回り、人と神とに見捨てられ、孤独と絶望の中で死んでいったイエスに、じっと目を注いでいることに気付きます。百人隊長は、そのようなイエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。どうしてそのように言うことができたのでしょうか。

 主イエスを巡る人々には、大きく3つのグループがあります。一つは、弟子グループ、もう一つは、ファリサイ派や律法学者たちを中心とするユダヤ教指導者たちのグループ、そして、もう一つは、群集(オクロス)と呼ばれる人々のグループです。

 群衆には、収税人,売春婦、貧しい人、病気の人、やもめ、不名誉な職業とされていた船乗りや羊飼いも含まれていました。いずれも、いろいろな事情でユダヤ教の律法を守ることのできない人々で、一般のユダヤ人からは、罪人と呼ばれて、軽蔑され、差別され、ののしられていた人々です。イエスが特別に憐れみと愛情を注がれたのはこのような人々でした。イエスは、これら群集のところに行き、病気をいやし、共に食事をし、慰めの言葉を語られました。マルコによる福音書の6章34節にはこのように書かれています。

 <イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。>

 しかし、このイエスが愛され、憐れまれた群集は、イエスの最後の場面で、イエスを裏切るものに変わって行きます。イエスが彼らのためにされた行動が、社会に対する反逆罪に問われたのです。そして、今や、その彼らが「十字架につけろ」と叫んでいます。

 イエスの死後、再び集まり始めた弟子たちは、イエスの死の意味を追求し始めます。そうしてたどりついたイエス理解に二つの系譜ができました。一つが「贖罪論」で、もう一つが、「究極の愛」です。後者は、イエスの無残な救いようのない絶望の中に、「仕えることの極限ともいえる姿」を見たのです。神学者は、これを「十字架の逆説」と表現しました。

 現代のわたしたちは、この群集と無関係でしょうか。種々の桎梏の中で、神の憐れみによって辛くも生かされている者でありながら、イエスを十字架にかける様なことを重ねているとは言えないでしようか。

(牧師 広沢敏明)


2006年04月02日(日)(大斎節第5主日 B年) くもり
「 一粒の麦 」

――今日の聖句――
<「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。・・・今、わたしは心騒ぐ、何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」>[ヨハネによる福音書 12:24−27]

 大斎節も深まり、第5主日を迎えました。今日の聖句は、「一粒の麦のたとえ」です。イエスは、十字架上の死を目前にして、その死の意味を明らかにしようとされます。作家の故三浦綾子さんに、『塩狩峠』という小説があります。その冒頭にこの聖句が書かれています。この小説は、実話に基づいた小説で、主人公の鉄道員長野信夫が、北海道・旭川に近い塩狩峠において、身を犠牲にして列車の暴走を食い止め、多くの人命を救った物語です。主人公長野の友人古川は、このような回想をします。大変印象的な場面です。

 <吉川は呆然とした。線路の上に飛び降りた信夫の姿が鮮やかに目に浮かんだ。純白の雪に飛び散った信夫の鮮血を、吉川は見たような気がした。信夫にふさわしい死に方のような気がした。・・・・・「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん」その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。>

 今日の聖句の後半に、「自分の命を愛する者は、それを失う」という言葉と、その逆の「自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」という言葉があります。「自分の命を愛する」とは、どういうことでしょうか。それは、「自分の方だけに正義があり、自分の力だけですべてを動かせると錯覚した生き方」ではないかと思います。人間そのものも、人間が作ったあらゆるものも、それ自体で完成された、欠陥のないものはありません。すべてのものは、この世にある限り相対的なもので、互いに補完し合うことによって存在を許されているのです。それにも関らず、「自分の命を愛する生き方」が幅を利かせています。時に他者を押しのけ、傷つけ、蹴落とすような生き方です。それが、世の中から愛を枯渇させ、憎しみを増幅し、平和を乱しているのです。「自分を憎む生き方」はこれと反対です。自分の欠陥を認め、他者の存在によって自分があること自覚し、共存を求める生き方です。

 しかし、この「自分を憎む生き方」が、そう簡単でないことは言うまでもありません。わたしたち人間には、生への根強い執着があります。自分を幸せにしたい、自分を楽しませたい、他者を支配したいという本能的な欲求があります。イエスもわたしたちと同じ人間でした。他者のために生きるために自分を否定しょうとするとき、生きていたいという本能との間で、深い葛藤を経験されたのです。「私は、心騒ぐ」という言葉は、それを表しています。

 3月20日、また不幸な事件が起きました。何の関係もない小学校3年の男の子を15階立てマンションの屋上から投げ落とすという事件です。人間は、このような残酷なこともしかねないが、また、『塩狩峠』の主人公ように自分を犠牲にする生き方もできます。

 これは両極端で、わたしたち凡人はその中間を生きるしかありませんが、「大いなる否定の先に、大いなる肯定があり、逆に、大いなる肯定の先に、大いなる否定がある」ことを、胸に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update May/14/2006 (c)練馬聖ガブリエル教会