――今日の聖句――
<真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によって、ささげられた者となるためです。」>[ヨハネによる福音書 17:17―19]
今日の聖句は、ヨハネによる福音書の17章、「大祭司の祈り」の一節です。ヨハネによる福音書では、主イエスは、十字架にかけられる前夜、最後の晩餐の後、「告別の説教」といわれる長い説教をされ、その後、この「大祭司の祈り」といわれる祈りを奉げられます。自分が十字架にかけられた後、残される弟子たちのための「とりなしの祈り」です。
この祈りに、「ささげる」という言葉が二度出てきます。その前には「聖なる者にしてください」とあります。原語では、この「聖なる者にする」と「ささげる」という言葉は、いずれも同じ言葉で、「聖別する」という言葉が使われています。「聖別する」とは、「切り分ける」という意味です。ですから、「神さまのために特別に切り分ける」とき、「ささげる」という意味にもなります。
6月11日に4人の方が洗礼を受ける準備をされています。洗礼の霊的意義は、「聖別される」ということです。「弟子たちを聖別された者としてください」と、イエスが祈られたと同じように、「わたしたちも聖別された者」とされるのです。
「わたしたちが聖別される」とはどういうことでしょうか。これまで犯した罪をすべて赦されることでしょうか。これからは悪い思いや行いをしなくなるということでしょうか。それとも、主イエスが十字架に掛かられたように、わたしたちも殉教せよ、ということでしょうか。
ある人が、「わたしたちが聖別される」ということは、「わたしたちが、『神の働きの輝きを見るまなざし』を持つことではないか」と書いておられるのが目にとまりました。つまり、この世のすべての存在、あらゆる出来事、自然の移り変わりや人間社会の出来事や歴史の中に「神の働きの輝きを見るまなざし」を持つということです。
体操の教師で、授業中に鉄棒から転落して首の骨を折り、車椅子生活を余儀なくされた詩人の星野冨弘さんは次のような詩を書いています。
<いつか草が
風に揺れているのを見て
弱さを思った
今日
草が風に揺れているのを見て
強さを思った。>
星野さんの目には、初め弱さとしか見えなかった風にそよぐ草が、次第に強さに見えてきたのです。世の中のすべての出来事には、表があり裏があります。その両方を見る目と言ってもよいかも知れません。洗礼を受けて、昨日までの自分と今日の自分が、どのように変わったか、はっきり目に見える変化はないかもしれません。しかし、確実の変わることがあります。それは、世の中を見るまなざしが変わってくることです。「神の働きの輝きは」、誰にでも見える表に輝いているのではなく、物事や出来事の裏に隠れています。その隠れたところに輝く神の栄光を見るまなざしが与えられるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。>[使徒言行録 11:25−26]
<「あなたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」>[ヨハネによる福音書 15:16]
今日の聖句に、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と書かれています。「キリスト者」と訳された言葉は、原語ではクリスティアノスという言葉、つまりクリスチャンという言葉です。
これは、弟子たちが自分たちのことを、そのように呼んだということではなく、教会の外の人々が弟子たちのことを、そのように呼び始めたというのです。「クリスチャン」という呼び名は、「キリストに従う者」という意味ですが、「罪人として十字架につけられて殺されたイエス・キリストを神として信じる変な奴ら」という軽蔑を込めた呼び方だったそうです。しかし、この呼び名が、現在に至るまでイエス・キリストに従う人々の呼び名になりました。それは、その呼び名を、そう呼ばれた弟子たちが、軽蔑されていると知りながら、むしろ、イエス・キリストに従おうとする自分たちに「ふさわしい名」として受け入れたからではないでしょうか。
今、幾人かの人々と洗礼の準備を進めています。既に洗礼を受けてクリスチャンとなった人も、自分が洗礼を受けたときのことを思い出していただければと思います。
大方の人は、親や友人、あるいは牧師や教会の人たちに勧められたにせよ、最終的には、自分の自由意志で決断してクリスチャンになった、と思っておられるのではないでしょうか。しかし、今日の二つ目の聖句に注目したいと思います。「あなたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」という言葉です。これは、襟を正して聞かなければならない重い言葉であるように思います。「あなたがたは、自分の自由意志でクリスチャンになったと思っているかもしれないが、実は、そうではない、わたしがあなたを選んだのだ」と主イエスは言っておられるのです。
なぜ、わたしたちが選ばれたのか。選抜試験に通ったわけでもありません。特別に信仰心が厚かったわけでもありません。どこか見所があったのでしょうか。そうではありません。わたしたちが選ばれたのは、「選ばれていることに、気付かされた」と言い換えたほうがよいかもしれません。神さまは、すべての人を招いておられるのですが、その招きに気付く人は少ないのです。ある神学者は、「クリスチャンであることは、選ばれてあることを、選ぶこと」と言っていますが、その通りではないでしょうか。
自分の自由意志で選んだのなら、また自分の自由意志でやめることもできると考えます。信仰生活も、順境ばかりではありません。なぜ、自分にこのようなことが起きるのか、今まで、熱心に教会に行き、献金をし、奉仕活動をしていたのは何のためだったのか、神さまはわたしのことなど少しも見ていてくださらない、という思いが込み上げてくることもあります。そのような逆境のときも、わたしたちがクリスチャンであり続けることができるのは、主イエスの「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。・・・フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえた。・・・
「彼は、羊のように屠殺場に引かれていった。
毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。
卑しめられて、その裁きも行われなかった。
誰がその子孫について語れるだろう。
彼の命は地上から取り去られるからだ。」
・・・そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のあるところに来た。・・・フィリポは、宦官に洗礼を授けた。>[使徒言行録 8:27―38]
今あるエチオピア人の高官が馬車に乗って聖書を声を出して朗読していました。彼は、エルサレムの神殿に礼拝し、故郷に戻る途中です。当時、エチオピアにもユダヤ人の集会ができていたといわれますから、そこで、神を知ったのではなかったでしょうか。今、彼は、はるばる長い旅の末、念願のエルサレムの神殿への巡礼を果たし、帰路にあります。
彼の朗読している聖書は、イザヤ書です。読み進むうちに、読み過ごせない箇所に出会った。イザヤ書53章7,8節です。彼は、ここに書かれている事柄が、他人事とは思えなかった。
『卑しめられて』とあります。彼は、卑しめられてきました。彼は、宦官です。男性としての器官を失わせられた者です。古代の女王の宮廷では、アジアでも中東地域でも、女王に仕えるものはそのような者が選ばれました。彼のこれまでの人生は、屈辱に満ちていました。
次に、『誰が、その子孫について語れるだろう』とあります。彼は子孫を残すことができない。宦官となってしまった自分は、自分の子供を通して自分の命を後世に伝えて行くことはできない。個人が家族や部族と一体化し、子孫を繁栄させることが、自己の存在意義であるような時代の中で、子どもを持てないことは、自分の存在意義を否定することでした。
フィリポが、聖書をどのように解き明かし、どのようにイエスの福音を伝えたか、また、彼が、イエスをどのように理解し、どのように信じたのか、聖書は何も記していません。 しかし、道を進んで、水があるところに来ると、彼は、馬車を止めさせ、フィリポから洗礼受けると、喜んでエチオピアへ帰っていきました。
彼は、それまで、常に他人から卑しめられてきましたし、自分で自分を卑しめることもありました。しかし、今、彼は、それまでとは全く異なるメッセージ、イエスの福音をはっきりと聞いたのです。自分も「尊ばれる者」であること、「神によって愛されている者」であること、「神に生かされている者」であることをはっきり知りました。そして、自分の「いのち」は死によって断絶し、滅び去るものでない、自分の「いのち」は、絶対に滅びることのない永遠の「いのち」に繋がっていることを信じたのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。― 狼は羊を奪い、また追い散らす。― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。>[ヨハネによる福音書 10:11−12]
今日は、「良い羊飼いの日曜日」と言われます。古くから、復活日から暫く経ったこの時期に、ヨハネによる福音書10章の「良い羊飼いの譬え」が読まれる伝統がありました。
わたしたち日本人にとっては、羊や羊飼いは身近な、馴染み深いものではありません。 しかし、イエスが生活されていたイスラエルでは、羊や羊飼いは、極めて日常的なものでした。わたしたち、日本人が、この「よい羊飼いの譬え」の本当の意味を理解するためには、イスラエルにおける羊と羊飼いの関係を知っておかねばならないように思います。
イスラエルの羊飼いは、羊を本当に大切にしていました。羊が狼や盗人の餌食にならないように、夜は寝ずの番をし、迷った羊がいればとことんまで捜しました。そして一匹一匹に名前を付けて呼んでいました。一方、羊は、長い期間、家畜として飼われてきた結果、野生を失っていました。外敵から身を守る牙も、早く走る足もなく、食べ物さえ自分では捜すこともできなくなっていました。羊飼いに頼らなくてはい生きていけない動物でした。イスラエルの人々は、身近に目にするこの羊と羊飼いの関係に、人間と神の関係を見たのです。
イスラエルの羊飼いがすべて良い羊飼いではなかったようです。雇われ羊飼いが、実際に危険が身に迫ると逃げてしまうこともよくあったようです。だから、イエスは、「わたしはよい羊飼いである」と呼びかけられます。主イエスは、羊がそうであるように、わたしたちが、結局はひとりでは生きて行けない者、弱い者だと言うことを熟知しておられます。
わたしたちは、職場で、学校で、家庭で、いろいろな困難に出会います。仕事をしくじったり、事業に失敗したりします。勉強がうまくいかないことも試験にしくじることも、自分が病気になることも、家族や身近な人が病気になることもあります。人に批判されることも、疎まれることもあります。わたしたちを最も苦しめるのは、「誰も自分を理解してくれていない」という思いです。「人間は、大概のことには耐えられるが、『孤独』にだけは耐えることはできない」と言った人がいます。また、「金ですべてのものが買える」と言った人もいますが、そんなことができないことは子どもでも知っています。人間は、一人では生きていけない存在です。他者に頼らなければ生きていけない存在なのです。他者に頼ろうとすること、それは愛を求めることです。しかし、愛というものは、ただ求めたからといって、すぐ与えられるものではありません。「わたしを愛してください」と頼まれて、「はい、そうですか、愛してあげましょう」と言う人はいないでしょう。
主イエスは、わたしたち一人ひとりがいろいろな困難を抱えていることをご存知です。そして、言われます。「わたしは良い羊飼いである。あなたのことをよく知っている。なぜ、そこで怯むのか、うずくまるのか。わたしが一緒にいるではないか」と。だから、わたしたちは、再び立ち上がり、歩き出すことができるのです。しかし、この呼びかけに応える人は必ずしも多くありません。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |