今週のメッセージ――主日の説教から


2006年02月26日(日)(大斎節前主日 B年) 晴れ
「 信徒奉事者 」

――今日の聖句――
<そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで十二人は、弟子をすべて呼び集めて言った。「・・・兄弟たち、あなたがたの中から、霊と智恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、・・・(ステファノなど七人)を選んで、使徒たちの前に立たせ、使徒たちは、祈って彼らに上に手を置いた。>[使徒言行録 6:1−6]

 昨年11月に発行した創立70周年記念誌の「これからの教会のビジョン:課題(2)『信徒の役割の自覚』」に、このように書かれています。

 <教会を維持、発展させるのは、信徒の責任です。一人ひとりが、もう一度その意識を確認したいと思います。その観点から信徒奉事者の役割を再発見したいと思います。礼拝での奉仕に止まらず、宣教、教会教育の分野で、幅広い役割を期待します。>

 現在、東京教区では、33教会のうち約半数の教会に信徒奉事者が置かれていますが、必ずしも十分な理解と合意ができているようには思われません。今、なぜ、信徒奉事者が必要なのでしょうか。

(1)司祭の数が減少し、東京教区においても、33教会のうち、定住牧師のいない教会が、3分の1の12教会に及んでいることです。つまり、どの教会も常に定住牧師がいる保証はないということです。定住牧師がいなくなると、先ず、主日の礼拝をどのように守るのかが大きな問題となります。そのほか、求道者への対応、病者の訪問など多くの課題が出てきます。

(2)教会での信徒の位置づけの問題です。2000年前、キリスト教の教会が始めて地上に現れたとき、それは信徒の運動として始まりました。しかし、中世の長い期間、信徒は影の薄い、二次的なものであり続けました。この聖職中心主義の流れに大きな変化が現れたのは、前世紀後半になってからです。この新しい流れのキーワードとなったのが「神の民」という言葉です。教会は「神の民の共同体」であり、イエス・キリストの使命(宣教)を継承するという考え方です。宣教の主体は、神の民にあり、それは聖職も含みますが、その主体は信徒であるという考え方です。

(3)第3は、私の個人的な思いですが、多くの皆さんに聖餐式の分餐の経験をしてもらいたい、ということです。聖餐式のパンとぶどう酒は、神さまの恵みの目に見えるしるしです。それを、いただくだけでなく、それを配ることを通して神さまの恵みに改めて気付かされるに違いありません。

 信徒奉事者に特別な能力や技能は必要ありません。大切なことは、神の恵みと赦しによって今自分があることを自覚し、その恵みに生きる者として、教会の働きに参画していこうとする気持ちです。今日の聖句には、ステファノなど7人が、教会の特別の仕事のために選ばれる出来事が描かれています。執事職の始まりとも言われる出来事です。信徒奉事者は、牧師の働きの一端を担うものですが、それだけでなく、その働きによって、この教会に一層の霊的な成長が与えられることを期待したいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2006年02月19日(日)(顕現後第7主日 B年) 晴れ
「 魂への配慮 」

――今日の聖句――
<父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そういってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。>[ヨハネによる福音書 20:21−23]

 今しばらく、昨年11月の創立70周年記念誌に載せた「これからの教会のビジョン」について話しを続けたいと思います。今日は、「これからの教会の課題」(1)「新しく教会に来る人々の受け入れ」についてです。コメントには、このように書かれています。

 <ホームページなどを見てこの教会を訪れる人は、必ずしも少なくありません。しかし、教会に残る人はそう多くありません。それらの人々への対応は、宣教の第一線です。初めて教会の門を叩くには、大変な勇気がいるものです。その人々を決して孤立させてはなりません。教会に来られる人々は多様です。そのための学びも必要となります。

  1. 一人ひとりが、他者の魂に関心を持とう。(魂への配慮)
  2. 心の問題などについて必要な学びを。(研修)

 今日、取り上げたいのは、「魂への配慮」ということです。戦後、わたしたちは世界でも有数の豊かな社会を実現しましたが、その一方、非常に競争的で、管理主義的な殺伐とした社会を生み出してしまいました。毎日、テレビや新聞で報道される事件や犯罪は、わたしたちの生きているこの社会が、わたしたちが想像する以上に深く病んでいることを示しているように思われます。そのような社会では、真面目に純粋に生きようとすればするほど傷つき易いことは想像に難くありません。

 わたしたちは、人の外見に強い関心を持ちます、しかし、その人の内面にどのくらい関心を持っているでしょうか。「魂への配慮」という表現は、馴染みの薄い言葉ですが、この他者の内面に関心を持ちかかわることを意味しています。欧米では、極めて日常的な言葉ですが、それを日本では「牧会」と訳したために真の意味が薄れてしまいました。他者の魂に関心を持つこと、それは、単なる好奇心やおせっかいでないことはいうまでもありません。宣教と奉仕は、教会という車の両輪といわれますが、よく考えてみると、宣教も奉仕も、その本質は、他者の魂に深く関わっていくことであることに気付かされます。

 「魂への配慮」を、もう少し具体的に考えてみましょう。今日の聖句に注目したいと思います。復活されたイエスが弟子たちに現れ、罪を赦す権能を与えられる場面です。「罪」とは、心の思いが神のほうに向かわず他の方向にそれることです。マルチン・ルターは、「罪とは、一度神の方へ向かった心が、方向転換して、自分の方に戻って来ること」と言っています。現代社会の大きな特色は「世俗化」です。「神なしで生きていけると考えること」です。お金も名誉も名声も、家庭も仕事も、それらがいかに大切だとしても、それだけにしがみついていると、魂は次第に自由を失いこわばってきます。「魂への配慮」は、そのこわばっている手を柔らかくし、しがみついているものから離させて、その人が、方向転換し、新しいいのちに生きられるように援助することを意味しています。「魂への配慮」とは、具体的には、「罪を赦すこと」、つまり「その人の心の方向を変えさせること」と言い換えることができます。その人の側に立ち、その人が今一度神の方向に向き直らせるのに力を貸すことです。難しいことではありますが、わたしたちは、だれもその力をいただいているのです。

(牧師 広沢敏明)


2006年02月12日(日)(顕現後第6主日 B年) 晴れ
「 イエスの心を知る 」

――今日の聖句――
<さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、 手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。・・・」>[マルコによる福音書 1:40−44]

(1)「深く憐れんで」

 原語の本来の意味は、「傷ついている人や悲しんでいる人を見て、同情のために、内臓がきりきりと引きちぎられるような痛みを感じる」ことです。岩波書店版の聖書では、「はらわたがちぎれる想いに駆られ」と訳しています。聖書では、この言葉を、主に『イエスの心』を表す場合にだけに用いていることが注目されます。それほど、初代教会の人々は、他者の痛みや苦しみ、悲しみに対して、真実の同情をもって、それらの人々の傍らに立ち、手を差し伸べることができるのは、イエス以外にないことをよく知っていたからではないでしょうか。わたしたちも、他者の傷の痛みに、もう少し敏感でありたいと思います。

(2)厳しく注意して

 この言葉は、もともと「馬が怒って鼻を鳴らす」という意味であったそうです。やはり岩波書店版の聖書では「激しく息巻き」と訳しています。わたしたちは、偉大な宗教家といえば、いつも泰然自若として、あまり心を動かさない人物を想像します。しかし、イエスはそうではありませんでした。ここには、怒りの形相で、声も荒々しく、どなっておられるイエスがおられます。イエスは何に向かって憤っておられるのか。一つの見方は、そのすぐ後に、「彼を去らせようとし」とあることに注目することです。重い皮膚病は、すべてではありませんが、現在のハンセン病です。この病気に罹った人は、社会から隔離されなければなりませんでした。それはごく最近まで続いてきた現実です。その人たちの苦しみと悲しみは、わたしたちの想像を絶しています。イエスが、激しく憤られたのは、そのような隔離を当然とする現実ではなかったでしょうか。イエスは彼を、そのような現実から解放されたのです。世の中の理不尽な現実に対する激しい怒りも、『イエスの心』の一面です。

(3)御心ならば

 同じ言葉が、十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で祈られるイエスの祈りの中にあります。この「御心ならば」という言葉の本当の意味を、わたしたちは理解できているでしょうか。それは、自分ではどうしょうもないから運命に任せることや、その運命が自分に都合がよければそれに任せるという意味ではありません。その真の意味は、自分ではいかんともし難い現実に直面したとき、心からひざまずいて神を信頼し、その神の自由に委ね、その上で、もし自分に願いが赦されるなら、救って欲しいと願うことです。イエスは、「御心ならば、この杯を取りのけてください」と祈られた。しかし、その願いは聞き届けられなかった。しかし、イエスが祈られた「御心のままに」は貫徹された。イエスは死から逃れることはできなかったけれども、イエスは死ぬことによって、死を克服し、真実の解放を成し遂げられたのです。

(牧師 広沢敏明)


2006年02月05日(日)(顕現後第5主日 B年) 晴れ
「 開かれた教会 」

――今日の聖句――
<わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。>[コリントの信徒への手紙T 9:19−20]
<体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。・・・目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前は要らない」ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。>[コリントの信徒への手紙T 12:14−22]

 この3主日、創立70周年記念誌(2005年11月発行)に掲げた3つの「教会のビジョン」ついて考えようとしています。前々週は「安らぎのある教会」、前週が「喜びにあふれる教会」でした。今日は、「開かれた教会」です。

 聖書からは、今日の聖句に掲げた2箇所が引用され、コメントには、このように書かれています。

 <教会の扉は、いつも開かれていなければなりません。教会の周りには第2の輪、第3の輪があって、次第に社会に溶け込んでいるのです。だれでも教会に自由に出入りし、そして、教会に来る者は、だれひとり不必要なものはなく、一人ひとり、その人にふさわしい役割を担います。>

 「開かれた教会」の考え方は、教会の歴史の流れで言うと、比較的新しい考え方で、第二次世界大戦後の世界のキリスト教における宣教姿勢の大きな転換に基づいています。それは、一言で言えば、「ミシオ・デイ(神の宣教)」といわれる考え方です。つまり、「宣教は神ご自身が先頭に立ってやられる。わたしたちは、それについて行くのだ、そして神は、教会にじっとしておられるのではなく、世の中の神が必要とされるところ、弱い人、病気の人、苦しんでいる人のところに行かれる」、という考え方です。

 それまで、宣教といえば、まだキリスト教を信じていない人々を、教会に連れてきて洗礼を受けさせることだと考えられていました。しかし、「ミシオ・デイ」の考え方は、わたしたちが、社会に出て行くこと、自分の家族のところへ、友人のところへ、そして弱い人たち、苦しんでいる人たちのところへ行くこと、そのこと自体を宣教の本質と考えるようになったのです。

 「第二の輪」は、わたしたちのすぐ周りにいる人々(或いは、グループ)で、わたしたちクリスチャンに理解があり、何かをしようとするとき、連帯が可能な人々を指しています。わたしたちの宣教は、先ずそのような人々から始めようということです。最初の聖句、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」は、その場合の姿勢を表しています。他者を変えるのは極めて難しいことです。わたしたちの宣教は、強引に相手を説き伏せることではありません。先ずは、自分のほうが変わること、つまり相手の立場に立ってみようとすることです。長い道程になるかもしれませんが、それは、いつかは、必ず報われます。わたしたちの生きる姿勢がいつかは相手を変えて行きます。それが「神の宣教」の働きです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Apr/03/2006 (c)練馬聖ガブリエル教会