――今日の聖句――
<さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、・・・悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ 主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は言った・・・「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」・・・イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。>[ルカによる福音書 9:1−13]
今日の聖句は、イエスが公生涯の初め、荒れ野で悪魔の誘惑にあわれた出来事です。イエスは、3つの誘惑にあわれます。(1)「石をパンに変える」誘惑。これは、「経済的な力への誘惑」です。(2)「この世の一切の権力を手に入れる」誘惑。これは、「政治的な力(権力)への誘惑」です。人を支配しようとする欲望を満たすことです。(3)「奇跡を起こす」誘惑。これは、「天才的な能力への誘惑」です。
考えてみれば、これら三つの人間の欲求は、古来、現代に至るまで、人間が常に追い求めてきた根源的な欲求です。悪魔は、巧妙に誘惑します。悪魔は、このように囁いたかも知れません。「あなたがこの世の苦しんでいる人、弱っている人、悲しんでいる人のために働いていることはよく分かっている。もし、あなたがこれらの力を得たなら、もっと大きなことが出来るはずだ。」しかし、サタンの誘惑には、一つの条件がついていることを忘れてはなちません。それは、「わたしを拝むなら」ということです。言い換えると、「悪魔の言うことを聞くなら」ということです。それは、神に逆らうことにほかなりません。
神は、わたしたち一人ひとりに、ふさわしい賜物や恵みを与えてくださっています。神の望みは、わたしたちが、自分の自由意志で、その賜物や恵みを使って、のびのびと生きていくことではないでしょうか。それが出来たときに、その人は幸せだ、というのでしょう。悪魔は、「あなたはもっと豊かに、もっと有名に、もっと幸せになれる」と囁きます。そのようにして、結局、あなたは、それらを自分のためだけに使うようになっていくのです。悪魔の誘惑とは、自分のためだけに生きることです。その結果はどうでしょう。
天才的なヴァイオリニストとしてもてはやされた千住真理子さんは、聴衆の喝采をもっともっと得ようとして、「天才弾き」の練習を、1日12時間続けているうちに病気になり、遂にヴァイオリンが弾けなくなってしまいます。数年の後、老人ホームやホスピスで、ボランティアとして弾くうちに、病を癒され、自分を取り戻していきます。この逸話は、わたしたちが、それぞれの賜物を使ってのびのび生きていくことの大切さと、わたしたちが悪魔の言うなりになり自由を失うことの怖さを物語っているように思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、 およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤであ る。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。>[ルカによる福音書 9:28−31]
今週の水曜日、2月21日から大斎節(レント)に入ります。よい準備をして、本当の喜びをもって復活日を迎えたいと思います。準備の一つとして「祈り」は欠かすことの出来ない要素です。今日の聖句の主題からはずれますが、「イエスの祈り」から、わたしたちの祈りについて、何が大切かを学びたいと思います。
今日の聖句の「山上でイエスの姿が変わる出来事のとき」もそうですが、ルカは、主イエスが、何か大事な出来事、或いは重大な決断をされる前に、必ず祈られたと書いています。これは、ルカによる福音書の一つの特色となっています。例えば、(1)洗礼を受けられたとき、(2)十二弟子を選ばれたとき、(3)死と復活を予告されたとき、(4)「主の祈り」を弟子たちに教えられたとき、(5)十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で祈られたときです。ルカが、主イエスの祈る姿に、特別な思いを抱いていたことを表しているように思います。是非、ご自分で他の福音書と読み比べていただければと思います。
これらの個所を読んでみますと、二つのことに気がつきます。必ずしもすべての場合というわけではありませんが、一つは、イエスは、一人で、夜、寂しいところに退かれて祈られたことです。言うまでもなく、夜とか山の中、人里はなれたところは、日常的な活動が消えたところです。わたしたちは、普段、家族のこと、仕事や勉強のこと、いろいろな人とのつきあいのことに追いまくられています。また、テレビや新聞などを通して世界のあらゆるニュースが飛び込んできます。わたしたちの心は、そのような現実の中であわ立ち雑然としてきます。そのような中で、神に向かって心を集中することは至難の業です。夜、人里離れたところで祈ることは、一時的にせよ、そのような現実との関係を断ち切って、神の方に心おきなく集中しようとすることです。
もう一つは、イエスは、祈るとき、必ず神に向かって、「父よ」と呼びかけられたことです。日本語では、「父よ」となっていますが、実際にイエスが使われた言葉は、アラム語で「アッバ」ではなかったかと言われています。「アッバ」という言葉は、乳離なれした赤ん坊が、最初に父親に向かって呼びかける幼児語であったといわれています。幼子が父親に向かって、「アッバ」と呼びかけるとき、そこには、父と子の間に暖かく深い信頼と愛情にあふれた一体感が醸し出されます。言うまでもなく、わたしたちは、神を目で見ることはできませんし、触ることも、その声を鳥の声を聞くように聞くことは出来ません。しかし、「アッバ、父よ」と呼びかけ、必ずしも実際に声を出さなくても、わたしたちの思いを語りかけることによって、わたしたちは、神の前に立ち、神との間に交わりが生まれるのです。「祈り」が、「神との対話」といわれるのは、このことです。わたしたちは、このような「祈り」を通して、目に見えない神に近づいていくことが出来るのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとしその心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも 憂いがなく、実を結ぶことをやめない。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。>[エレミア書 17:5−9]
エレミアは、紀元前6世紀、ユダヤの国が、強国バビロンによって滅ぼされ、国の中心だった人々は捕囚として拉致されるという極限状態の中で、預言者としての使命を負わされた人物です。エレミアは、国と国民を救うために、どうすべきなのか徹底的に考えました。そして、神の言葉を取り次ぎ、国の指導者と国民に警告を発しましたが、結局受け入れられず、彼自身国と運命を共にすることになりました。
エレミアは、その中で、人間そのものに信頼すること、人間の手によるあらゆるもの、例えば、富とか、軍備とか、他国の援助とかに頼ることの空しさを経験しました。「信頼する」、「頼る」ということは、突き詰めれば、「それをよりどころにして生きる」ということです。つまり、「人間や肉によるものをよりどころにして生きる人」は、「その心が神から離なれ去った人」であり、その人は呪われるべきだというのです。
私は、現代社会の特色は、(1)世俗化、(2)科学的合理主義、(3)グローバリズムで表されるのではないかと考えています。
世俗化とは、神から離れていくことです。生きる根拠を人間に置く生き方で、人間中心主義と言うこともできます。この流れは、はるか14世紀のルネッサンスを源にして、ますます加速しているようにさえ見えます。ルネサンスは人間復興とも言われ、プラスのイメージが強いのですが、他方では、人間が神から離なれていくことであり、近代化とは、人間が神から離れていく過程でもあったのです。
科学的合理主義とは、人間の知恵に頼る生き方です。この世俗化と科学的合理主義が合わさって、人類は、今、重大な岐路に立たされているのではないでしょうか。既に、科学の進歩を率直に信奉する時期は過ぎたように感じられます。 核兵器保有国の拡大、人類を幾度も殺してしまえるほどの核弾頭の蓄積。環境汚染の広がり、地球温暖化。エイズや鳥インフルエンザ。今、原因不明の病気が広まっているとも聞きます。先端生殖医療技術、クローン技術、遺伝子操作などの発展。これらを人間は正しくコントロールできるのでしょうか。
エレミアは、このようにつぶやきます。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」預言者エレミアが、国が滅びるという極限状態の中で、命をかけて掴んだ言葉、そこには、現代のわたしたちにとって、基本的に大切なことが、含まれています。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<(イエスは)話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁を
しなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、 網が破れそうになった。
・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。>[ルカによる福音書 5:4−8]
教会史を学んでいますと、ペラギウス主義という言葉に出会います。ペラギウス主義というのは、紀元400年頃のアイルランドの修道士が唱えた教説で、人間の理性や自由意志を強調したことです。彼は、人間は自分の自由意志で、物事を考え、道徳的判断をし、自分の運命をも切り開くことが出来ると唱えました。現代人の合理的、且つ人間中心的な思考と似たところがあり、当時の人々にも少なからぬ影響を与えました。
これに対し、神学の父と言われるアウグスティヌスは激しい反論を加えました。それは、人間の力には限界があるということです。人生長く生きてくると、否応なく、人間の限界というものを知らされます。そして、自分の運命を決め、自分を造り上げていく、自分とは別の大きな意思があることを思い知らされます。
今日の聖句は、ルカによる福音書の「ペテロの召命の物語」です。マルコやマタイの福音書と異なり、ルカによる福音書では、イエスとペテロは既に顔見知りで、イエスは、ペテロの家へも行かれ、ペテロの姑の病気を癒された出来事が少し前に記されています。ペテロはイエスの元に出入りしていましたが、まだ本当の弟子にはなっていなかったのでしょう。今日の物語は、そのようなペテロが、イエスの本当の弟子になる出来事ということができます。
イエスはペテロに声をかけられます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」 そのときのペテロに気持ちを考えてみてください。ペテロは、生まれつきのガリラヤ湖の漁師です。ガリラヤ湖で魚を取るプロです。季節により、天候により、時間により、どの場所で、どのような方法で、どんな魚を取れるかは熟知しています。そのペテロが、夜通し漁をして何も取れなかった。「お言葉ですから」という言葉に、ペテロの複雑な心の内が現れています。夜通し苦労して何も取れなかった。今更、つかれきった体で沖に漕ぎ出して、どれほどのことがあるのか、というのが本音ではなかったでしょうか。しかし、ペテロは嫌々ながらも、イエスの言葉に従う決断をしたのです。そこに、予期しないことが起こります。
教会は、科学的合理性や人間の自由意志を否定するのではありません。重要なことは、科学的合理性ですべてが理解できるわけではなく、また、人間の力ですべてを支配することは出来ないことを知ることです。神の恵みの力は、人間の限界がはっきり現れているところに、人間の弱さをはっきり自覚するところに輝きだすのです。
(牧師 広沢敏明)
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