今週のメッセージ――主日の説教から


2006年08月27日(日)(聖霊降臨後第12主日 B年) くもり
「 あなたも離れて行きたいか 」

――今日の聖句――
<このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。>[ヨハネによる福音書 6:66―71]

 今日の聖句の冒頭に、『弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった』とあります。ヨハネによる福音書の6章は大変長い章ですが、ここには、イエスのもとに集まった大勢の群集が次第にイエスから離れて、遂に十二の弟子たちだけになってしまう事情と、その中で、揺れ動く弟子たちの心が描かれています。

 多くの群集はイエスの奇跡につまずきました。「パンと魚の奇跡」を見た人々はイエスを連れ去ろうとします。それは、現実の利益を日常的に享受するため、イエスを政治的な王に祭り上げようとしたのです。

 更に、イエスの故郷の人々は別の理由でつまづきました。彼らの目に映るイエスは、彼らが昔から知っている人物、つまりヨセフとマリアの息子であり、彼らと同じく、貧しく、弱い人間としてのイエスです。彼らは、イエスの存在の中に、人間を越えた何かがあることに気がつくことができません。このようにして、自分たちの期待とは異なるイエスを目にした群集は去って行きました。そして、遂に、イエスのもとに残ったのは十二人の弟子たちだけになってしまいます。

 「あなたも離れて行きたいか」。痛烈な言葉です。弟子たちは、イエスと寝食を共にし、イエスを身近に見てきました。イエスの神秘に幾分かは気付き始めていました。しかし、イエスが本当に何者であるかは分かりませんでした。しかし、弟子たちは、辛うじて踏みとどまり、ペテロが答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」。

 しかし、今日の聖句はここで終わっていません。イエスは、更に言葉を続けられます。「あなたがたの一人は悪魔だ。」それを聞いた弟子たちの驚きを想像してみてください。

 「選び」には、選ばれた者として、選びに応えることが期待されています。イエスも弟子たちにそれを期待されたでしょう。しかし、選ばれた者が、どう生きるかは、その人の自由でした。そしてまた、イエスは、人間がそんなに強いものでないこともよくご存知でした。 イエスは、人間がぎりぎりのところに立たされたとき、「選びに応える道」を取るか、それとも「悪魔の誘惑」に乗るか、そのどちらの可能性もあることをはっきり弟子たちに示されたのです。

 わたしたちは、弟子たちが、その後どのように生きたかを知っています。ペテロは、イエスが逮捕された後、「お前も、イエスの仲間だろう」と言われたことに対し、三度も「イエスなど」を知らないと否みました。ほかの弟子たちは皆、イエスと同じ運命になることを恐れ散り散りに逃げてしまいました。 しかし、そういう弟子たちでありながら、最後は、再びイエスのもとに戻ってきました。今日はそのことに注目したいと思います。真実の信仰とは、そういうものかもしれません。「選びへの応答」と「悪魔の誘惑」の決着をつけられず、どこまでも迷いながら、イエスについて行く。聖書や教義は必ずしもよく分からなくても、イエスの人格に触れ、心を打たれて、よろめきながらもイエスと共に歩いていく。これが信仰の実際の姿かもしれません。

(牧師 広沢敏明)


2006年08月20日(日)(聖霊降臨後第11主日 B年) 晴れ
「 教会(3):聖餐式と宣教 」

――今日の聖句――
<その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰 とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 >[マルコによる福音書 16:14―15]

 教会は、原語(ギリシャ語)ではエクレシアと言い、それは建物でも組織でもなく、信徒の集まりを意味しています。この信徒の集まりである教会は、地上のどの団体や共同体とも異なっています。その特質を表わすため、「神の民」と言ったり、「キリストの体」と言ったりされます。「神の民」と呼ぶのは、信徒が集まるのは「神の招き」に基づいていることを、「キリストの体」と呼ぶのは、教会が主イエスの働きをこの世において継承するものであることを表わしています。

 この教会の二つの重要な側面、つまり「集められる側面」(「神の民」)と「散らされる側面(「キリストの体」)は、別の言葉で言うと、「礼拝、ことに聖餐式」と「宣教」と言うことになります。信徒は、「聖餐式」のために集まり、「宣教」のために散らされて行くのです。聖餐式と宣教が、教会という車の両輪にたとえられるのは、そのためです。聖餐式と宣教が上手く機能しているときは、教会は正しく前に進むことができるが、そうでないと、教会は立ち往生してしまうことになるからです。

 聖餐式の起源は、主イエスが十字架にかけられる前夜の「最後の晩餐」にあります。「最後の晩餐」は、主イエスと弟子たちの「共同の食事」です。現在わたしたちが行っている聖餐式は、「最後の晩餐の思い出」という考え方もありますが、わたしたちは、二千年前の「最後の晩餐」が、今も行われているのだ、それは「最後の晩餐そのもの」だと考えています。

 聖餐式が、このように主イエスが今もその中心におられる共同の食事だとしますと、宣教とは、すべての人に対して、「どうぞ、わたしたちの仲間にお入りください。一緒に食事をしましょう」と呼びかけ、招くことになります。そして、教会とは、このように「招き」「集まり」「一緒に食事をし」「出て行く」ところということになります。

 初代教会時代、この「招き」「集まり」「一緒に食事をし」「出て行く」という一連の動きが上手くいっていました、多くの迫害にもかかわらず信徒はどんどん増えていきました。 現代の教会は、初代教会時代の教会からは、ずいぶん離れたところに来てしまったような気がいたします。現代のわたしたちの日常は、このような初代教会のあり方を、困難にしている多くの問題があります。教会に行こうとしても仕事によっては日曜日は休みでありませんし、信仰は個人と神との関係といった考えも浸透しています。

 しかし、教会の本質が初代教会の姿にあるとすれば、やはりそこに目を留めていかねばならないのではないでしょうか。日常生活の中で、一人ひとりが宣教をどう考えるのか。そこで起こってくるいろいろな困難を携えて教会に来、聖餐式(共同の食事)に参加し、皆で問題を分かち合う。そうして、初めて、聖餐式が形式に流れず、意味あるものとなって行くのだと思います。今日の聖句では、復活されたイエスが、弟子たちが食事をしているところに現れて、宣教命令を伝えます。この食事は聖餐式ではなかったでしょうか。もしそうだとすると、この出来事は教会にとって極めて象徴的な出来事であったように思われます。

(牧師 広沢敏明)


2006年08月06日(日)(主イエス変容の日 B年) 晴れ
「 変容(変わる) 」

――今日の聖句――
<この話をしてから八日ほどたったとき、イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。>[ルカによる福音書 9:28−32]

 今日、8月6日は、「主イエスの変容」を記念する日です。「主イエスの変容」とは、今日の聖句にある通り、主イエスの姿が真っ白に輝いた出来事です。教会は、この出来事を大切にしてきました。

 イエスとペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは、山を登っていきます。朝から歩き始めて、もう夕暮れも過ぎ、辺りは薄暗くなってきました。山頂が近づいた時、イエスは3人の弟子たちから少しはなれて祈り始められます。3人の弟子たちは、朝からの登山の疲れのためか寝こんでしまいます。既に、日は沈み辺りは真っ暗になっています。弟子たちが、突如目を覚ますと、イエスのおられる辺りが強い光に覆われ輝き始めます。

 弟子たちは、「ひどく眠かったが、じっとこらえていると」と書かれています。他の訳では、「熟睡していたが、目をさますと」(協会訳)或いは「睡魔に襲われていた。しかし彼らがすっかり目を覚ますと」(岩波)となっています。つまり、弟子たちは、夢や幻を見ていたのではないということです。それまでは熟睡していたかもしれないが、その時は、すっかり目が覚め、はっきり見たと言うことです。

 主イエスは、ある時から、「自分は、エルサレムで、祭司長や律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と話し始められます。この時から、イエスは、弟子たちの教育に全力を集中されます。「主イエスの変容の出来事」は、それから八日目のことです。イエスは、これによって弟子たちに、「自分の本当の姿」を示されたのです。しかし、弟子たちは、すぐには真のイエスを理解できませんでした。この出来事は3人の弟子たちの心の奥にしまいこまれてしまいました。弟子たちが、真のイエスを知り、弟子であることの使命に気付き、変わっていくためにはもう少し時間が必要でした。

 しかし、イエスが十字架上に死なれた後暫くして、遂に、弟子たちが真のイエスに気付き、自分たちの使命を自覚するときがやってきます。その時、この「主イエスの変容の出来事」の経験が大きな役割を果したにちがいありません。

 人は誰でも、長い人生において、形はちがいますがこのような出来事に出会うのではないでしょうか。あなたにとって、「主イエスの変容の出来事」は何でしょうか。弟子たちは、主イエスがなぜ十字架にかけられて死なねばならなかったのか理解できず、その十字架から目をそらし、暗闇の中に落ち込んで行きそうになりながらも、ことある度に、あの山の暗闇の中に真っ白く輝くイエスの姿を思い出しました。そして、遂に、真のイエスを見つけることができたのです。

 今日、8月6日は、広島「原爆の日」であります。日本人は、人類として初めて、白く光る原子の火を経験しました。それは、わたしたち日本人にとっての「主イエス変容の出来事」かもしれません。この光を見たものは、平和を願い、奇跡を信じる者に変えられていくのです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Sep/04/2006 (c)練馬聖ガブリエル教会