――今日の聖句――
<ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。>[ヨハネの黙示録 1:4−6]
教会の暦では、いよいよ今年度最後の主日になりました。この日は、伝統的に「主イエスの再臨」がテーマです。すべてのものが、キリストのもとに再び集められ、あらゆる束縛から解放されることを願いつつ、主イエス・キリストの降誕を待ち望む降臨節を迎えようとするものです。
今日の聖句は、「ヨハネの黙示録」の冒頭の一部です。1世紀の末近く、小アジアでは、ローマ帝国による最初の組織的な迫害が、ドミティアヌス帝の下で吹き荒れていました。この迫害を逃れて、一人の人物がエーゲ海に浮かぶパトモスという小さな島にやって来ます。この人の名はヨハネと言いました。彼は、霊に導かれるままに、これから起こる出来事を幻に見ます。彼は、その幻を書き綴って、迫害に苦しむ小アジアにある7つの教会に送りました。それは、迫害に苦しむ教会にとっては、大きな励ましと慰めとなりました。
現在の日本では、クリスチャンだからといって、それだけの理由で迫害を受けることはありません。しかし、別の形で、わたしたちを神から引き離そうとする力は、決して小さくありません。目に見える暴力的迫害は、多くの信徒を震いあがらせ、棄教を余儀なくさせましたが、一方では彼らを団結させ、その信仰を鍛えたのです。しかし、現代の目に見えない、神から人々を切り離そうとする力は、知らず知らずのうちに、人々の心を蝕んでいきます。
今日の聖句には、主イエスがどういう方であるのかを七項目にわたって書き綴っています。その最初が、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉です。ヨハネは、わたしたち人類の歴史、また、わたしたちの人生の一齣一齣が、すべて神の働きによって包みこまれていること、そして神の祝福の手の中にあることを、過酷な迫害の下にある仲間に是非分かってほしいと呼びかけているのです。
わたしたちの人生は、いつも順調である保証はありません。不条理で過酷な運命に翻弄されるようなときもあります。そしてのような時、わたしたちは、しばしば神の存在を疑い、途方にくれ、遂には信仰を捨ててしまうようなことさえも起こります。正に、このようなとき、ヨハネが、繰り返し繰り返し叫んだ、わたしたちの信じる神は、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方だ」というメッセージを心に留めたいと思います。
最後に「アーメン」とあります。アーメンという言葉は、「然り、そのとおりです」という意味です。ユダヤでは、日常的に、他者が語る言葉を真実として受け止め、また自分が語る言葉を真実として伝えようとするときに用いられるとのことです。
今、わたしたちが、アーメンと唱えるのは、人の言葉に対してではなく、この世界の歴史を祝福のうちに始められ、今祝福しておられ、祝福のうちに終わらせてくださる神のご意思に対して「アーメン」と唱えるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続 けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。・・・生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた 初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともありました。・・・自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。>[ヘブライ人への手紙 10:26−35]
教会の暦では、今年も残すところ2主日のみとなりました。次の主日は、今年最後の主日で、伝統的に「キリストの再臨」が主題とされてきました。このこととの関係で、今日の主日は、終末が近づき、キリストの再臨を迎える日まで、苦難と混乱が続く世の中をクリスチャンとしてどう生きるかがテーマになっています。
ヘブライ人への手紙は、初代教会時代、ローマにおいて、クリスチャンであるがために迫害を受け、苦難の中にある人々への励ましと慰めの説教ではなかったかと言われています。今日の聖句の前半は、「警告」です。「神の手に落ちる」とは、「神に裁かれる」ということです。後半は、一転して「励まし」となります。
聖書には、二つの対立する重要な概念がたびたび登場します。この「警告と励まし」もそうですが、「裁きと恵み(救い)」、「十字架(死)と復活」、「内在と超越」などです。聖書を正しく理解するためには、それをしっかり捉まえなければなりません。それらは、丁度、うなぎを捉まえるのに両手でしっかり捉まえなければならないように、片手だけでは、つるりと逃げられてしまいます。片手で「裁き」を、もう一方の手で「恵み」を捉まえておくことが必要なのです。
わたしたちの信じる神が、「恵みの神」であり、「わたしたちの弱さを十分ご存知であり」、「弱い者に徹底的に愛を注がれる神」であることに違いありませんが、しかし、それだけを強調しすぎると、わたしたちが困難に遭ったとき、神を見失ってしまうことにもなりかねません。恵みの神が、どうして自分にそのような仕打ちをされるのか分からなくなってしまうからです。遂には、神を非難し、神を疑い、それまでの信仰は、いとも簡単に崩れていきます。
一方、「神への恐れ」を余り強調しすぎると、これもまた信仰をゆがんだものにしてしまいます。この世の中の不条理や、身に降りかかってくる理由の分からない苦難に対して、それを受け入れ耐えていく信仰は、人間の力を超えた神の力への畏怖と限りない恵みへの希望があって、初めて可能になるのです。この二つを両手でしっかり捉まえることを可能にするのは、論理ではありません。それを可能にするのは経験と感情です。ヘブライ人への手紙の著者は、読者に洗礼を受けた頃の経験を思い出させながら、「励まし」を語ります。わたしたちも、一人ひとり自分の経験と感情を大切にしながら聖書をより深く理解したいものです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが「第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』こ の二つにまさる掟はほかにない。」>[マルコによる福音書 12:28−31]
今日は、礼拝の中で、児童祝福式を行います。心から子どもたちの健やかな成長と幸せを祈りたいと思います。
最近の子どもたちをめぐる環境は大変厳しいものがあります。子どもたちに関して、心痛むニュースは、毎日、テレビや新聞に報道されます。いじめ、児童虐待、家庭内暴力、不登校、学級崩壊、引きこもり、自殺・・・。このような出来事が、わたしたちの身の回りに普通に見られるようになり、危機感を感じるようになったのは、ほぼ15年位前からではないでしょうか。これらの事件を見て、つくづく思うことは、この社会は深く病んでいるということです。そして、その社会の病は、その社会の最も弱い者のところに現れます。子どもの世界に起こっていることは、どの時代においても、どの社会においても常に大人の世界に起こっていることの反映です。今の子どもたちをめぐる世界は極めて複雑で、その病根は深いのですが、子どもたちが幸せに生きる条件として最も基本的なことは、子どもたち一人ひとりが、自分の存在をかけがいなく大切なものであると感じることではないでしょうか。
今日の聖句で、イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたことに注目したいと思います。「自分を愛すること」が、「隣人を愛すること」の前提であることを意味しています。神はわたしたち一人ひとりをこよなく愛されました。その神が愛され自分を愛すること、それは第一の掟「「神を愛すること」にほかなりません。現代の子どもの世界に起こっていることの根源は、愛されていることを実感できない子どもが増えていることです。わたしたちは、生まれたときから豊かに愛される経験によって、自分の大切さを知るようになります。不幸にして愛されることの少なかった子どもは、自分を価値のない者と思うようになります。そして、自分の大切さを知った子どもは、他者を愛する能力を身につけていきます。人は、豊かに愛されることによって、自分を愛し、自分の周りにいる人々を愛するようになっていくのです。
最近、『少年A、矯正2500日の全記録』という書物を読みました。1997年、世の中を震撼させた神戸児童連続殺傷事件の加害者、当時14歳であった少年Aの社会復帰の記録です。彼は、府中市の少年医療院に入れられます。少年院のスタッフは苦慮しますが、もう一度、赤ん坊に遡って人格形成をやり直すことを考えます。そこで、擬似家族を構成し、母親役の精神科女医と父親役の法務教官を中心に、ふんだんに愛情を注ぎ、抱きかかえ続けます。2年、3年が経つうちに、彼は次第に心を開き始めます。そして、7年という長い歳月を要しますが、遂に社会復帰を果たすことになります。この記録は、「人「人にとって愛がいかに大切か。他人の痛みを分かるために不可欠なことは、人に愛されているという実感であり、いじめられた子どもは、自分の心の痛みは分かるけれども、他人の痛みはわかることはできない」、ということを改めてわたしたちに教えてくれます。
今、子どもの世界に起こっていることは、わたしたち大人の世界がどんどん神から遠ざかっていることの反映であることを心に刻みたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。・・・目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。>[コリントの信徒への手紙T 12:14、21−27]
今日は、この練馬聖ガブリエル教会の71回目の創立記念日です。教会では、「記念」という言葉をよく使います。教会で「記念」といった場合は、一般と違った意味で使っています。それは、「単に、昔の出来事を懐かしく思い出す」というのではなく、「かつて起こった事件が、今ここで起こっている」、「それは、今も尚現実である」ことを意味しています。ギリシャ語で「記念」のことを「アナムネーシス」といます。この言葉は、わたしたちが、礼拝の中で最も大切にしている聖餐式の本質を表す言葉として用いられます。つまり、聖餐式は、2000年前、イエスが十字架にかかられる前夜、弟子たちと共にされた食事(最後の晩餐)が源になっていますが、その食事がその後ずっと、現在も続いていることを意味しています。逝去記念式も同じです。11月は「死者の月」といわれますが、それは、年に一度、逝去された方々を、ただ懐かしく思い出すのではなく、すでに逝去された方々と一緒に祈りを捧げているのです。
この教会を創立された皆川晃雄司祭は、日本聖公会の初代主教C.M.ウイリアムスの直弟子の一人でした。振り返れば、主イエスの福音は、イスラエルからローマ、ローマからイギリス、イギリスからアメリカを経て2000年かってこの練馬に地に到着したのです。気の遠くなるような長い年月と、おびただしい人々の働きがその背後にあることを思うとき、思わず圧倒される思いにかられます。わたしたち、今、ここに、その歴史に先頭に立っており、おびただしい人々の群れとともに礼拝を捧げているのです。
このように綿々と継承されてきた教会に求められる最も大切なことは福音宣教です。福音宣教という、この一点において、教会は一致しなければなりません。しかし、その一致は、普通考えるような一致ではありません。教会は学校のように同じ年代の者が集まるところでも、会社のように同じような能力を持った者が集まるところでもありません。教会は、生まれたばかりの赤ちゃんから100歳のお年寄りまで、健康な人も、そうでない人も一緒に集まるところです。現代の日本社会には、そのようなところは他にはありません。この雑然とした者同士が互いにいたわりあって調和していくところが教会です。この有様を、使徒パウロは、今日の聖句にあるように、体と部分に譬えました。これはまた、ジクゾーパズルにも譬えられます。すべてのピースは違った形と色を持っており、どれ一つ欠けても完全な絵を描くことが出来ません。また、オーケストラにも譬えられます。一つ一つの楽器は異なる音色を出しながら、全体として、素晴らしいシンホニーを奏でるのです。
これらの譬えに共通するのは「補完」です。教会の一致は、皆が同じになることではなく、互いに補完しあうことです。異なる者が、自分と他者を大切にしながら、自分の音と他者の音に耳を澄ましながら補完しあう。教会における一致とは、このような「補完し合うこと」であることを心に刻みたいと思います。これから、この練馬聖ガブリエル教会が、どのような絵を描き、どのような豊かな音楽を奏でることが出来るか、楽しみにしながら、新しい歩みを始めたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
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