今週のメッセージ――主日の説教から


2006年09月24日(日)(聖霊降臨後第16主日 B年) 晴れ
「 人間の愚かさを見つめる 」

――今日の聖句――
<一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。>
[マルコによる福音書 9:30−34]

 9月20日、自民党総裁選挙において、安倍晋三氏が第21代総裁に選ばれました。新総裁は、「改憲」と「教育基本法改訂」に意欲的だと伝えられています。その背景には、戦争責任を強調することを「自虐史観」として退ける思潮が広がっていることがあります。

 しかし、この考え方は、かつて日本が朝鮮半島や中国、また、沖縄で犯した過ちに目をつぶろうとするものではないでしょうか。確かに、人間だれしもいつまでも過去の古傷に触れられるのは気持ちのよいものではありません。できれば過去のことは水に流して、明るい未来を語りたいものです。しかし、たとえそれが醜く恥ずかしい行為であっても、それを直視し、事実の中にしっかりととどまりながら、もう二度と過ちを犯さないという決意を持って歩いていくところに、国として、また一人ひとりの人間として、深みのある成長があると思います。

 このようなことを考えるとき、どうしてもわたしたちが、耳を傾けなければならない言葉があります。ドイツの戦後40年目の記念日に当時のヴァイツゼッカー大統領が行った、『荒れ野の40年』という演説です。

 <目を閉じず、耳をふさがずにいた人々、調べる気のある人たちなら、ユダヤ人を強制的に移送する列車に気づかないはずはありませんでした。・・・しかし、現実には、犯罪そのものに加えて、あまりにも多くの人たちが実際起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。・・・問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。>

 今日の聖句に、弟子たちは「だれが一番偉いのか」を議論していた、とあります。聖書は、弟子たちの言動を、美化することなくあからさまに描いています。聖書は彼らをもっと美化することもできた。しかし聖書はそれをしませんでした。聖書は、信仰深くも、謙虚でも明敏でもなく、俗物で、野心家で、愚かで、あさましく、過ちをおかしがちな彼らの姿をありのままに描きました。旧約聖書も同じです。旧約聖書は、人間の愚かさ、あさましさ、残酷さを、これでもかこれでもかと描いています。

 真の平和は、戦争の悲惨さ、人間の愚かさやあさましさから目をそらさず、直視するところから生まれてくるものではないでしょうか。わたしたちが、十字架を高く掲げて見つめるのは、それが神聖だからでも美しいからではありません。そうではなくて、それが悲惨さの極致であり、人間の愚かさとあさましさの極限を指し示しているからこそ、わたしたちは十字架を見つめるのです。罪人として十字架の上で血にまみれ、苦痛にのたうちまわったイエスの死に様は、真に平和を求めるものの姿を現しているのです。

(牧師 広沢敏明)


2006年09月10日(日)(聖霊降臨後第14主日 B年) 晴れ
「 教会(5):愛の御業に参加する 」

――今日の聖句――
(1)<それからまた、イエスは、・・・ガリラヤ湖にやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置 いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すこと ができるようになった。>[マルコによる福音書 7:31−35]
(2)<そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。・・・荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。>[イザヤ 35:5−6]

 今日の聖句(1)の「イエスが耳の聞こえない人をいやされる奇跡」は、聖句(2)の「預言者イザヤの言葉」があって、初めてよく理解することができます。福音書を書いたマルコが言いたかったことは、「イザヤの預言」が、今、実現しつつあるということです。今、目の前におられるイエスこそ、イスラエルの民が何百年待ち焦がれていたメシア(救い主)なのだ、ということです。

 しかし、当時のイスラエルにあって、多くのユダヤ人は、このマルコの言葉を信じませんでしたし、現在なお、ユダヤ教は、これを信じていません。「イエスは、預言者の一人だったかもしれないが、彼はその使命を果すことに失敗したのだ、メシアが人に殺されるなどとは、ひどい話しではないか」というのが、ユダヤ教の基本的な考え方です。「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」と言うが、現実の世の中は、その通りになっていないではないか。われわれが生きている世界では、依然貧困はなくならず、差別がはびこり、戦争は絶え間なく起こっている。メシアの到来によって新しい世界、新しい秩序が始まる、というが、何も変わっていないではないか。これが彼らの言い分です。

 クリスチャンはそのようには考えません。確かに、現実は貧困がなくならず、差別がはびこり、戦争は絶えなくても、イエス・キリストの十字架によって、確かに人類の救済は成し遂げられ、新しい世界が始まったのだ。ただ、現在は、その完成までの過程にある。神の人類救済の愛のみ業は、現在も続けられている。もし、あなたが、現実に、「目の見えない人が放置されており、貧困がなくならず、差別がはびこり、戦争が絶え間なく起こっていることに気付き、そのことに心を痛めるならば、神のみ業の進行を妨げている事柄の解決に、あなたも参加すべきではないか。これがキリスト教の基本的な考え方です。宣教とは、このように「すべての人を救おうとする神の愛のみ業」に参加していくことです。

 今日の聖句(1)「耳が聞こえず舌の回らない人」は、わたしたちを含む、現在の世の中の人のことかもしれません。人と人、国と国の間には大きな不信が横たわり、疑心暗鬼が支配しています。イラク戦争の引き金となった大量破壊兵器は遂に発見されませんでしたし、また、この国では、「ひきこもり」や、「自殺」が社会現象にまでなって、ずいぶん時間がたちましたが、社会の病は一層深まっているようにさえ見えます。 家庭で、学校で、職場で、人と人との血の通ったコミュニケーションが枯渇しつつあります。宣教は、この干からびかけている世界に、再び水を湧きださせ、川が流れるために、神の愛のみ業に参加していくことです。

(牧師 広沢敏明)


2006年09月03日(日)(聖霊降臨後第13主日 B年) 晴れ
「 教会(4):ミシオ・デイ(神の宣教) 」

――今日の聖句――
<どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。>[エフェソの信徒への手紙 6:18―20]

 先々週、教会に欠かせないものが二つある。それは聖餐式と宣教である、と申し上げました。今日は、宣教について、もう少し詳しく考えて見たいと思います。

 宣教とは、福音を宣べ伝えることです。福音とは、「よい知らせ」という意味です。その内容を端的に言えば、「主イエス・キリストは、わたしたちを救うために、十字架にかかって死に、三日目に復活された」ということです。それが、「よい知らせ」だというのは、「わたしたちは、既に、救われている」という知らせだからです。

 わたしたちは、救われるためには、「何か善いよいことをしなければならない」とか、「強い信仰を持たねばならない」と思っているところがあります。しかし、聖書は、「あなたがたは、既に救われている」と言っているのです。これが、聖書のメッセージの核心です。ですから、宣教とは、「もし、あなたが神の救いに気付くならば、まだそれに気付いていない人たちに、そのことを伝えることが当然ではないか」、ということです。

 キリスト教2000年の歴史の中で、宣教の考え方も変わって来ました。ことにこの3、40年の間に大きく変わりました。前の時代の考え方は、「啓蒙主義パラダイム(枠組み)」とも呼ばれ、この考えは、14世紀のルネッサンスから第二次世界大戦後まで欧米のキリスト教世界を支配しました。この時代の特色は、社会のあらゆる面で、「人間中心主義」、言い換えると「人間の理性に対する信頼」が著しく高まったことだと言われます。欧米のキリスト教各派は、国家の帝国主義的な植民地拡張政策に相乗りして、世界各地に出かけて行き、世界をキリスト教で塗りつぶそうとしたのです。しかし、19世紀も後半に入るといろいろな矛盾が明らかとなってきました。南北の貧富の格差は却って拡大し、遂には二度にわたる世界大戦を引き起こしてしまいました。これによって、「人間の理性に対する信頼」は決定的に挫折してしまいます。戦後、教会は、大きな岐路に立たされました。それまでの教会のあり方に対して徹底的な反省を迫られたのです。その契機になったのが、(1)戦争責任の告白、(2)植民地の独立への対応、(3)人種差別等の撤廃運動でした。

 新しい宣教のあり方を表わす言葉として、各教派が共通して受け入れることになったのが「ミシオ・デイ」(「神の宣教」)という言葉です。その意味するところは、「宣教は、神のみ心にその起源を持つ」ということです。 それまでは、神は教会を通して働かれ、救いは教会の中にあると考えていました。しかし、新しい宣教のパラダイムでは、神はこの世界で宣教を先導されると考えます。神が病人のところに行かれれば、そこが宣教の前線になります。神がホームレスのところに行かれれば、そこが宣教の前線になります。教会にとって宣教とは、その神の働きに参加することということになります。そのためには、神がどこで、どのように宣教されているのか、神のみ心がどこにあるのか、目を凝らし、虚心に耳を傾けなければなりません。今日の聖句には、「祈り」という言葉が沢山でてきます。生涯を宣教に奉げた使徒パウロは、大胆に行動しましたが、その一方で常に祈り、また、教会の仲間に祈って欲しいと願った人でもありました。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Nov/14/2006 (c)練馬聖ガブリエル教会