今週のメッセージ――主日の説教から


2006年12月31日(日)(降誕後第1主日 C年) 晴れ
「 神の子となる資格 」

――今日の聖句――
<言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の 欲によってでもなく、神によって生まれたのである。>[ヨハネによる福音書 1:10−13]

 聖書には、「神と人との関係」について、「主人と奴隷」、或いは「父と子」という比喩を用いた箇所が沢山あります。奴隷が分かりにくければ、「使用人」と言い換えても差し支えありません。「主人と使用人の関係」は、「本来の関係」ではなく、「仮の関係」です。主人は、使用人がよく働き、能力を発揮すれば、それを高く評価しますが、そうでなければ、低い評価に甘んじなければなりません。これに対して、「父と子の関係」は、「本来の関係」です。「愛の関係」ということも出来ます。子がいかに怠慢で、能力が劣っていても、父の子に対する評価が変わることはありません。

 旧約聖書は、「神と人の関係」を「主人と使用人の関係」になぞらえました。「律法の支配下にある」とは、そのことを表しています。律法をよく守るものは、高く評価されるということです。使用人は、常に律法の束縛下にあり、常に主人の目を意識しながら生活しなければなりませんでした。そして、不幸にして、律法を守れない者は、罪人のレッテルを貼られることを余儀なくされたのです。この関係を、「父と子」の本来の関係に戻したのが、イエス・キリスト誕生と十字架の意味です。主イエスは、父である神を、「アッバ、父よ」とお呼びになりました。そして、わたしたちにも、そのように呼ぶように勧められました。わたしたちは、主イエスにならい、神に対して、ただ「父よ」と呼びかけるだけで、「神の子」となることができるのです。「神と人の本来の愛の関係」を取り戻すことが出来るのです。

 今日の聖句に、「神の子となる資格を与えた」という言葉が出てきます。ここで、「資格」と訳された言葉は、口語訳聖書では「力」、かつての文語訳聖書では「権」(ケン)と訳されていました。「権」は権威の「権」です。

 どの訳が最もふさわしいかは難しいですが、元のギリシャ語は「エクスーシアー」といいます。「エクス」は、「外」という意味、「ウーシア」は「存在」を意味しますので、この言葉の元々の意味は「外に存在する」ということになります。つまり、内は、いろいろな律法や規則でがんじがらめになっている。そこから一歩外に出ることによって、その束縛から解放されて自由になるということです。「神の子となる資格、力、権威」は、この世の中のいろいろな束縛から解放され、自由になることを表しています。

 わたしたちを束縛するものはいろいろあります。現代社会で、わたしたちは多くのストレスに圧迫されています。ストレスは、この束縛が如何に強いかを表しています。「神の子となる資格」とは、このようなこの世のあらゆる束縛やストレスから自由になることです。

(牧師 広沢敏明)


2006年12月25日(月)(降誕日 C年) 晴れ
「 かけがえのない命 」

――今日の聖句――
(1)<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>[ヨハネによる福音書 3:16]
(2)<「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」>[ルカによる福音書 2:11−12]

 クリスマス、おめでとうございます。主のご降誕を共に喜びたいと思います。

 2006年も間もなく終わろうとしています。皆さまは、今年1年、どのような年であったと感じておられるでしょうか。私は、心の底に、滓のように、何か暗いものが漂っていることを感じています。それは、子どもをめぐる心の痛む事件が頻発したことです。

 子どもの世界に起こっていることは、どの時代においても、どの社会においても常に大人の世界に起こっていることの反映です。無垢で輝くような「いのち」を持って生まれてきた子どもたちが、自分自身の内からの力によって、このような破滅的な生き方をするわけはないのです。子どもたちを、そのような生き方に追い込んでいるのは、他でもない大人であることを深く認識しなければならないように思います。

 今の子どもたちをめぐる世界は極めて複雑で、その病根は深いのですが、子どもたちが幸せに生きる条件として最も基本的で中心的なことは、子どもたち一人ひとりが、自分の存在をかけがいなく大切なものであると感じることではないかと思います。

 どうしたら、自分の「いのち」を価値あるものと思うようになるのでしょうか。それは、ただひとつ、愛されることによってです。わたしたちは、生まれたときから豊かに愛される経験によって、自分の大切さを知るようになります。不幸にして愛されることの少なかった子どもは、自分を価値のない者と思うようになります。そして、自分の大切さを知った子どもは、他人を愛する能力を身につけていきます。現代の子どもの世界に起こっていることの根源は、愛されていること実感できない子どもが増えていることにあるように思われます。そして、それは、わたしたち大人の世界がどんどん神の愛から遠ざかっていることと深い関係があります。

 今日の聖句に注目したいと思います。クリスマスは、神さまがわたしたち人間をこよなく愛してくださっていることを、わたしたちに、目に見える形で明らかにしてくださった出来事です。真っ暗な闇の中、汚い馬小屋の中のみすぼらしい飼い葉桶、その中に眠る乳飲み子、それが、神さまのわたしたちへの愛の「しるし」だというのです。 神は、その独り子を、人間の中でも、最も貧しく低い形で生まれさせられました、それは、神がすべての人を愛しているというしるしに他なりません。それほどわたしたちは、神さまに愛され、大切にされているのです。わたしたち一人ひとり、神さまの「かけがえのない存在であることを心に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2006年12月24日(日)(降臨節第4主日 C年) 晴れ
「 神の言葉を信じる 」

――今日の聖句――
<そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは、聖霊に満たされて、声高らかに言った。「・・・どういうわけでしょう、あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」>[ルカによる福音書 1:39−45]

 今日の聖句は、マリアがイエスを身ごもったとき、親戚のエリザベトに会いに行く場面です。エリザベトは半年くらい早くみごもっていました。

 マリアが、なぜそんなに急いでいたか、その理由は書かれていません。しかし、想像することは出来ます。マリアは、天使から、間もなく男の子をみごもることを告げられました。そのとき、マリアは、「お言葉通り、この身になりますように」と答えましたけれども、心の中に不安がなかったはずはありません。でも、その不安は誰にでも打ち明けて分かってもらえる内容ではありません。ただ、このエリザベトだけは別でした。天使からエリザベトが既にみごもっていることを教えられていたからです。だから、一刻も早く、事実を確かめたかったからではなかったでしょうか。

 マリアに会ったエリザベトは、マリアを賛美して言います。

 <『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』>
   [ルカによる福音書 1:45]

 このエリザベトの言葉は、マリアの不安を一気に吹き払ってしまいました。マリアは、不安や疑いにもかかわらず、天使の言葉にかけてみようと決心していたからです。

 後世の教会は、このマリアとエリザベトの神の言葉を信じ、互いに喜びあう姿の中に教会のあるべき姿を見ました。確かに、現実には、これと反対のことが満ち溢れていています。むしろ、神がおられることに疑問を抱かせるような出来事が多い。戦争は止まず、貧困もなくなりません。差別やいじめにより多くの人が自ら命を断ちます。人は約束を守らず、軽い言葉が宙に舞っています。その中で誠実に生きて行くことは容易ではありません。

 わたしたちの一生は、一瞬一瞬の決断の積み重ねです。その一瞬一瞬の決断に、神が共にいてくださることを信じて生きていくのは大変なことです。しかし、何年も、何十年も悲しいことが続き、一切の希望が剥ぎ取られるような状況の中で、神のみ言葉が、わたしたちの決断において実現することを信じ、希望を失わず、深い祈りに生き切るところに真の喜びが与えられるのです。

(牧師 広沢敏明)


2006年12月17日(日)(降臨節第3主日 C年) 晴れ
「 どうすればよいのか 」

――今日の聖句――
<そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と 尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりする な。自分の給料で満足せよ」と言った。>[ルカによる福音書 3:7−14]

 イエス・キリストの到来に先立ち、洗礼者ヨハネが、荒れ野で、悔い改めを呼びかける激しい言葉は、聞く人々の心を揺り動かしました。それから2000年、現代のわたしたちは、このヨハネの言葉をどのように聞くでしようか。

 今日の聖句では、群衆、徴税人、兵士という三種類の人々が登場して質問します。「わたしたちはどうすればよいのですか」。

 群集、徴税人、兵士は、いずれも社会の底辺に生活している人々です。その彼らが、ヨハネの言葉に揺すぶられたのです。彼らは、自分たちが律法を守っていないこと、自分たちの仕事が人々から嫌われていることは分かっていました。しかし、生きていくためには、その仕事を続けるしかなかったのでしょう。そこに、彼らの弱さと悲しみが見えてきます。かれらは、ヨハネが「そんな仕事はやめてしまえ」、と言われることを覚悟していたかもしれません。しかし、ヨハネが、命じたことは、彼らの仕事を止めさせることではなく、その仕事を続けながら、日常生活の中で、ごく当たり前のことをしなさいということでした。

 わたしたちは、自分のことを考えても、この当たり前のことができないことに気づくのではないでしょうか。人にはそれぞれ、与えられた状況があります。家庭であり、学校であり、職場です。その中で、なすべきことは誰でも分かっているのです。しかし、わたしたちは、毎日の日常生活の中で、それをやり損なっているのではないでしょうか。

 日々伝えられる悲惨な事件、ことに、子どもをめぐる悲しい出来事には、誰も心を痛めています。その背景は、現代の世の中には、大人の世界にも、子どもの世界にも大きなストレスがあることです。子どもは愛されることによって人を愛することができるようになり、いじめられた子どもは人をいじめるようなると言われています。今、わたしたちの社会に欠けているのは、この日常の生活の場における優しさ、思いやり、いたわりです。

 経済界は空前の景気を謳歌しているように見えますが、底辺では大きな変化が起こっていることに不安を感じます。例えば、企業の雇用形態です。この10年間に、正社員が約440万人減り、非正規社員が660百万人増えて、その結果、雇用者数に占める非正規社員の割合は三人に一人の割合になっているそうです。ことに、15歳から24歳までの若年層では、非正規社員の割合は二人に一人といわれています。非正規社員の給与水準は正規社員の6割といわれますから、これが今後、一層格差拡大を引き起こし、日本の社会をますますストレスの多い、愛に欠けた社会に追い込んでいくかもしれません。わたしたちにできることは、先ず一人ひとり、自分の身の周りから、たとい小さくても愛の火を灯し続けることではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2006年12月10日(日)(降臨節第2主日 C年) 晴れ
「 光となること 」

――今日の聖句――
<アンナスとカイアファとが大祭司であっとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。>[ルカによる福音書 3:2]
<神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 >[ヨハネによる福音書 1:6−8]

 今日の聖句は、イエスの活動に先立ち、その準備をした洗礼者ヨハネについての記録です。福音記者ヨハネは、洗礼者ヨハネについて、「彼は 光ではなく、光について証しする者」と証言しました。そして、イエスを、「光」そのもの、イエスの到来を暗闇に「光」が射し込んでくる出来事と理解したのです。

 光は、物事を照らし、物事の細部を明らかにして識別させ、その真実を抉り出します。イエスが「光」であることの第一は、イエスはこの世の中を照らし、隠されていた真実を明らかにされるということです。ヨハネによる福音書は、その冒頭に『初め(はじめ)に言(ことば)があった。言(ことば)は神(かみ)と共(とも)にあった。言(ことば)は神(かみ)であった』と高らかに歌い上げました。わたしたち人間は、言葉を与えられました。わたしたちは、言葉によって、目に見えないことも理解することができます。福音記者ヨハネは、イエスを「光」であり、「ことば」であると理解したのです。この世の中は複雑で、その隠された真実を明にすることは簡単ではありません。しかし、懐中電灯が暗闇を照らし、細部を明らかにするように、「光」であり「ことば」であるイエスは、世の中を照らし、その真実を明らかにされるのです。

 イエスが「光」であることの第二は、「道標」であるということです。旧約聖書の詩篇の作者はこのように歌いました。
 <あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。>[詩篇119:105]
 夜、海を行く船が、灯台の光をたよりに航海するように、わたしたちは、イエスをたよりにすることによって人生を歩いて行くことができるのです。

 このように、福音記者ヨハネは、イエスを「光」と呼び、闇夜を照らす灯、知らない道の「道標」であると理解しました。今、わたしたちが思いいたさなければならないのは、わたしたちが生きている世の中においては、教会がこの「光」の役割りを担っているということです。今日、日本社会は深く病み、混乱しているように見えます。その中で教会は、過去をしっかり振り返り、今をしっかり把握して、今わたしたちは、どのような状況にあるのか、そして、これからどちらの方向に進んでいかなければならないのか、それを指し示すことを期待されているのです。また、この働きは、教会全体の使命あると同時に、わたしたち一人ひとりの使命でもあるということでもあります。

 わたしたちの教会の屋根の十字架は、夜、真っ白な光で照らされています。これは単なる飾りでも広告でもありません。それは、教会の働きを示しているのです。わたしたち一人ひとりは、そんなに大きな光を輝かすことはできないかもしれません。しかし、たとえ10ワットでもよい、わたしたちは、自分の周りを照らす「懐中電灯」であり、「灯台」でありたいと思います。必ず、その「光」に、誰かが気づいてくれるはずです。

(牧師 広沢敏明)


2006年12月03日(日)(降臨節第1主日 C年) 晴れ
「 暗闇を見つめる 」

――今日の聖句――
<それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」>[ルカによる福音書 21:25−28]

 教会の暦では、今日から新しい年が始まります。新しい年は降臨節で始まります。降臨節の意図は、主イエスの降誕を本当の喜びをもって迎える心の準備をすることです。わたしたちは、毎年、クリスマスを本当の喜びをもって迎えているでしょうか。

 今日の聖句は「小黙示録」といわれます。「主イエス再臨」のときの描写です。冒頭に「太陽と月と星に徴が現れる」と書かれています。このことから、かつて、天体の精密な観測が行われ、その時期を探るために天体の動きに関する膨大な計算がおこなわれたことがありした。しかし、そのいずれも当ることはありませんでした。大切なことは、聖書は再臨を語る場合も、それは将来のことではなく、現在をどう生きるかを問題にしているということです。再臨を将来のこととして、ことにその時期だけを問題にした研究や運動は、これまでことごとく挫折し、不毛に終わっています。

 わたしたちがクリスマスを迎える心の準備をする場合も、わたしたちの今のあり方に心を集中する必要があるように思います。クリスマスは、闇の中に光が差し込んで来る出来事です。夜にはわずかの光も大きく見えます。しかし、昼間には、その光をよく見ることが出来ません。光を見ようとするものは、闇をしっかり見つめることが必要です。闇を闇と感じない人は、光を光と感じることができないのです。救いを必要としない人にとっては、救い主の到来も、自分とは無関係な、対岸の出来事に過ぎません。

 現代社会は、真の暗闇の怖さを忘れかけています。自分の手も見えないような暗闇を経験することがなくなったからかもしれません。心の暗闇も同じです。現実には、厳然として暗闇は存在します。生老病死は、仏教用語ですが、この世に辛さ悲しさを表しています。しかし、わたしたちの多くは、普段はそれを見ないようにし、或いは、医学の発達などによって人間の力で解決できるものと考えるようになりました。その結果、わたしたちの暗闇に対する感覚が麻痺し、鈍感になってきているのです。

 「ゆで蛙」という挿話があります。熱いお湯に蛙を入れると、びっくりした蛙は、大きく飛び跳ねて鍋から飛び出してしまいます。しかし、水に蛙を入れて、少しずつ温度を上げていくと、蛙は逃げもせずじっとしているうちに、ゆでられて死んでしまうという話しです。 少し残酷な話しですが、ある意味で、考え込ませる話しです。

 今日の聖句に、「身を起こし頭を上げなさい」とあります。主イエスは、わたしたちの人生が、悲しさと辛さに覆われていることを知りながら、それに押しつぶされないように、暗闇に飲み込まれてしまわないように、身を立てていなさいと言われたのです。イエス・キリストの誕生を待ち望む心は、わたしたちが、人生のありのままを、ことにその暗闇を鋭く見つめることから生まれるのではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Jan/17/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会