――今日の聖句――
<それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、・・・祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。・・・イエスは、「安心になさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。>[マルコによる福音書 6:45−52]
今日の聖句から二つの言葉に注目したいと思います。「弟子たちのところに行き、そばを通りすぎようとされた」という言葉と、「イエスが船に乗り込まれると、風は静まり」という言葉です。
今日の聖句を読みながら思い出す旧約聖書の場面があります。預言者エリアの物語です。エリアは、異教の神バアルに心を寄せるイスラエルの王アハブに反抗したため、命を狙われることになり、荒れ野のホレブの山に逃げます。そこで、疲れ果て、死を覚悟した時、神は洞穴に隠れているエリアに語りかけられます。列王記上の19章です。
<見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主 はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。 火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」>[列王記下 19:11−13]
エリアは、神の「静かにささやく声」を聞くと、神の命に従って、再び立ち上がり、イスラエルの人々のところ戻って行きます。「風」でも、「地震」でも、「火」でもなく、その後の静寂の中に「静かにささやく神の声」を聞いたのです。「エリアよ、ここで何をしているのか」という声です。
わたしたちは、日常、いろいろなことに思い悩み、心があわ立っています。自分や身近な人の健康のこと、仕事のこと、子どものこと、介護のこと、人間関係、沢山の思い悩みに囲まれ、自分を見失ってしまうことがあります。そういうわたしたちにも、神は、そっとそばを通り過ぎていかれます。そして、静かにささやくように声をかけられます。「ここで、何をしているのか」。
イエスの弟子たちも嵐の中で自分を見失い、心が鈍くなっていました。だから、イエスがそばを通りすがれても、幽霊と思い、恐怖に襲われました。しかし、イエスの「安心しなさい。私だ。恐れることはない」の一言によって我に帰りました。風や地震や火の中で、一瞬訪れた静寂、そのようなとき、神がそばを歩かれる足音に耳を澄ましたいと思います。「ここで何をしているのか」、重い言葉です。わたしたちも、我に帰って、「本当になすべきことをしているのか」、自分に問いかけたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。:キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって 神の住まいとなるのです。>[エフェソの信徒への手紙 2:19−22]
<こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの 体を造り上げてゆき、・・・あらゆる面でキリストに向かって成長していきます。:キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによって しっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。>[エフェソの信徒への手紙 4:11−16]
今日の聖句で、「あなたがた」という言葉に注目したいと思います。これは「教会」を指しています。日本語で教会と訳された原語は、エクレシアと言い、「呼び出された者」という意味で、建物とか組織という意味はありません。明治時代、キリスト教が日本に伝えられたとき、これを教会と訳したために、教会とは何かありがたいことを教えてくれるところであるような誤解を生むことになりました。エクレシアという言葉は、初代教会時代、都市国家の議会を表す言葉でした。当時のギリシャ・ローマ世界は、都市国家というものを単位にして成り立っていました。それは、一つの国家(政治単位)が、堅固な城壁で囲まれた都市のような形態を取っていることから名付けられました。住民は、王様も家来も兵隊も職人も農民も奴隷もすべて、その城壁の中に住んでいました。
その都市国家の運営に当たって、大切なことは、議会で決められました。議会は、自由民の男性によって構成されました。税金や、他国と戦争するかどうかもそこで決められました。初代教会時代のクリスチャンたちは、このような議会、つまりエクレシアをよく知っていましたので、自分たちの集会の有様が、この議会と極めてよく似ていることから、それを自分たちの集まりの名前として使うことになったのです。
始めは小さな集会であった教会が、次第に人の数を増していく中で、現在の教会に見られるような礼拝の形や教会の制度が作られていきました。聖書(新約)自体もその過程で作られました。その中で、「教会とは何か」という自己認識も次第に深められて行きました。使徒パウロは、「教会は、この世において、主イエスの働きを継承する有機体(共同体)」という認識に達しました。このことを、教会は、「神の家族」、「聖霊の宮」或いは「キリストの体」と言います。これは、地上の他のどの組織や団体とも異なるものです。信徒たちは、自分たちが集まるとき、そこに、神の力が働らき、聖霊に満たされていることを実感したのです。
今日の最初の聖句は、信徒の集まりである教会を、建物にたとえています。そして、その土台は使徒や預言者であり、その「かなめ石」は、キリスト・イエス御自身であるといいます。「かなめ石」というのは、アーチ型石造建築で、アーチの一番上に載せる石のことで、これがないと、建物全体が崩壊してしまう最も大切な石のことです。
二番目聖句は、教会全体が一つの体にたとえられ、その中で一人ひとりが大切な役割を担っていることを強調します。「 しっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて」とあります。わたしたちは、それぞれ皆ちがう賜物をいただいています。丁度、ジグソーパズルの一つ一つのピースのように、誰一人不必要なものはなく、そして、キリストをかなめ(結び目)にして全体が一つになるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。>[エフェソの信徒への手紙 1:3―5]
使徒パウロの「エフェソの信徒への手紙」には、「教会」についての深い考察があります。聖書で「教会」と訳された原語は、エクレーシアと言います。エクレーシアは、「人の集まり」を意味しており、建物とか制度とか組織という意味はありません。
今日の聖句に、教会について、大切なことが幾つか挙げられています。
特に、「神の選び」に注目したいと思います。言うまでもなく、わたしたちが選ばれたのは、わたしたちが立派であったからでも、まして、わたしたちが他の人々を見下したり、差別したりするためではありません。大切なことは、それが、自分とは無関係に、ただ神の恵みによって起こされた事実であることを、喜びと感謝と畏れをもって受け入れることです。
わたしたちは、このような神の選びを、ただ喜びと感謝と畏れをもって受け入れた最初の人を知っています。イスラエル民族の始祖となったアブラハムです。アブラハムは、『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい』[創世記12:1]という神の命令に従がいました。彼とっては、故郷に止まっているほうがよほど安全で豊かな生活であるように見えました。しかし、神は、そのような安逸の中に止まっていることをお許しになりませんでした。神は、そのような、「地縁・血縁による共同体」を捨てて、「神を結び目とする新しい共同体」を形成することを要求されたのです。「神の民」の始まりです。神は、この共同体を通して救いを全人類に及ぼそうとされたのです。わたしたちは、そこに、今わたしたちがいる教会の起源を見ることができます。
しかし、この神の救いの計画において、イスラエルはつまずきました。それから千数百年の年月を経て、神の救いの計画は、新しい段階を迎えます。み子イエス・キリストの誕生とイエス・キリストによる支配の到来です。天と地のあらゆるものがイエス・キリストのもとに一つにまとめられる時が来るのです。しかし、その支配の時は、未だ来ていません。神は、アブラハムとその新しい共同体に人類救済の使命を委ねられたように、新しい段階においては、「教会」にその役割を委ねられました。教会は、この地上にあるどのような共同体や組織とも異なっています。現実の教会は、イスラエルがそうであったように、期待されている姿からはほど遠いかも知れません。しかし、この2000年間、教会はその使命を果たしてきました。教会が今ここにあることが、その証拠です。
繰りかえしますが、「神の選び」には、喜びと感謝と畏れをもって受け入るべきものです。喜びと感謝と畏れは、必ず、「応答」を迫ってきます。「わたしたちが神の民の一員であることは、決して特権ではなく、果たすべき責任であること」を心に刻みたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。>[コリントの信徒への手紙U 12:7―10]
今日の聖句に、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを 誇りましょう」という言葉があります。「弱さを誇る」、パウロらしい逆説的な表現です。
わたしたち人間は、何か強いところを見つけては、誇らずには生きていけないようなところがあります。わたしたちは、長い人生の中で、否応なく、突然の病気、思わぬ事故に巻き込まれることがあります。そのようなとき、わたしたちは、それを乗り越えるために、強さを求めます。「負けてはならない」「こんな自分であってはならない」「弱気になってはならない」と自分に言い聞かせます。このような危機を乗り越えようとする努力を否定するわけではありませんが、しかし、強さを誇ることでしか生きてこなかった人が、いかに無残な結果に陥るか、最近の新聞をにぎわせている二人の人物を思い浮かべます。巨万の富を築き、高層ビルに住み地上を眺めながら、その一人は「金で買えないものは何もない」と言い切っていたと報道されています。
パウロは、このような「強さを誇ることの危険」を知っていたのでしょうか、このように言います。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」。パウロの「とげ」が、どんな「とげ」であったか。慢性的な頭痛、極度の弱視、てんかん、マラリアなど、聖書学書はいろいろ想像しますが、本当のところは分かりません。パウロは、そのとげを取り除いて欲しいと、三度主に願ったとあります。しかし、パウロが聞いたのは、「わたしの恵みはあなたに十分である」という主の声でした。
わたしたちはみんな自分の中に、嫌なものを持っています。弱さも持っています。それらを「とげ」と言ってもよいと思います。この「とげ」がなかったら、この「とげ」を取り除いたら、自分はもっとよくなれるという思いを、みんな持っています。 しかし、神さまの目から見れば、どうでしょうか。この「とげ」があるために、人間が人間でいられるといえないでしょうか。「とげ」を取り去るとは、自らを完璧にすると言うことです。人間は、絶えず神に成ろうとする衝動に突き動かされてきました。もっと強く、もっと賢く、もっと豊かになろうという欲望です。しかし、所詮、人間は神になることはできません。神になることのできない人間が、神になろうとすれば、それは、もっとひどいものになる、人間が人間から外れていく、それは極めて危険なことではないでしょうか。
わたしたちは、いろいろな弱さを持っています。いろいろな重荷を背負わされています。それらの「とげ」が、消えてなくなればよいと願います。しかし、それはそれでよいのではないでしょうか。その「とげ」によって、傷つくかもしれませんし、失敗を繰り返すかもしれません。しかし、それによって人間は、自分を知り、成長していくのです。そこに、人間の想いを越えた、豊かさを見ることができるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったのです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるために慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願いでたのでした。また、わたしたちの期待以上に彼らは先ず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたのです。>[コリントの信徒への手紙U 8:1―5]
パウロの手紙を読んでいて気付くことの一つは、パウロの「エルサレムの教会に対する募金」への異常なまでの熱心です。パウロが、なぜ、これほどまでに熱い思いを「エルサレム教会への募金」に抱いていたか。それは、パウロが始めようとする異邦人伝道は、その母体であるエルサレムの教会がしっかりしていてこそ意味がある、「献金」は、「異邦人の教会」と「エルサレムの教会」の一致の「しるし」だ、そのように、パウロは理解していたからだと思います。
今日の聖句は、パウロが、この「エルサレムの教会への募金」のために、コリントの教会に献金を呼びかけているところです。パウロは、冒頭、マケドニアの教会での経験を挙げて、呼びかけます。「極度の貧しさがあふれ出て」というのは、分かりにくい表現です。そのため、「極度の貧しさにもかかわらず」と、言葉を補って訳した聖書もありますが、私は、むしろ、「極度の貧しさのゆえに」と理解した方がよいように思います。即ち、「極度の貧しさのゆえに、却って、その困窮の中で施そうとする時、人に施す喜びが満ちあふれ出てきて、真実の豊かさとなった、ということではないでしょうか。
続けて、パウロが呼びかける言葉の中には、献金の本質を表している言葉が幾つかあります。ここで、パウロは、献金とか募金という言葉を使っていません。その代わりに、別の3つの言葉を用いています。「慈善の業」と「奉仕」と「自分自身を献げる(献身)」という言葉です。「慈善の業」と訳された元の言葉は、「恵み」という意味です。また、「奉仕」は、「仕える」という意味、また、「献げる」は、「与える」という意味です。つまり、ここでパウロは、「献金」は、「恵み」であり、「仕えること」であり、「自分自身を与える」ことだと言っているのです。
わたしたちは、神さまからいろいろな恵みを受けています。金銭もその一つです。ですから、これらの恵みをあたかも自分の独占物であるかのように溜めておき、握りしめておくのではなく、他の人々も共にその恵みにあずかれるように心を配ること、それが恵みを受けたものの責任であり、そうすることが、また、大きな恵みではないか、とパウロは言うのです。
奉仕とは「仕える」こと、つまり、「他者と共に生き、他者のために生きよう」とすることです。パウロは、献金とは、まさに他者のために生きることに他ならないというのです。献金において、「恵み」と「献身」が見失われたとき何が起こるでしょうか。その時、献金は義務感に変わっていきます。そして、負担能力とか、金額の多少に関心が集中していきます。与える側には優越感を、受ける側に屈辱感を増幅していきます。そして、共同体は次第に弱められ、危機にさらされるようになるのです。
(牧師 広沢敏明)
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