――今日の聖句――
<主において、常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。>[フィリピの信徒への手紙 4:4]
<わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受ける。>[マタイによる福音書 10:42]
昨年11月に発行した創立70周年記念誌『共に生きる』に掲載した「これからの教会のビジョン」に、3つのビジョンを掲げました。今日は、その二番目の「喜びにあふれる教会」を考えて見ましょう。
聖書からは、今日の聖句にある二つの箇所が引用され、次のようなコメントが付けられています。
<心の底から湧き上がってくる本当の喜びは、「イエスの心」を生きようとするとき、与えられるものです。[イエスの心]は、あなたが日常生活の中で出会う他者や出来事から逃げず、関係を続けることです。>
「喜びにあふれる教会」としたのには、理由があります。最初は、「生き生きとした教会」、「元気のある教会」を考えました。検討の過程で、ある新聞社説に掲載されていた「心に病をもつ人の体験談」に出合いました。それには、次のようなことが書かれていました。
<「元気で働いていますか」と聞かれることが苦しい。「鳥といえども、餌を探すために働いているのだ」という配慮を欠いたメッセージに、働いていない自分は教会にいけなくなった。・・・教会に合う人を育てるのではなく、教会に来る人に合わせて育って欲しい。引っ張られてもついていけない時がある。神の言葉で引っ張ろうとしないで。>
これには、わたしたちが傾聴しなければならないことが沢山ありました。そして、単に「元気がある教会」「生き生きとした教会」というよりも、それらを含んで、教会に来るすべての人が受け入れられる言葉として選んだのが「喜びにあふれる教会」という言葉です。
コメントの前半、<心の底から湧き上がってくる本当の喜びは、「イエスの心」を生きようとするとき、与えられるものです>は、「喜びの手紙」と呼ばれる「フィリピの信徒への手紙」に寄っています。聖書は、「喜び」を単独で語ることはなく、必ず「苦しみ」や「嘆き」と関連して語っていることに注目したいと思います。使徒パウロは、自分に刺さった「とげ」(困難や弱さ)に苦しみつつも、その「とげ」を通って神に近づき、そこに真の喜びを見出しました。
コメントの後半、<[イエスの心]は、あなたが日常生活の中で出会う他者や出来事から逃げず、関係を続けることです>について考えて見ましょう。
よく、愛の反対は、憎しみではなく、無関心だ、と言われます。
わたしたちは、「善いサマリア人の物語」に出てくる、司祭やレビ人のように、強盗に襲われ倒れている人の、道の向こう側を通り過ぎることもできます。しかし、その人がのどが渇いているのなら、冷たい水一杯を差し上げることもできます。倒れている旅人を介抱したサマリア人の態度は、その人を無視しない、関係を絶たない態度と言い換えても良いように思います。「イエスの心」は、この関係を絶たない心です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」>[マタイによる福音書 11:28]
今日から、2月5日までの3主日は、昨年11月に発行した創立70周年記念誌『共に生きる』に掲載した「これからの教会のビジョン」ついて、ご一緒に考えてみたいと思います。
「これからの教会のビジョン」として次の3つのビジョンを掲げました。
今日は、最初の「安らぎのある教会」です。聖書からは、今日の聖句が引用され、次のようなコメントが付けられています。
「今、社会の中で、多くの人々が、子どもも、大人も、高齢者も、疲れ果てているように見えます。教会は先ず、すべての人たちにとって、安らぎ、いやされ、再び立ち上がり、社会に出て行くところとなりたいと思います。」
「わたしのもとで、休ませてあげよう」と聞いたとき、わたしたちは、苦労から解放されてホットしたり、ぐっすり眠ったり、ゆったり温泉につかる、ことを思い浮かべられるかもしれません。それはそれで間違いではないのですが、聖書が伝えるメッセージは、単に眠るというのではなく、「もう一度元気を取り戻して、目を覚まし、起き上がる」ということです。つまり、聖書は、わたしたちが、もう駄目だと思うような状態に置かれたとき、そこから逃避したり、そこでぐっすり眠り込んだりすることではなく、その中で立ち上がること、それを「休ませる」と言っているということです。
それでは、なぜ、真っ先に、「安らぎのある教会」というビジョンを掲げたかのでしょうか。それは、教会は、そのようにあることを最も社会から求められているのではないかと考えたからです。
現代日本社会の特徴について、@「世俗化」(科学技術万能主義)、A理念なき豊かさの追求、B「グローバリズム」を挙げたいと思います。戦後、わが国は、廃墟の中から、這い上がり、著しい経済発展を遂げましたが、その過程で、戦前持っていた精神的支柱を失い、それに代わるものを育てることができませんでした。そして、非常に競争的でかつ管理主義的な殺伐とした社会を生み出してしまったのです。
「人の心もお金で買える。お金で買えないものは何もない」と嘯くような社会は、決して健全な社会ではありません。このような社会の状況の中で、教会は、本来の自分を見失い、もがいている人々をしっかりと受け止めることを求められています。 主イエスが説かれた神の国は、わたしたちがいる社会とは対極にあるような世界です。それは、一人ひとりが、互いにかけがえのない存在として認められ、尊敬される世界です。
教会が、それに向かって挑戦しなければならないのは、教会にその力があるというのではなく、そうしなければ教会が教会と言えなくなるからです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、ナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと。イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」>[ヨハネによる福音書 1:47―49]
「どうしてわたしを知っておられるのですか。」この言葉には、ナタナエルの自分が正しく評価されたことに対する、喜びと驚きが込められています。
人間、誰しも自分が正しく評価されることを望んでいますが、正しく評価されることは極めて難しいことも事実です。正しく評価されないために悶々として日々を過ごすこともありますし、遂には、正しく評価されることを諦めてしまうこともあります。しかし、反対に、もし、自分を本当に正しく評価してくれる人に出会ったら、その人のためならすべてを投げ出してもよいと思うかもしれません。
ナタナエルは、イエスが、それほど深く自分を知っていてくださることを知ることによって変えられていきました。神さまは、ナタナエルをよく知っておられたと同じように、わたしたちをも知っていてくださいます。しかし、現代のわたしたちは、神がわたしたちをよく知っていてくださることを、どのようにして実感することができるでしょうか。
作家の曽野綾子氏は、「西欧の個人主義を支えている背景には、個人の行為は、はたの人間が、どれほど気に止めなかろうと、忘れようと、神だけは正確無比に記録するという意識がある」と言います。(『仮の宿』p282)
「私は、このことを、「神の視線(まなざし)を感じる」、と言い換えてもよいように思います。皆さんも、神の視線を感じられたことがありになると思います。頭の上か、背中か、前からか、誰かに見られている感覚です。人気のない路上に財布が落ちているとします。それを拾うとき、誰も一度あたりを見回すのではないでしょうか。人は誰も見ていない、しかし誰かに見られているという実感です。
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは有名な『菊と刀』の中で「罪の文化と恥の文化」ということを言いましたが、罪の文化とは、神の視線を感じる文化であり、恥の文化は人の視線を感じる文化といえるかもしれません。映画『タイタニック』で、豪華客船タイタニック号が沈んでいくとき、楽士たちが最後まで泰然と演奏を続けることができたのも、その意識の底には、神が見、記録してくださるという感覚があるからではないでしょうか。
旧約聖書にある詩篇の作者(詩人)も、神の視線をいつも感じていた人でした。詩篇139編の1節以下を味わってみましょう。
<主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知られ、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
・・・前からも後ろからもわたしの囲み、み手をわたしの上においてくださる。
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。>
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<そのころ、イエスはガリラヤからナザレに来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という声が、天から聞こえた。>[マルコによる福音書 1:9―11]
今日は、教会カレンダーでは「主イエスの洗礼の日」です。今日の聖句は、マルコによる福音書の主イエス洗礼の場面です。マルコは、その福音書を、イエスが洗礼を受けられる場面から書き始めました。この時、イエスは、神との深い絆によって結ばれ、自分の使命を自覚され、新しい人生を歩みだされました。この「イエスが新しい歩みを始められた日」に、成人祝福式を迎えることができたことは、また格別のことではないかと思います。
今日は、成人式を迎えられた皆さんのために、聖書の中から一つ言葉を選んでみました。マタイによる福音書の10章16節の次の言葉です。この中に「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という言葉があります。
<わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。>
この「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」は、いろいろな解釈がありますが、私は、「思慮深く、かつ、筋の通った生き方しなさい」というように理解しています。「しなやかに、されど凛として生きる」と言い換えてもいいかもしれません。
「しなやかで、されど凛として生きる」、そう簡単なことではありません。その場合、一つ大切な要素は、「複眼的な視野」を持つことではないかと思います。
「複眼的な視野を持つ」ことをもう少し具体的に考えると、一つは、過去、現在、未来にわたる長期的パースペクティブ(展望)を持つこと。二つ目は、物事を、表と裏というか、光と影というか、立体的な見方をするということ。3つ目は、相手の立場に立った見方ができること、ということではないかと思います。
単眼的な見方には、潔さがあり、ある種の説得力もあります。しかし、この世の出来事はすべてそれほど単純ではありません。私は、河合隻雄さんの『二つよいことさてないものよ』という言葉が好きです。物事には良いことばかり続くこともなく、また良いことの裏には必ず良くないことがあり、良くないことの裏には必ず良いことがあるということです。また、過去に起こった事実は変えられませんが、その評価は、時代により状況により変わってきます。また、一つの出来事の評価も、人により国により変わってきます。自分の見方しかできなければ、相手を理解することはできません。相手を理解できないところに平和は生まれません。
複眼的な見方は、ものの考え方に深さと広がりを与え、そしてその人自身の人間的な成長を促してくれます。それが、「しなやかに、されど凛とした生き方」を保証してくれるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<(羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた人は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせていた。>[ルカによる福音書 2:16―19]
明けましておめでとうございます。今日の聖句の中から、19節の「しかし、マリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせていた」という言葉を考えて見ましょう。
言葉の意味を少し詳しく見て見たいと思います。「心に納めて」という言葉ですが、この言葉の原語は、「損なわれないように、大切に保存しておく」という意味です。ですから、「心に納めて」というのは、ただ「心に留める」というようなことではなく、「一生大切に心の奥に大切にしまっておく」という意味を持っています。
「思い巡らす」は、原語では、「シュンバロー」という言葉が使われています。これは、英語のシンボル(象徴)という言葉の元になった言葉です。「シュン」は「一緒に」とか「共に」という意味の接頭語で、「バロー」は「投げる」という意味です。即ち、「シュンバロー」とは「二つのものを一緒に投げて、二つの間の繋がりを熟考する」ことを意味します。「はと」を「平和」のシンボル(象徴)というのは、「はと」と「平和」を一緒に足もとに投げてみて、それをよく見比べて熟考した結果、「はと」が、「平和」を表していると考えるようになったのです。
それでは、マリアは、何と何とを足もとに投げたのでしょうか。すぐ前を読んで見ますと、その二つが、「神の言葉」と「現実」であることに気がつくのではないでしょうか。
「神の言葉」、それは羊飼いが天使から聞いた言葉、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」でありましたし、マリアが天使ガブリエルから直接聞いた「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子といわれる」という言葉でもあります。一方、マリアの目の前には、寒く汚い馬小屋の中で、飼い葉桶に眠っている幼子がありました。マリアにとって、「神の言葉」(「自分の産んだ子が、救い主である」)と、「現実」(「飼い葉桶に眠る幼子」)がどのように繋がるか、それは全く想像のつかないことでした。しかし、マリアは、ただ驚き不思議がるのではなく、じっと、心の奥に大切にしまって、この神の言葉と現実の関係を熟考していました。このマリアの姿勢は、マリアにとって一生変わらぬ姿勢になりました。イエスの生涯の一部始終に立会い、常に、眼前にある現実のイエスと、そのイエスが救い主であることの意味を考え続けたのです。
このマリアの姿勢に、後世のクリスチャンたちは、信仰者として極めて重要なものを見出しました。わたしたちも、信仰が崩れ去るような不条理な出来事の巻き込まれることは少なくありません。今年も、幸せの多い年であって欲しいと願いますが、同時に、どのような苦難があっても、神に言葉をしっかり心にとどめ、現実を見すえながら、思い巡らすマリア態度を忘れないようにしたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |