今週のメッセージ――主日の説教から


2006年03月26日(日)(大斎節第4主日 B年) 晴れ
「 イエスは命のパン 」

――今日の聖句――
<ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。・・・人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が5つの大麦パンを食べて、なお残ったパン屑で12の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。>[ヨハネによる福音書 6:12―15]

 ヨハネによる福音書は、イエスは、その3年の公生涯において、毎年、過越祭のときエルサレムを訪問され、3年目のときに十字架にかけられて殺された、と書いています。
 他の福音書(共観福音書)には、イエスは、ただ一度エルサレムに行かれ、そこで十字架にかけられた、と書かれており、ヨハネ福音書とは大きく異なっています。

 共観福音書でのイエスは、時間的にも空間的にも、一直線にガリラヤからエルサレムに向かって進んでいかれます。これに対して、ヨハネによる福音書では、イエスの活動は、エルサレムの神殿における過越祭を中心に回転しているのです。

 今日の聖句は、いわゆる「5千人の給食の物語」の後半の部分で、二度目の過越祭での出来事です。このとき、イエスは自分が誰であるのかを明らかにしようとされました。ヨハネにとって、それを明らかにされる時と場所は、過越祭(子羊の血によってイスラエル人の先祖が救われたことを記念する祭)の時、エルサレムでなければならなかったのです。

 「5千人の給食の物語」は、4つの福音書すべてが書き残した唯一の奇跡物語です。しかし,共観福音書とヨハネ福音書では、この物語で伝えようとしたことは違っています。
 今日の聖句には、「イエスのなさったしるしを見て」とあります。イエスが、行われたこの奇跡は、「しるし」であったと、ヨハネは言っているのです。つまり、イエスがこの奇跡を行われたのは、イエスが何者であるかを示すためであったということです。

 共観福音書は、そうではありません。共観福音書の奇跡は、イエスが偉大な力を持った方であり、憐れみに満ちた方であることを示そうとしています。例えば、マルコ福音書は、イエスが奇跡を行われた動機をこのように書いています。「わたしはこの人たちが憐れでならない。もう3日もわたしをともにいて、食べるものもない。」そして、マルコ福音書では、人々がみじめな状態から救われたことで物語は終わっています。しかし、ヨハネ福音書では、その後の人々の行動を記録しています。「人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとした」。人々は、イエスを王として、自分たちをローマ帝国支配下の貧しく屈辱的な生活から解放してくれる指導者に担ぎあげようとしたのです。

 しかし、イエスの思いはそうではありませんでした。「5千人にパンを与えられたのは」、イエスが何者であるかを示す「しるし」でした。それは、イエスが人々の空腹を満たすことのできる力を持っておられることを示すものではなく、イエスご自身が「永遠のいのちのパン」であることを示すことでした。しかし、人々はそれを理解できませんでした。この二度目の過越祭では、人々の「もっと多くのパンを」という叫びの前に、イエスは、再び山に退くしかありませんでした。イエスと人々の出会いは、閉ざされてしまします。人々が、真のイエスに出会うには次の過越祭を待たねばなりませんでした。

(牧師 広沢敏明)


2006年03月19日(日)(大斎節第3主日 B年) 晴れ
「 熱情の神 」

――今日の聖句――
<あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・あなたはそれらに向かってひれ伏してはならない。それらに仕えたたりしてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。>[出エジプト記 20:4−6]

 今日の聖句は、出エジプト記20章「十戒」の一節です。神は、イスラエルの人々にご自身を、「熱情の神」として現されます。文語聖書や口語聖書では、「ねたむ神」と訳していました。元のヘブライ語では、「キナー」といい、「ねたみ」とも「しっと」とも、「献身」、「熱情」とも訳すことができます。「相手への、激しく、深い思い」を表している言葉です。

 旧約聖書の古い時代の人々にとって、この「熱情」は、「怒り」として感じられました。イスラエルの人々は、信仰を「神と民との契約」として理解していました。ですから、民族を襲ういろいろな苦難、疫病、戦争、天災などは、その背後に、自分たちの背信に対する神の報復的怒りを見てきたのです。しかし、時代が下がるに従って、ねたみ、怒る神をただ闇雲に礼拝することに満足できず、その背後に隠された神の意図を捜し求めようとする動きが出てきます。それが、ホセアやエレミヤ、エゼキエルという預言者です。これら預言者たちは、自分たちの国がアッシリアやバビロンと言う大国に蹂躙され、主だった人々が捕囚として拉致される中で、なぜイスラエルという民族がかくも過酷な運命に遭わねばならないかを必死で考える中で、次第に、隠された神の思いに気付いていきます。

 預言者エゼキエルは、このような神の声を聞きます。

 <「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ、罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心を新しい霊を作り出せ。イスラエルの家よ。どうしてお前たちは死んでよいだろう。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」>[エゼキエル18:30−32]

 預言者は、神の中に「慈しみと怒りの葛藤」を見、「神の本質は愛」であることに気づいていきます。神さまはわたしたちを愛するからこそ、罪に汚れた者、契約を守らない者を叱られるのだ、という認識です。そして、遂に、神の中で、愛が怒りを凌駕するときがやってきます。それがイエス・キリストの誕生です。福音記者ヨハネはこのように書きました。

 <神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>[ヨハネによる福音書3:16]

 今の世の中は、あまりにも、神からの離反に満ちています。神は、ノアの時代にそうされたように、人類をもう一度滅ぼしつくしてもよかった、しかし、そうはされなかった。神は、怒りを抑え、愛に徹しようされました。神の熱情は、やがて、この地上に真の平和をもたらすにちがいありません。わたしたちの信じる神は、人を救わずにはおれない「熱情の神」なのです。

(牧師 広沢敏明)


2006年03月12日(日)(大斎節第2主日 B年) 晴れ
「 人生を完成させる 」

――今日の聖句――
<こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。>[ヘブライ人への手紙 12:1]

 昨年11月に発行した創立70周年記念誌に掲載した「これからの教会のビジョン:課題(4)『高齢者と共に』」に、このように書かれています。

 <年を取ることは、体からいろいろな力を失わせますが、そのために教会の交わりから疎外されることがあってはなりません。ことに高齢の方との意思疎通(コミュニケーション)には充分配慮がなされなければなりません。高齢期は人生を完成させる大切な時です。>

 「人生を完成させる」とはどういうことでしょうか。私は、「終わり良ければ、すべて良し」という諺が、よく当てはまるように思います。人生には幾つかの節目があります。幼年期、少年期、青年期、壮年期、高齢期。青年期や壮年期にいかに輝いていても、過去の栄光は次第に色あせていきます。それぞれの時期に、輝くことの大切さは言うまでもありませんが、今、ここで輝いていることが重要なのです。最後の時期が充実したものであれば、人生全体が充実したものとなり。逆に、もし最後の時期が充実したものでなければ、人生全体が、色あせたものになるに違いありません。その意味で高齢期は大変重要な意味を持っています。輝くといっても、必ずしも活動的なことだけを指しているのではありません。聖心女子大学教授でセラピストでもある鈴木秀子さんに、『死に行くものからの言葉』と言う著書があります。その中で、一人の友人の最期の時のことを書かれています。

 <四日前の夜八時半ころ、苦しみが一瞬消えたかと思えるほど平和な雰囲気が病室に満ちました。健康ならこれからも長年生きられるはずの彼女に何かが起こったと私は感じました。彼女は目を大きく開き、ゆっくり厳かな声で私に話しかけました。
 「聞いてください。これはあきらめではありません。
  私は人生をまっとうした気がします。」
 この時を境に、彼女は苦しいと訴えはしたものの、最期まで心はいつも他者への思いやりに満ちていました。>

 これは、仮に病気に襲われたとしても、最期の最期まで、他者への思いやりに生きることによって、人生全体を完成された例です。

 わたしたちの「いのち」は、神さまから与えられたものというのが聖書のメッセージです。その「いのち」を、最期まで生き抜くことが、わたしたち人間に求められていることです。今日の聖句は、「最期まで忍耐強く走りぬくこと」を訴えています。その意味で、聖路加国際病院の日野原先生が、「生涯現役」とモットーとし、75歳以上の人に「新老人運動」を提唱されていることに共感します。75歳を越して、なお新しいことに挑戦する精神、それが「生涯現役」の秘訣ではないでしょうか。ただ、精一杯生きるといっても、頑張りすぎて悲壮感が漂わないようにしたいと思います。私も65歳を越えました。それなりに苦労もしましたし、悲しみも味わいました。高齢期はもっと明るく軽やかに生きたいと思います。主イエスの十字架の先には復活があります。一皮剥けた、軽やかさの中で、精一杯生きると言うことです。

(牧師 広沢敏明)


2006年03月05日(日)(大斎節第1主日 B年) 晴れ
「 信仰の継承 」

――今日の聖句――
<それから霊は、イエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑をうけられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。>[マルコによる福音書 1:12−13]

 昨年11月に発行した創立70周年記念誌の「これからの教会のビジョン:課題(3)『信仰の継承』」に、このように書かれています。

 <信仰は、一つの生き方を選ぶことです。子どもたちの生き方は、子どもたち自身が選ぶものではありますが、親として、教会として、子どもたちがどういう生き方を選ぶかについては責任があります。子どもたちの自主性を尊重することと、子どもたちに正しい生き方を教えることと混同してはなりません。今、信徒の家庭においても教会離なれが進みつつあり、信仰の継承が問われています。>

 わたしたちは、信仰の継承がうまくいっていないことに危機感を感じています。子どもたちが教会に行ってくれないと言って嘆きます。今日の聖句に、「霊は、イエスを荒れ野に送り出した」とあります。「荒れ野」とは、どういう場所でしょうか。文字通り荒れ果て荒涼とした場所で、草木一本も生えていないユダの砂漠地帯を想像していただいてもよいのですが、精神的な意味で、人間が作り出した現代の荒涼たる都市を思い浮かべてもよいかもしれません。神から人間を引き離そうとするあらゆる誘惑が充満しているところです。このような現代の「荒れ野]において、「信仰の継承」は極めて困難な様相を呈しています。しかし、マルコは、「イエスは、その荒れ野で試みに遭われて、それに勝利された」と書きました。

 「ケセン語聖書(東北・ケセン地方の方言による聖書)」を完成された山浦玄嗣氏は、自分の子育てのことを『父さんの宝者』という本に書きました。彼は8人の子どもに、カトリックの信仰を伝えていきますが、その愛に溢れた苦闘の記録です。

<父親は一家の主である。その双肩にはまばゆい光が輝く。家族の長としての責任をしっかりと担い、堂々と力強く一族の行く手を切りひらき、つぎの世代を育てる。これが父親の栄光であり、誇りである。その足は巨木のごとく大地を踏まえ、その腹は大海のごとくすべてを飲み込み、その胸は火山のように熱き思いを宿し、その肩は大岩のごとく、その頭は高い山峰のごとく大空にそそり立ち、太陽をも支える力に満ちた双の腕に妻と幼子を守る。 ・・・わたしはこの国では少数派のカトリック信者の家庭の子と生まれ、育った。親たちはキリスト教の精神をしっかりとわたしに教育してくれた。わたしもその信仰を受け入れて大人になった。・・・子どもたちの投げかける奇想天外な危機的問題を相手に、彼たちにとって偉大な父親たらんと志して泥まみれの苦戦を続けた父親の手記がこの本である。>(『父さんの宝物』より)

 わたしたちは、山浦氏の情熱には脱帽せざるをえませんが、いずれにしても、この問題には、家庭においても、教会においても、手軽で格好の良いハウ・ツウはないと言うことです。イエスが荒れ野で勝利されたことを信じながら、真剣に、情熱をもって、泥と糞にまみれながら、体でぶつかっていく、それしかないのかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Apr/03/2006 (c)練馬聖ガブリエル教会