今週のメッセージ――主日の説教から


2007年12月30日(日)(降誕後第1主日 A年) 晴れ
「 神の似姿が意味すること 」

――今日の聖句――
<神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を 従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」>[創世記 1:27−28]

 今日の特祷(この日のために定められた祈り)で、このように祈りました。

<全能の神よ。あなたは驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、さらに驚くべきみ業より、み子イエス・キリストによって、その似姿を回復してくださいました。どうか、主が人性を取って、わたしたちの内に来られたように、わたしたちも主の神性にあずからせてください。>

 「神はご自分にかたどって人を創造された」とは、どういう意味でしょうか。今日の聖句には、その意図を、「海の魚、空の鳥、地の上を這う物をすべて支配せよ」と書いています。「支配せよ」ということは、人間が欲望のままに振舞ってよいということではありません。人間が高い知性と自由を与えられたのは、神が造られたこの世界の秩序と平和を維持・管理するという使命を果たすためです。しかし、果たして、人間はその使命を充分果たしてきたといえるでしょうか。

 主イエス・キリストがこの世に来られた後も、人間は、どんどん神から遠ざかろうしています。13世紀、イタリアのルネッサンスに始まる人間中心主義の流れは、止まるところを知りません。15世紀の宗教改革、18世紀の産業革命と啓蒙主義、それに続く科学の発達、資本主義のグローバル化は、ますます人間を神から離なれさせてしましました。人間は、その使命をほとんど忘れかけているように見えます。

 人間は、かつてない快適で豊かな生活を享受するようになりましたが、その一方で地球そのものの秩序、平和を破壊しつつあり、ついには生命の存在すら危機に陥れようとしているのです。人間が神の似姿に造られたということは、他のすべての被造物のために生きるためにほかなりません。しかし、人間は、その使命を忘れ、自己の快楽のため、自己の欲望を充足させるためにその能力を使いはじめました。その結果、神が人類に与えた最高の賜物である地球の調和を破壊し、「いのち」さえも操作しようとしています。快適な生活を追い求めた結果もたらされた地球温暖化などの環境破壊、そして、生殖医療で代表される「いのち」の操作は、わたしたちの存在を根底から問いかけているのではないでしょうか。

 人間として、本来大事にしなければならないものは何であるのか。人間一人ひとりの生き方、価値観を改めて考え直す時期に来ているように思います。

(牧師 広沢敏明)


2007年12月25日(日)(降誕日 A年) くもり
「 イエスと出会う 」

――今日の聖句――
<初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったもの は何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・
 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神のとなる資格を与えた。>
[ヨハネによる福音書 1:1−5、11]

 クリスマス、おめでとうございます。今年は、皆さまお一人ひとりにとってどんな年だったでしょうか。教会として特に嬉しかったことは、例年より多くの方が洗礼・堅信を受けられたことと、教会に6人もの赤ちゃんが与えられたことです。子どもたちは教会の宝です。それだけで教会が元気になります。

 イエスの誕生を記念するクリスマスは、わたしたちがイエスに出会うときでもあります。欧米には、子どもたちのための素晴らしい「クリスマス物語」が沢山あります。ロシアの文豪トルストイが書いた『靴屋のマルチン』という童話があります。最近、読む機会がありました。これは、「クリスマス物語」ではないのですが、クリスマスにふさわしい童話です。

 このような書き出しで、始まります。

 <ある町にマルチンという、独り者の靴屋がいました。地下の一室が店で、そこで寝起きしていました。その部屋には明かり取りの窓が1つあるきりでしたが、そこから往来を行く人々の足元が見えました。靴を見ただけで、マルチンはそれが誰か分かりました。長いことその街に住んでいたので、たいていの人の靴は彼が直していたのでした。>

 マルチンは、ある冬の夜、眠りについた後、不思議な声を聞きます。「明日、お前に会いに行くから」という声です。翌日は寒い雪の降る日でした。多くの人々が店の前を通り過ぎていきましたが、いくら待ってもそれしい人物は現れません。そのうち、雪かきの老人が店の前を通ります。マルチンは招き入れてお茶を振舞います。ふと外を見ると、赤子を抱いた貧しい婦人が寒さに震えながら壁に寄りかかっています。マルチンは、呼び入れると、赤ちゃんに野菜スープを与え、婦人には古い毛皮のコートと少しのお金を握らせます。それから大分経つと、表で騒ぎが起きました。りんごを盗もうとした少年が物売りお婆さんに捕まえられたのです。マルチンは二人の仲裁をします。少年とお婆さんは仲直りし話をしながら去っていきました。その日が暮れ、マルチンは、がっかりして床に就きました。暫くすると、マルチンに親切にされた人たちが次々に現れます。そのとき、マルチンは実はその人たちがイエスであったということに気づいたのです。

 クリスマスは、イエスと出会いのときです。もし、あなたが、今イエスを見失っているとしたら、一度見失ったイエスとの再会のときでもあります。わたしたちは、どのように、主イエスに出会うのでしょうか。このクリスマスが、皆さま一人ひとりにとって、主イエスに出会うとき、或いは再会のときとなればと思います。

(牧師 広沢敏明)


2007年12月24日(日)(クリスマス・イヴ A年) 晴れ
「 生き方を問い直す時 」

――今日の聖句――
<天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。>[ルカによる福音書 2:15−16]

 クリスマス、おめでとうございます。今、わたしたちは、主イエス誕生までの人類の歴史を聞きました。そして、その歴史が決して美しいものでも、正義に満ちたものでもなく、むしろその反対に汚く、不正に満ちたものであったことを知ります。そして、更に、主イエス誕生後の歴史も、それほど美しいものでも、正義に満ちたものでないことを知っています。

 今年も残り少なくなりましたが、この1年、皆さまは、何を見、何を感じ、何を思われたでしょうか。私がこの一年を振り返って強く印象に残ったことは、地球温暖化について、多くのことが報告され、その論議が少しは真剣味を帯びてきたことです。

 科学者グループは、地球温暖化は、可能性の問題ではなく、「疑う余地がないこと」を断言しました。これまで、「大げさな、あんなのは本当じゃないさ」、「誰かが、自分たちの利益のためにしていること」と言っていた国や人も、「どうやら、これは本当のことだ」と気づき始めたことです。

 この問題が初めて取り上げられたのは1988年です。アメリカの地球物理学者ハンセン博士はこのように言いました。 「地球の平均気温が異常な率で上昇しつつある。これは、自然現象ではなく、人間活動によるもので、とくに化石燃料の大量消費という現代文明によってもたらされたものである。」

 それから20年、現実に世界各地から異常気象が伝えられるようになりました。その影響は、わたしたちの廻りにも見られるようになりました。今年の夏は、暑い夏でした。各地で、過去最高を更新しました。昨年の冬は、ほとんど雪が降りませんでした。

 地球温暖化が最もはっきり現れるのは、海水面の上昇です。21世紀の終りには、約1メートル上昇するという研究もあります。人間の生活はいろいろな意味で水と深い関係にあります。南方の珊瑚礁上の国、多くの美しい都市や農耕地帯が水に沈むでしょう。

 また、気候の変化によって、大きな影響を受けるのは、農業、林業、漁業です。一方、世界の人口は急ペースで増加しています。食料不足は一段と深刻化することは間違いないと考えられています。

 現在が、地球温暖化のどの段階にあるかについては未だ定説がありませんが、問題の深刻さは、ある時点を越えると歯止めが利かなくなる、ということのようです。それが正しいと分かったときには、もう手遅れとなることです。ですから急がねばならないのです。人間は、科学技術の大きな進歩によってかつてない豊かさを獲得しました。しかし、その豊かさが、人類の危機への要因を作り始めていることに、わたしたちはもっと敏感にならなければならないように思います。

 今日は、クリスマス・イヴです。イエスさまがどのような姿でお生まれになったか、それをしっかり心に刻む必要があります。ベツレヘムの汚い馬小屋の飼い葉桶の中に眠っている幼子イエスは、「謙虚さ」の象徴です。わたしたちは、もっと謙虚にならなければならないのです。主イエスの降誕を記念するクリスマスを、「わたしたちの生き方を問い直す時」にしたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2007年12月23日(日)(降臨節第4主日 A年) 晴れ
「 おとめが身ごもって男の子を産む 」

――今日の聖句――
<見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。>[マタイによる福音書 1:23]

 今日は、日曜学校の子どもたちが、大変元気に降誕劇をやってくれました。

 今日の聖句に、「おとめが身ごもって男の子を産む」とあります。このようにして生まれてきた男の子が、イエス・キリストです。わたしたちは、イエス・キリストが神の子であると信じています。つまり、神の子が人間から産まれるということであり、人間から産まれた子どもは人間であるということです。わたしたちは、教会で、このようなことを繰り返し聞いていますから、当たり前のことのように思っています。しかし、改めて考えてみますと、これは天地がひっくり返るくらい仰天すべき出来事だということです。歴史上、それまで一度もなく、それ以降も一度もなかった出来事です。

 この出来事は、当時のユダヤの人々にとっても夢にも思ってみなかったことでした。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地であり、人々は一様に貧しく自由のない生活を強いられていました。しかし、ユダヤの人々は、いつかは必ず神から使わされたメシア(救い主)が現れて、自分たちを解放し、すべての国の支配者にしてくれることを、何百年も待ち望んでいました。そのメシアは、天から雲に乗って大勢の軍勢を従えて降りてくるはずでした。メシアが、人間の女から、貧しい馬小屋の中で生まれるなどということは全く信じられないことでした。しかし、神は、誰もが信じられないような仕方で、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。ここにクリスマスの大きな意味が隠されています。

 あの分厚い旧約聖書が何を語っているか、それは、アダムとイブの物語から始まる、人間の神への反逆の歴史、人間の神からの離反の歴史です。神と人間とは約束を交わしました。人間が、その約束を人間が守れば、繁栄を保証するという約束です。しかし、人間はその約束を破り続けました。聖書は、人間がどんなときに、どのように約束を破ってきたかを書き記したかの記録です。

 それにも関わらず、神は、人間との約束を守ろうとされます。人間との関係を回復しょうとされます。そのために遣わされたのが預言者です。しかし、人間は預言者の語ることを聞き入れようとはしませんでした。そして、遂に、神は、考えられないような仕方で、人間に最後に手を差し伸べられました。それが、イエス・キリストの誕生です。

 神が人間になるという信じられないことが起こったのです。人間になるということは、人間が持っているあらゆる限界を身に帯びるということです。死ぬこと、病気にかかること、老いることから逃れることはできないということです。そして、生きていくためにはあらゆる苦しみ、悩み、悲しみを身の内に抱えるということです。イエス・キリストは、このような人間の悲しみも喜びもすべてをつぶさに経験されました。だから、わたしたちは安心して、イエス・キリストにすべてを委ねることができるのです。

 このようにして、神は人間への愛を貫徹されました。わたしたちは、その愛によって救われたのです。これがクリスマスの意味です。

(牧師 広沢敏明)


2007年12月16日(日)(降臨節第3主日 A年) 晴れ
「 イエスさまを指す矢印 」

――今日の聖句――
<目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。>[マタイによる福音書 11:5]

 キリスト教会では昔から教会歴という暦を守ってきました。教会暦というのは祝日と斎日とからなっています。それだけではなく教会では昔から伝統的に、使徒、伝道者、殉教者、立派な聖職者などクリスチャンの模範となる人を聖人と定めて、彼らの生涯を記念し崇敬する慣習があります。教会は彼らの祝日を定めて彼らの生涯を記念し神さまの恵みと祝福に感謝する礼拝を行ってきました。通常、聖人はこの世を去った日を記念するが、誕生した日が祝日となっている人物は3人います。イエス様と聖母マリア、そして洗礼者聖ヨハネです。

 降臨節を迎えている今、先週に続いて福音書は洗礼者ヨハネの話を語っています。洗礼者ヨハネの誕生の経緯は、ルカによる福音書に記されています。老い祭司ザカリアとその妻エリザベトとの間には長い間子どもができませんでしたが、天使のみ告によって誕生しました。ヨハネは神のみ言葉を語る預言者となり、神の国が近づいたと悔い改めを説いて、ヨルダン川で人びとに洗礼を施しました。イエスさまも彼から洗礼を受けました。今日の福音書は投獄されていた時の話です。イエスさまを待ちに待って、前もって道を備えた洗礼者ヨハネは、「イエスさまがどのように働きをなされているか」と気になって弟子を送ってイエスさまにお訪ねさせます。イエスさまはご自分の働きを話してから、洗礼者ヨハネの弟子が帰ってから、群衆に「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と、預言者以上の立派な者だと、語っています。

 洗礼者ヨハネが「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにする」預言者として相応しかったもっとも大きい理由は、洗礼者ヨハネがより偉大な預言者として呼ばれる理由は「自分のアイデンティティに対する明確な認識」をしていたからです。洗礼者ヨハネは「自分はキリストではなく、ただキリストの前に派遣された存在である」という事実を明確に認知していたからです。もし洗礼者ヨハネがその役割に相応しくない人であったならば、人気者であったからこそごうまんに走ったかもしれません。しかし洗礼者ヨハネは、イエスさまより前もって派遣されたものとしての自分の召命が何であるかが分かっていたので謙遜であることができました。また人生の最後まで正しいことを正しいと言って殉教することになりました。

 洗礼者ヨハネがわたしたちに今教えているのは、「イエスさまが主演である演劇における助演としての謙遜さ」を持ちながら、「イエスさまを指す矢印」であることだと思います。それは自分自身がすべての中心となる生活ではなく神さまをすべての中心とする生活です。またわたしたちは自分自身を示す生活ではなく常に神さまを示す生活、神さまの栄光をあらわす矢印にならなけばならないと思います。

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年12月09日(日)(降臨節第2主日 A年) 晴れ
「 忍耐と慰めと希望の源である神 」

――今日の聖句――
(1)<忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように>[ローマの信徒への手紙 15:5−6]
(2)<希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。>[ローマの信徒への手紙 15:13]

 クリスマスまでの降臨節は、わたしたちの信じる神が、どういう方であるかを思い巡らす時でもあります。

 今日の聖句の「ローマの信徒への手紙」の15章は、この長い手紙の本文の最後に当たります。パウロはこの長い手紙を「祈り」をもって終わろうとしています。「祈り」を持って終わることは、後世に計り知れない影響を与えたこの手紙に実にふさわしいことであるように思います。この祈りには、神に対する二つの呼びかけがあります。5節の「忍耐と慰めの源である神」と13節の「希望の源である神」です。神に対する呼びかけの言葉は、呼びかける人にとって、神がどういう方であるかを端的に表しています。この二つの呼びかけの言葉は、パウロが、いかに豊かな神との交わりに生きたかを示しているように思います。

(1)「忍耐と慰めの源である神」

 旧約の歴史を一言で言えば、「人間の神への反逆と、神の人間に対する忍耐と慈しみの歴史」ということができるかもしれません。神の堪忍袋の緒が切れたら、人間などひとたまりもありません。この神の忍耐と慈しみが行き着いたところが、イエス・キリストの誕生であり、十字架の死であり、復活です。パウロは、この神の恵みに気づいたとき、この神に従ってどこまでも歩いていくしか道はありませんでした。

(2)「希望の源である神」

 聖書は、徹頭徹尾「今」に焦点を当てた書物です。今、どう生きるかに最大の関心があります。聖書には、わたしたちが死んだ後どうなるのかとか、天国がどんなところかなどの記述はほとんどありません。黙示録や終末論が将来を語るのは、将来を予測するためではなく、今に関心があるからです。「終わりから、今を考える」という視点です。

 最近、やっと、「地球温暖化問題」が少しは真剣さを持って取り上げるようになってきたように感じます。この地球温暖化問題でお分かりのように、将来をいかに予測してみても、今、何もしなければ何の意味もありません。今、どうするかが問われているのです。

 現実は、楽観できない要素に満ちています。しかし、決して希望を捨てず、今に集中するとき道が開けてくるのです。

 フランスのジャン・ジノオという作家に、『木を植えた人』という短編があります。50歳を過ぎてから、毎日、一人で、人里は離れた荒れ地に団栗の実を植える物語です。それから40年、その荒れ地は、豊かな生命に溢れる森になりました。

(牧師 広沢敏明)


2007年12月02日(日)(降臨節第1主日 A年) 晴れ
「 キリストの時 」

――今日の聖句――
<更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 >[ローマの信徒への手紙 13:11−14]

 教会のカレンダーでは、今日から新しい年が始まります。今日の聖句は、伝統的に今日の降臨節第一主日に読まれて来ました。今日から主イエスの降誕日までの期間は、わたしたちが、「どんな時を生きており」、「誰を待つのか」、「どのように生きるのか」を学ぶ時です。

(1)時を知る

 今日の聖句の最初に、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。その時は既に来ています。」とあります。わたしたちは、本当に今が「どんな時」なのか、知っていると言えるでしょうか。

 イエス・キリストがこの地上に来られる出来事は、二つあります。一つは、今から2000年前、イエス・キリストがベツレヘムの村に幼子としてお生まれになったことであり、もう一つは、主イエスが、歴史の終りに「わたしは再び来る」と約束されたことです。

 この手紙の著者パウロは、「その時は、既に来ている」と言います。或る人は、これを「列車は既に出発したけれども、未だ、目的地についていない」、「戦争は終わったけれども、未だあちこちで小競り合いが続いている」と表現しました。

 わたしたちは、今、このような主イエスの一度目の来臨と二度目の来臨の中間の時を生きているのです。この時を「キリストの時」と言います。眼を覚ますべき時です。イエス・キリストが、今にも再び来られるかも知れないからです。

(2)「キリストの時」をどう生きるか。

 今日の聖句に「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と 酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てなさい」とあるのは、この時の生き方を示しています。「品位」と訳された言葉も、これまでいろいろに翻訳されてきました。「つつましく」、「正しく」、「立派に」とか、「美しく]とも訳されてきました。最近流行りの言葉でいえば「品格をもって」ということでしょうか。

 「日中を歩むように」とあるのは、次の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」に対応しています。これらは夜の姿です。昼間から酔っ払って酩酊している人は、多くはいません。しかし、夜になると、酒宴と酩酊が始まるのです。誰でも身に覚えがあることです。これらを捨て去るのは、なかなか難しいことです。

 パウロは、最後に、「品位ある歩み」を言い換えて、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。パウロ独特の表現です。イエス・キリストを装うことによって、本当に「品位ある歩み」ができるようになるということです。初めは、だぶだぶで、重すぎるかもしれない。袖が長すぎたり、形や色が気に入らないかもしれない。しかし、パウロは、このように言います。「イエス・キリストを装っているうちに、次第に、それがあなたにふさわしい着物となっていくだろう。それは、あなたの力ではなく、神がそのように図ってくださるのだ」と。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Jan/11/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会