――今日の聖句――
<あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。・・・しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。>[コリントの信徒への手紙T 14:12−19]
異言というのはどういうことでしょうか。広辞苑をみますと、「宗教的な恍惚状態において発せられる言葉」とあり、コリントの信徒への手紙のこの聖句の個所が引用されています。
異言の「異」という漢字の語源を調べますと、それは「人が、両手で神の仮面を持ち上げて被っている形の象形文字」ということです。つまり、異言とは、神の仮面を被って別人になり、人が聞いても分からない言葉を発することです。なかなか見事な翻訳です。
コリントの教会では、異言を発することは、霊を受けて人間を超えたものになりきる特別な霊の賜物として、大変尊敬を受けるような雰囲気ができ上がり、異言を語るグループは、異言派として、教会の中で肩で風を切って歩いたようです。そして、次第に傲慢になった異言派は、自分たちは神から特別な霊を受けているので、何をしても赦される、自分たちには間違いがないと豪語し、道徳的に問題のある行為に走るものもあったようです。
このような異言派に対して、パウロは鋭い批判を浴びせました。それが今日の聖句です。パウロは、異言を否定したのではありません、異言を評価し、自分にも異言を語れといわれれば、人以上に語ることが出来る。しかし、他の人にわかってもらうために理性で語たろう、というのです。
わたしたち、ことに聖公会は、理性を重んじてきた教会です。この礼拝で、異言を語ることはありません。しかし、特に牧師が十分注意しなければならないのは、この説教において、皆に分かる言葉で話しているかということです。或いは、教会が社会に向かって語ることが、信徒でない人、教会の外の人々にも分かる言葉で話しているか、ということです。もし、牧師が説教で語る言葉が、信徒にとって意味不明であり、或いは教会が世の中に向かって語る言葉が、教会の外にいる人々にとって、全く理解できないことを話しているとしたら。それは、コリントの教会における「異言」と少しも変わらないのではないでしょうか。
教会の最大の使命は宣教です。しかし、その宣教が、教会外の人々にとって分からない、理解できない言葉で行われているとすれば、それは宣教とはいえません。これまでの教会は、この面で大きな過ちを犯してきたかも知れません。実は、自分たちしか分からない言葉で話しながら、その責任を理解できない教会外の人たちに被せてきたことはなかったでしょうか。もし、そうだとすれば、それは教会の傲慢というべきでしょう。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、 皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。・・・だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必 要なのです。・・・それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が 尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。>[コリントの信徒への手紙T 12:13−14、20−22、25−26]
今日の聖句は、先週の続きで、「一つの体、多くの部分」という見出しがつけられています。パウロは、この「体のたとえ」を、繰り返し繰り返し、悲しみと怒りをもって熱っぽく語りました。その背景には、コリントの教会の分裂の危機がありました。
コリントの教会を分裂の危機に陥れていた要素は幾つかあります。今日の聖句にあるように、一つは、ユダヤ人、ギリシャ人といった人種の要素、二つ目は奴隷、自由人といった社会的身分の要素です。もう一つは、先週お話したパウロ派、アポロ派、イエス派といった福音理解の相違です。
わたしたちの教会は、コリントの教会とは事情を異にしていますし、コリントの教会が直面したような深刻な分裂に直面しているわけでもありません。しかし、わたしたちの教会がすべての人を、充分受け入れているかと問われれば、無条件にそうだと肯定できない現実があります。その意味で、今日の聖句は、何度でも、じっくりと味わいたい聖書の箇所です。数年前の『キリスト新聞』の社説に、「心病む人から見た教会」という表題で、このように書かれていました。
「教会に行って感じること。
わたしたちは、「積極的で活動する」ことは文句なしによいことだと思っているところがあります。しかし、そうでない場合もあるということです。わたしたちは、知らず知らずに厚い壁を作ってはいないでしょうか。一昨年作成した「これからの教会のビジョン」は、『安らぎのある教会』を掲げました。このようにビジョンを掲げたからといって直ちにその通りになる保証はありません。大切なことは、わたしたち一人ひとりが聖書の言葉をどのように聞くかいうことです。今日の聖句の最後の言葉、『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が 尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。』は、良く味わいたい言葉です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。>[コリントの信徒への手紙T 12:4−7]
使徒パウロが手紙で言おうとしていることは、決して一般論や抽象論ではありません。パウロの手紙が、わたしたちの心を揺すぶるのは、どの手紙も、きわめて現実的な生々しい問題に正面から立ち向かっているところあるように思います。
今日の聖句の箇所も例外ではありません。それは、賜物や務めや働きが、ただいろいろあることを言おうとしているのではなく、それが「同じ霊、同じ主、同じ神によってある」ことを言おうとしているのです。つまり、賜物も務めも働きも、その大本は一つの同じ神であるということです。
パウロが、なぜそのように繰り返し繰り返し、「同じだ」「一つだ」と言わねばならなかったのでしょうか。それは、パウロが去ってから、コリントの教会が、分派争いが激しくなり分裂の危機に瀕していたことです。「コリントの信徒への手紙T」は、「愛の手紙」とも呼ばれますが、「怒りの手紙」とも呼ばれることがあります。この手紙の1章13節の次の言葉は、分裂の危機に瀕するコリントの教会に対するパウロの激しい怒りと深い悲しみが感じられます。
<キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。>
わたしたちも皆、一人ひとり違う賜物をいただいています。その賜物を大切にし、磨くのはよいのですが、それが自分に与えられた特権と誤解し、他者を見下し、自分のためだけにそれを用いるようになると大きな問題をはらんできます。わたしたちが、心しなければならないことは、「一人ひとり違うのは、全体の益になるためだ」、ということではないでしょうか。パウロが強調するのも、そのことです。
コリントの教会では、その違いが分派争いとなり、教会に分裂を引き起こそうとしていました。そのままいくと、教会はがたがたになり、崩壊してしまいかねないことを、パウロは憂いたのです。しかし、反対に、一人ひとりが全体のため、或いはあなたのためだと思って行えばどうでしょうか。事態は全く変わっていきます。不可能に思われたことも可能となってきます。その中で、思いがけない奇跡のような出来事も起こってきます。全く新しい世界がそこに開けてくるのです。わたしたちが、一人ひとり違うのは、全体の一致のためであり、全体の益のためであることを銘記したいと思います。真の一致は補完です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。>[ルカによる福音書 3:21−22]
今日は、成人祝福式をします。今年の新成人は4人です。この日が、「主イエス洗礼の日」であることは、意味深いことだと思います。
今日の聖句に「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」とあります。この出来事は、「神さまとイエスが深い絆で結ばれたこと」を表しています。このときから、イエスは、ご自分の使命を自覚し新しい人生を歩き始められました。
次に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。この言葉を聞いた人々や弟子たちは、一人の預言者の言葉を思い浮かべました。旧約聖書のイザヤ書42章にある言葉です。この歌は、「僕の歌」と呼ばれてきました。
<しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々に裁きを導きだす。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなっていく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。>
預言者イザヤが活躍した当時、ユダヤ民族は、バビロンという国に滅ぼされ、主要な人々は捕囚として連れ去られていました。「僕」とは、捕囚となっている人々の解放ために、多くの苦しみを背負い、自らを犠牲にした一人の人物のことです。つまり、人々は、今、洗礼を受けて水から上がられた人こそ、かつてイザヤが語った、「あの僕」のことではないかと理解したのです。
その人は、どのような苦難のなかにあっても、希望を失わずじっと耐え、そして、この世の中で、傷つき、弱り、苦しみ、悲しんでの仲間になろうとされました。この人は、この世の苦しみや悲しみを、すべて自分の問題として、誰よりも深く受け止められました。そして、多くの人々の苦しみを、その人に代わって背負い、自分がその犠牲になられたのです。
新しく成人になられた方にお願いしたいことは、一人ひとりに自分の「志」(こころざし)を確認して欲しいことです。今の世の中、一人ひとり、生き方が多様化しています。特別に大きな「志」である必要はありません。しかし、自分はこれを大事にしたいという思いを持つことは極めて大切なことだと思います。この成人祝福式が、人生の新しい出発になることを願っています。
(牧師 広沢敏明)
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