――今日の聖句――
<だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。・・・わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。>[コリントの信徒への手紙U 4:16、18]
<だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。>[コリントの信徒への手紙U 5:9]
今日の聖句の最初に、『だから、わたしたちは落胆しません。』とあります。『落胆しません』と言うことは、その背後には、落胆しても当然な厳しい現実があると言うことです。
パウロは、主イエスに直接会ったことはありませんでした。また、回心する前は、クリスチャン弾圧の先頭に立っていました。そのため、パウロは本当に使徒なのか、本当にユダヤ人なのか、本当にクリスチャンなのか、本当に教会のことを思っているのか、そのような非難を浴びたのです。パウロを非難・中傷したのは、ユダヤ人クリスチャンで、特に保守的な人々でした。彼らは、パウロの使徒として職務を批判し、その働きを妨害するだけでなく、命までも狙いました。しかし、それにもかかわらず、パウロは『落胆しません』と言い切っているのです。
パウロは、なぜ、落胆せずにいられたのでしょうか。彼は、続けて「『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます」と言います。
『外なる人』とは、いずれは滅び去る肉体をもった生まれたままの自然な人間です。それに対し、『内なる人』は、そこで神の力が働き、イエス・キリストの「いのち」が表される人間です。
わたしたちは、どうしても「外なる人」に目を奪われ、「見えるもの」に目を注ぎがちです。常に他人の眼差しや評判を気にしながら生きているのではないでしょうか。誉められれば喜び、けなされればくさってしまう。そうして、日々が、滅びに向かって慌しく過ぎ去っていく。パウロは、正に、人間のそのような側面をよく知った人でした。
5章9節に、「ひたすら、主に喜ばれる者でありたい」という言葉があります。主によって赦され、使徒として召された者として、ひたすら、主に喜ばれようとして生きて行く。ここに、使徒パウロに原点があるように思います。その道は、決して平坦ではなく、危険に満ちた道でした。しかし、パウロは、そこで負った傷を通して、「外なる人は衰えても、内なる人は日々革新されていく」ことを経験し、確信したのです。
わたしたちも、思わぬ非難を浴びせられたり、中傷されたりすることもあります。パウロのように、何度も投獄されたり、死ぬような目にあったことはないかもしれませんが、「誰も、何も分かってくれない」と開き直りたくなることも少なくありません。そういうわたしたちにとっても、パウロのような人がいたことは、大きな励ましであり、慰めではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は 夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。』・・・」。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
>[使徒言行録 2:14―18]
今日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。この日は、「教会の誕生の日」として大切にされてきました。 2000年前のその日は、ユダヤ教の五旬祭の日で、エルサレムには各地から、巡礼のため多くのユダヤ人が集まっていました。聖霊降臨の出来事は、そのとき起こりました。大きな物音がすると、炎のような舌が現れて、人々の上にとどまると、人々は、いろいろな国の言葉で語りだしたのです。これを見た人々は、大変驚き、戸惑いました。中には、彼らは酔っ払っているのだと思う人々もいました。
これを目にしたペトロは、ぺテロが説教を始めます。ペトロは、この出来事が何であったのかを解き明かそうとします。歴史上最初の説教です。
「若者は幻を見、老人は夢を見る」。ここで「幻」と訳されている言葉は、英語ではビジョンです。将来への希望、展望、夢です。ペテロは、かつて預言者ヨエルが見たこの幻が、ここに実現した、と語り始めたのです。
昔、聖霊は預言者に与えられました。しかし、今や、聖霊は、息子や娘、僕やはしため、若者や老人、つまり老若男女、すべての人に与えられ、彼らが、預言を語り始めたのです。
続けて、使徒言行録は、その日、三千人が洗礼を受け、仲間に加わった、と書いています。この三千人の人々は、今朝までは、今日、自分が洗礼を受けるなどとは思っても見なかったのでしょう。ペテロ自身、自分が世界最初の説教をするなどとは思っても見ませんでした。イエスの十字架の後、途方に暮れ、おびえ、物影に隠れていた弟子たちが、再び宣教に乗り出したのです。これが聖霊降臨の出来事の核心です。
このようにして誕生した教会は、この時から宣教に乗り出します。ペテロは、一つの幻を見ます。エルサレムから開始された福音の宣教が世界に伝えられて行く幻です。小アジアからギリシャへ、ギリシャからローマへ、ローマから全ヨーロッパへ、それから海を越えてアメリカへ、更に、遂には、この極東の日本にまで伝えられます。昨年11月、わたしたちの練馬聖ガブリエル教会は、創立70周年を迎え、一つの幻(ビジョン)が与えられました。「これからの教会のビジョン」(『イエスの心を生きる』:@安らぎのある教会 A喜びにあふれる教会 B開かれた教会」)です。教会はこれまで、二千年間、幻(ビジョン)に生きてきました。これからも幻(ビジョン)に生きたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
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