――今日の聖句――
<「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。>[ヨハネによる福音書 10:1−6]
伝統的に、今日は「良い羊飼いの日曜日」と呼ばれ、ヨハネによる福音書の10章が読まれます。ここに、「羊飼いと羊の関係」が示されています。そして、その関係は、「神とわたしたちとの関係」と同じだということを言おうとしています。わたしたちの神さまは、わたしたち一人ひとりの名前を知っておられ、わたしたち一人ひとりを、その名前で呼んでくださるのです。
ルカによる福音書の4章の40節にこのような記事があります。
<日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。>
イエスは、病気の人一人ひとりに手を置いていやされました。決して、「ここにいる人、皆よくなれ」とは言われなかった、イエスは、一人ひとり、その顔を見、話しを聞き、その固有の歴史と存在に深い共感をいだき、そして頭に手を置かれました。
わたしたちの人生には、いろいろ注文があります。生まれてからこれまで、すべて順風満帆という人もたまにはおられるかもしれませんが、多くの人は、そうは行かないと思っておられるのではないでしょうか。真面目にこつこつ生きているのに、思いがけない出来事に遭遇します。「どうして、わたしだけがこのような目に遭わねばならないのか」「神さまは、本当に、わたしのことを見ていてくださるのか」、そのようなつぶやきがつい口から出てしまうこともあります。
それは、人生そのものが、そのようなものであるからではないでしょうか。そのような答えのない問いを抱いたまま生きていき、死ぬのが人生ではないか、ということです。
イエスは、そのような答えのない人生の只中に来られたということです。そこにイエスの誕生があり、イエスの十字架が立っているのです。そのような答えのない人生、「なぜですか」「どうしてですか」といくら尋ねても答えのない人生において、イエスは、わたしたち一人ひとりの苦しみ悩み悲しみに耳を傾け、頭に手を置いてくださるのです。
わたしたちは、神に願い祈ります。しかし、いくら祈ってもその通りにはならないことも知っています。しかし、もし苦しみと悲しみに満ちた人生をそのまま受け入れて、すべてを主イエスに委ねて生きられるようになるならば、その願いがかなえられても、かなえられなくても、そのこと自体は、もうどちらでも大差ないのかもしれません。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。>[ヨハネによる福音書 21:9−14]
ペテロは、他の6人の弟子たちと一緒に、ガリラヤ湖に来ており、漁に出かけました。徹夜して漁をしたにもかかわらず、何もかかりません。そのとき、岸からイエスが呼びかけられます。「船の右側に網を打ちなさい」。すると、夥しい魚がかかりました。ペテロは、岸に向かって泳ぎはじめます。岸に向かって泳ぐペテロの頭裏には、イエスとの3年間の出来事が走馬灯のように駆け巡ったのではなかったでしょうか。ペテロには、大きな悔恨がありました。イエスを捨てて逃げまどい、イエスを裏切ったという後ろめたさです。
しかし、ペテロが岸に上がって見たものは、火を起こし、パンを用意し、魚を焼き、朝食の準備をしていてくださるイエスでした。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」といわれます。もう、弟子たちには、そこに立っておられるのが誰であるのかはっきり分かっていました。言葉はいりません。どの弟子たちの目にも涙でいっぱいでした。
食事をすることは、極めて日常的な出来事です。そして、食事は、命をつなぐ営みです。その日常的で、命をつなぐ営みの中に主イエスがいてくださることが弟子たちの新しい原点になりました。弟子たちは、自分たちが、これからなすべきことに改めて気づかされました。しかし、その仕事が生やさしいものでないことは、主イエス自身よくご存知でした。主イエスは、そういう弟子たちのために「最後のもてなし」をされたのです。
イエスの福音を宣べ伝える道は、丁度、ペテロたちが徹夜で漁をしても何もとれなかったと同じように、一生懸命働いても、ほとんど収穫はない、ただ疲れだけが蓄積されるものかもしれない。或いは、道の途中で命を落とすかもしれない、そういう弟子たちのために、主イエスは食事を用意していてくださったのです。弟子たちは、その後、苦難や悲しみに遭遇するたびに、このときのことを思い出し、食事のたびに、甦りの主イエスが、そばにいてくださることを実感したのです。
最後に出てくる言葉、
<イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた、魚も同じようにされた。>
これは、わたしたちが今行っている聖餐式を表しています。聖餐式は、主イエスご自身が、パンと魚を用意し、わたしたちをもてなしてくださる出来事です。甦りのイエスは、いつもわたしたちと共におられます、そして、疲れている者をいやし、悲しんでいる者を慰め、苦しんでいる者に安らぎを与えてくださるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。・・・ さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」>[ヨハネによる福音書 20:24−29]
復活のイエスに、真っ先に出会ったのはマグダラのマリアでした。これと対照的に、残された十一人の弟子たちの中でも、最後に復活のイエスに出会ったのがトマスでした。
トマスは、ヨハネによる福音書では3回しか登場しませんが、大変重要な役割を果たしています。彼の言った言葉が4回あります。
(1)<「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」>[ヨハネ 11:16]
勇ましい発言です。当時、エルサレムでは、イエスの暗殺計画がうごめいていました。トマスは、弟子たちの中でも、熱血漢でした。
(2)<「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」>[ヨハネ 14:5]
最後の晩餐の後の、イエスと弟子たちの決別の場面です。トマスは現実・合理主義者でした。
(3)<あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」>[ヨハネ 20:25]
他の弟子たちが復活のイエスに出会った時、トマスだけは、その場所にいませんでした。
なぜ、このときトマスだけがその場所にいなかったか分かりません。このために、トマスは、後世、「疑いのトマス」と呼ばれるようになりました。トマスは懐疑主義者でした。
トマスは、「イエスと一緒に死のうではないか」と言っておきながら、いざそれが現実になると、死を恐れて逃げまどいました。トマスは、そういう自分に、深い絶望を感じたのではなかったでしょうか。自分の弱さを思い知らされたのです。トマスが、他の弟子たちから離れて一人でいたのは、自分自身と人間すべてに深い絶望を感じたからかもしれません。
(4)<「わたしの主、わたしの神よ」>[ヨハネ 20:28]
人間不信と絶望に陥っていたトマスに、イエスは語りかけられます。トマスが、実際にイエスのわき腹に手を入れ、十字架の傷跡に触れたかどうか分かりません。ただ、そのとき、トマスはイエスの無限の愛に触れ、イエスの中に永遠の命があることを知ったのです。トマスは、懐疑から希望に転換することができました。人間不信と絶望という深い闇に落ち込んでいった懐疑主義者・現実合理主義者トマスは、現代社会の中であがいているわたしたちの姿とつながってこないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<そして、週の初めの日の明け方早く、婦人たちは準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。>[ルカによる福音書 24:1−8]
今日は主イエスのご復活を記念する日です。聖公会では、復活日の前1週間を聖週と呼び、復活日を迎える準備をします。ことに金曜日は、主イエスが十字架にかかられた日で、「受苦日」と呼び、この日の礼拝では、十字架の死について思いを深めます。
「主の十字架と復活」はひとつのことです。「神の子が、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた」というメッセージを初めて聞いたとしたら、どうでしょうか。それは、信じがたく、驚くべきことです。それは、神の神秘に満たされていて、わたしたち一人ひとりが、黙想を通して納得するしかありません。しかし、わたしたちは、それを初めて聞いた時の驚きを風化させてはなりません。
わたしは、このところしばらく、ルカよる福音書の『放蕩息子の譬え』が頭にこびりついて離れませんでした。殊に、次の言葉です。
<父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。・・・兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。>[ルカによる福音書 15:20、28]
この「憐れに思い」と訳された元の言葉は、「内臓がちぎれるように痛む」という意味を持っています。なぜ内臓がちぎれるように痛むのか。それは、父親の心が二つに引き裂かれるからです。二つの心とは、「怒り」と「愛」です。放蕩の限りをつくした息子に対する「怒り」と、それにもかかわらず、その息子を赦そうとする「愛」です。その意味で、父親の行動に腹を立てた兄は、父親の「怒りの心」を表しているとも考えられます。父親は、その引き裂かれ痛む心をもって、その大きな手に息子を抱きかかえたのです。
この「痛む心をもって息子を抱きかかえる父親」と、「十字架上に悶え苦しんで死に、復活されたイエスを見守る父なる神」が重なってきます。父である神は、放蕩の限りをつくす人間に対する「怒り」と、それにもかかわらず、その人間を赦そうとする「愛」に、その心が引き裂かれておられるのです。旧約の民は、自分たちの神を「熱情の神」と呼びました。「熱情の神」は、わたしたちの神でもあります。「熱情の神」は、「怒り」と「愛」のいずれをも曖昧にせず、その引き裂かれ痛む心をもって、わたしたち人間を大きく包んでくださる神です。その痛みによって、わたしたちは癒され、救われたのです。「主イエスの十字架」は、父である神の「怒り」を、「復活」は、人間を大きく包む「愛」を表しているように思います。信仰とは、この驚き保っていくことです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなけれ ばならなかった。しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。:ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。>[ルカによる福音書 23:17−25]
今日の聖句は、イエスが、ローマの総督ピラトによって裁かれる場面です。ここでは、イエスがエルサレムに入城されるとき、あれほど熱烈の歓迎した民衆も、手のひらを返したように、「十字架につけろ」と繰り返し叫びます。この最終段階に至って、イスラエルの指導者やローマのピラトだけでなく、イエスが愛した民衆も、弟子たちまでもが、つまりすべての人間がイエスを審き、十字架につける側に加担していきました。
ここで、わたしたちが、立ち止まって考えなければならないことは、そのとき、神はどうされていたかということです。旧約聖書の中で、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたときは、神は直前でそれを止められました。しかし、イエスのときは何も起こりませんでした。このことは、神もまたイエスを審かれた。イエスが十字架につけられるのを同意されたということを意味していないかということです。
「神がイエスを審き、十字架につけられた」とはどういうことでしょうか。ここに、イエスの十字架の死の神秘が隠されています。それは、神が義であるなら、その義は貫徹されねばならず、また、神が愛であるなら、その愛もまた貫徹されなければならないということです。神の義が貫徹するとは、神の審きは厳然と行われなければならないということです。人間存在が罪であるなら、それは審かれなければならない。究極の審きは死刑を意味しています。それが、イエスが人間のすべての罪を背負って十字架で殺された、ということです。神は、人間の罪を、イエスの十字架という形で審かれたのです。
それでは、神の愛はどのように貫徹されたのでしょうか。それが、イエスの復活ではなかったでしょうか。弟子たちは、復活のイエスに出会ったときから、再び、福音宣教に立ち上がりました。それまで、恐れ逃げまどっていた弟子たちは、自分たちは、イエスを裏切ったのもかかわらず、イエスに愛されていることを確信したのです。
神の義と愛は、神の本質です。そのせめぎ合いの中に、救いの神秘が隠されています。主イエスの十字架と復活、それによってわたしたち人間は救われたのです。わたしたちは、徹底的に愛されることによってのみ、自分の存在の確かさを信じることが出来るのです。それが救いです。「主イエスの十字架と復活」は、神の徹底的な「審きと愛」を現しています。
(牧師 広沢敏明)
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