――今日の聖句――
<しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て 必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。>[ルカによる福音書 11:8−10]
今日の聖句は、主イエスが、弟子たちに、「祈り」について教えられた個所です。この中に、「しつように頼めば」という言葉があります。私が、この言葉を聞いて思うことは、「わたしたちの祈りは、本当に真剣な祈りになっているか」ということです。
真剣な祈りを妨げるような現実があります。例えば、信仰の年月を重ねるに従って、神さまにくどくどと願い事をするのは余り高級な祈りではない、キリスト教はご利益信仰ではない、感謝や賛美、平和への祈りが高級な祈りだと考え始めることです。
また、歳を取るに従って、いろいろな失敗や挫折、幻滅を経験します。逆に、祈らなくても、結構うまくやっていけることも経験します。このようにして、人生経験を積むうちに、祈っても祈らなくても現実はそう変わらない、神さまは、あまりこのようなことには関与してくださらない、という思いに支配されていくことです。その結果、「祈らないと、やっていけない」という気持ちが次第に希薄になっているのではないかということです。
信仰生活にとって、「祈りは呼吸のようなもの」といわれます。その呼吸が、浅かったり、途絶えたとしたら、信仰生活は、息苦しくなり、生活は乱れていきます。
旧約聖書には、真実に信仰に生きた人々が登場します。彼らは、一様にどのような苦難の中にあっても、「しつように願う」ことをやめなかった人たちです。
旧約聖書の義人ヨブの物語はよくご承知だと思います。神とサタンは、彼の信仰について賭けをします。彼は信仰を確かめられるために、不幸のどん底に突き落とされます。息子たちは皆殺しにされ、何百、何千といた羊や牛などの財産はすべて奪われ、自身は、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからされます。それでも、ヨブは、神から離れようとしません。彼の妻でさえ、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言います。しかし、ヨブは、「これほどの仕打ちを受けるほどの罪を犯した覚えは無い」と、しつように神に食い下がります。
<黙ってくれ、わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。>[ヨブ記 13:13−15]
切々たる願いです。祈りともいえます。ヨブは、長い魂の葛藤の末、遂に、神に出会います。その時、神は、「ヨブは正しく語った」と言われました。教会の宣教は、いつの時代もどこにおいても楽なときはありませんでした。また、わたしたち一人ひとりも、「神はおられるのか」と叫びたくなるような苦しみに遭遇する時があります。そのような時、わたしたちも、ヨブのように、神にしがみつき、しつように願いたいと思います。そうすることによって、わたしたちは、現実から遊離せず、しっかり現実に密着して課題を果たしていくことができるのです。
(牧師 広沢敏明 東北教区若松諸聖徒教会にて)
クリスチャンの生活の中で「祈り」は欠かせない物だと思います。神さまとの対話であり、生きている中で力づけられる、慰められる、希望が与えられる、神さまを賛美する「祈り」は「息」のような大切な物であると思います。しかしながらわたしたちは「息」をしながらクリスチャンの生活を過ごしているのでしょうか。人間は息が止まったら死んでしまいます。クリスチャンも祈りという息が止まってしまうと霊的に死んでしまいます。わたしたちが普段息をしているように絶え間なく祈りという息をしなければなりません。ここでわたしたちはどのように祈りをすればいいか迷いますが、イエス様の弟子たちもどのように祈ればいいか分からなくて迷っていたようです。
今日の福音書にも書かれているように弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったとき、イエス様は現在「主の祈り」と呼ばれる祈りを弟子たちに教えられました。本日は「ウルグァイのある小さい聖堂の壁に書いてある落書き」という物を紹介しながら、イエス様が直接教えてくださった「主の祈り」は今わたしたちの生活の中で何を気付かせてくださっているかを共に考えたいと思います。
「天におられる」と言うな。世の中のことだけにはまっているくせに。
「わたしたち」と言うな。わたしだけを思って生きているくせに。
「父よ」と言うな。主の息子、娘として過ごしていないくせに。
「み名が聖とされますように」と言うな。自分の名を世にはなばなしく示そうとするくせに。
「み国が来ますように」と言うな。物質万能の国を願っているくせに。
「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と言うな。わたしのこころが行われますようにと、祈っているくせに。
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と言うな。死ぬまで食べられる糧を蓄えているくせに。
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と言うな。誰かにまだ恨みを抱いているくせに。
「わたしたちを誘惑におちいらせず」と言うな。誘惑におちいる機会を自ら求めているくせに。
「悪からお救いください」と言うな。悪をみても何の良心の声を聞こうとしないくせに。
「アーメン」と言うな。主の祈りを真なる自分の祈りとして捧げてないくせに。
それぞれのフレーズに耳の痛い指摘ばかりです。自分の振る舞いに照らし合わせてみると非常に恥ずかしい生き方をしていることがわかります。けれども、「主の祈り」のようになってほしいと、ならせてほしいと心から祈る、そういう姿が求められているのではないでしょうか。後ほど礼拝の中で、わたしたちは共に「主の祈り」を唱えます。「主の祈り」を真なる自分の祈りとしてささげましょう。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。>[コロサイの信徒への手紙 1:24]
西暦1世紀半ば、まだ誕生して間もないキリスト教にとって、信仰上、大きな敵が二つあったと言われています。一つが、ユダヤ教律法主義であり、もう一つが、グノーシス主義です。「コロサイの信徒への手紙」は、使徒パウロのグノーシス主義との「戦いの書」です。
グノーシス主義というのは、一つの宗教というよりは、思想、世界観といったもので、コロサイの教会にも、その思想が侵入し、パウロが伝えた福音を歪めようとしていました。多くのバリエイションがあって一概に言うことは難しいのですが、凡そ次のように考えられています。『この世界には、この地上の世界の他に、天上にもう一つの真理の世界がある。キリストはその真理の世界から降りてきた救済者である。そのキリストの呼びかけによって、特別な霊感を受け、悟りを開いた人だけが、この真理の世界を知ることができ、その知ることができた人だけが救われる』。しかし、これは、「イエス・キリストの十字架の死によってすべての人類が救われる」というパウロが説く福音とは真っ向から対立するものでした。パウロは、厳しい戦いを強いられ、宣教活動は多くの苦難を余儀なくされました。
今日の聖句は、使徒パウロが、宣教の苦難を、どのように克服したかを考えてくれます。 前半は、「宣教の苦しみは、使徒の喜びである」、ということです。後半は、パウロの手紙の中で難解な個所の一つとされていて、古来、多くの学者が、種々の説を唱えてきました。文字通り読めば、イエス・キリストの十字架の苦しみに、まだ足りないところがあって、それをパウロの苦しみが補っている、と読めるからです。 わたしたちが、注目したいのは、パウロの現実です。宣教のためのパウロの「苦しみ」を見るとき、そこに、パウロが、自らの身をもって満たしている何かがあるということです。復活されたイエスは、弟子たちに「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と命令されました。それは、イエス・キリストの救いの業は、宣教があって始めて完成するということです。イエス・キリストの救いの業自体に欠陥があるわけではない、しかしその救いの業が完成するためには、すべての人々に福音が知らされるという宣教が不可欠であるということです。
パウロにおいて「苦しみ」が、どのようにして「喜び」に変えられていったか。一つ確かなことは、パウロが、自分の苦しみを、イエス・キリストの苦しみに重ね合わせていたことではないでしょうか。パウロが、コリントの信徒への手紙(U)11章で告白したような苦難を、キリストの苦難との一体感なくして乗り越えることは、ほとんど考えられないからです。そして、イエス・キリストに救いの業に、その苦しみを通して参加しているという確信を得たのだろうと思います。しかし、パウロといえども、「苦しむことを喜び」と言い切れるまでには、長い年月が必要であったように思われてなりません。苦難に苦難を重ね、祈りに祈りを重ねる中で、少しずつ信仰に深みを加えて行ったのではなかったでしょうか。現代のわたしたちも、クリスチャンであるが故の「苦しみ・悩み」を避けられません。そして、その苦しみは、パウロの苦しみと繋がっていることを覚えたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい>[ルカによる福音書 10:27]
ある人がエリコに向かう途中、追いはぎに襲われ、ひどい目に遭います。そこを三人が通りかかりますが、一番目の人である、祭司は道の向こう側を通って行きました。なぜならば、死体の汚れに触れないことは祭司の義務であったからです。二番目であるレビ人も道の向こう側を通って行きました。なぜならば、祭司の下位階級であって補佐的に宗教的な務めをする部族であったからです。しかし三番目の人であったサマリア人は、憐れに思い近寄って応急処置をしてから宿屋に連れて行って介抱しました。しかもデナリオン銀貨二枚を宿屋の主人にわたしながら「よろしくお願いします」と、「費用がもっとかかったら帰りに払います」と言いました。話が終わってからイエス様は「三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と質問します。律法学者は「その人を助けた人です」と答えます。イエス様は言います。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
サマリア人が大嫌いだった律法学者さえも隣人は「サマリア人」だと言っています。なぜサマリア人が隣人であるか申し上げます。サマリア人は追いはぎに遭った人の側(そば)にいたからです。憐れに思い近寄って来たからです。「憐れに思い」とは広沢先生が放蕩息子の譬えでおっしゃった「内臓がちぎれるように痛む」ことを意味する言葉です。そのように思い近寄ってきて自分ができることをしました。彼の側(そば)にいました。しかし祭司とレビ人は道の向こう側を通って行きました。日本語では側という字があります。側面とか側近の側という字で、読むとき「側(そば)」か「側(かわ)」と読みます。側(かわ)という時、反対の意味として向こう側と言います。「かわ」というのは反対に行ってしまう可能性が十分あります。しかし「そば」と言うときは向こう側(そば)とは言いません。側(そば)は向こうに行かないからです。
わたしたちは日常の中で、あるいは教会の中でも追いはぎに遭った人々に直面する場面があると思います。本当の追いはぎではなくても「体と心の病」をもって苦しんでいる人、様々な理由で経済的にも精神的にも悩まされ苦しみを持っている人がいるかもしれません。もしかしすると本当に追いはぎにあったように生存の危機に直面する人々がいるかもしれません。そのような人々に出会ったらみなさんは何ができますか。サマリア人はすごい人です。何でもできました。きれいな心の持ち主だし、お金も持っているし、応急処置もできる知識と実力も持っていました。しかしわたしの場合何ができるかと考えます。そのような人が教会に訪ねてきたら何ができるか、と。医学的知識も、お金もない。自己中心的な考え方を持っている。聖職候補生という肩書きは社会的に通用しない。本当に絶望するばかりです。
しかしわたしが、皆さんができることは、とりあえず、側(そば)にいることだと思いました。サマリア人がそうであったように近寄って来て「そば」にいることから始まります。そばにいてください。「あなたはひとりじゃないんですよ。」と言ってあげてください。側(そば)にいることは互いに存在を認め合うことです。これから始まります。その出会いの間に必ず神様はおられます。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。>[ガラテヤの信徒への手紙 6:11]
<しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対しはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。>[ガラテヤの信徒への手紙 6:14−16]
今日の聖句は、「ガラテヤの信徒への手紙」の結びの部分です。パウロは、この結びを書くにあたって、わざわざ、「こんな大きな字で、自分の手で書いている」と言います。普段は、弟子たちに口述筆記させていたのでしょう。この手紙のクライマックスです。この手紙は「戦いの手紙」と呼ばれてきました。パウロは、福音のために、律法主義と戦い、人間の心に根深く宿っているエゴイズム(自己中心主義)と戦いました。
わたしたちは、この世を生きていくとき、誇りなしでは生きて行けないことは事実です。しかし、よく考えてみると、この「誇り」と思っているものの多くは、実は、「見栄」に過ぎないものであることに気がつきます。わたしたちは、少しでも才能があるように、少しでも美しく、少しでも若く見られるように、そのようにして生きています。つまり、人々の評判を気にし、まわりの人々にどう思われるかを第一する生き方です。
パウロは、人間にとって最も大切なものは何か、人間にとって本質的なことは何かと突き詰めて考えたとき、そのような生き方をすべて捨ててしまった、「世はわたしから切り離され、わたしは世から切り離された」と言います。パウロは、それに代わって、それとはまったく違う尺度による生き方するようになった、と言います。それが、「キリストの十字架のみを誇りとする生き方」であり、これによって、パウロは「自分は新しく創造された」と言います。パウロは、キリストの十字架の死が、この世のすべての見栄を捨て、ただ愛のために命を捨てられた出来事であり、そこに人類の希望と人間が模範にすべき生き方があることを確信したのです。
これを聞いてわたしたちは、愕然とします。わたしたちは、パウロのように生きることの難しさをよく自覚しているからです。ガラテヤの諸教会もそうでした。パウロは、この手紙を、「あなたがたには、あきれ果てています」と書き始め、「もう、わたしを煩わせないで欲しい」と結んでいます。パウロに「あきれ果てられ、突き放された」ガラテヤの教会、しかし、パウロは、この教会の人々に、細やかな愛の実践の方法を書き送っています。ここにわたしたちの希望があります。わたしたちには、自己吟味を重ねながら、飽きずに励んで行くしかないのかもしれません。パウロは、この手紙の6章9節には、このように書きました。
<たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。>
わたしたちは、たとえその歩みが鈍くとも、飽かずに励む力を与えてくださるよう、祈りたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。>[ガラテヤの信徒への手紙 5:1]
キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、「自由の宗教」と呼ばれることもあります。「愛」と「自由」は、キリスト教を理解する大切なキーワードです。マルチン・ルターの『キリスト者の自由』という有名な論文を思い浮かべる方もあろうかと思います。それは、宗教改革を戦うルターの精神的基盤でした。
わたしたちは、自由という言葉が好きで、よく使います。自由主義、言論の自由、信教の自由、・・・。或る意味で現代社会の特徴を現している「キーワード」でもあります。わたしたちが普通用いる「自由」と、パウロやルターが言った「自由」とは、どう異なるのでしょうか。それにはやはり、「律法と福音の関係」から理解するのが近道ではないかと思います。
「律法」というのは、聖書が書かれた当時、ユダヤの人々の心を支配していたユダヤ教の教えです。ユダヤの人々は、これを守ることが救われる唯一の道だと信じていました。しかし、これには大きな落とし穴が隠されていました。それは、「神は、律法を守る人を義人として救い、律法を守れない人を罪人として裁かれる方だ」と考えたことです。つまり、神は、わたしたち人間を、律法を守るか守らないかによって評価し、裁かれる方だということです。このような状況下では、どのようなことが起こるでしょうか。丁度、現代日本の偏差値教育下の学校の状況とよく似ています。成績のよい者は、自己の能力を過信し、次第に傲慢になり、成績の悪い人を見下し、差別するようになります。一方、成績の悪い者は、いたずらに劣等感を抱き、生きる価値のない者と思うようになります。
イエスやパウロは、このような現実に深い悲しみと怒りを感じました。「自分たちの信じる神は、こんな神ではないはずだ。人間が、こんなに惨めであっていいはずはない。神は、人間がもっとおおらかに、自由に、一人ひとりが神さまから与えられているものを輝かせて生きることを望んでおられるはずだ。わたしたちの神は、わたしたちの態度や、状況や、条件に関係なく、わたしたちを愛してくださっているはずだ」と考えました。
そして、わたしたちが、律法の束縛(律法主義、成績主義)や人間のエゴイズム(自己中心主義)から解放されて、自由に、のびのびと生きていくためには、「律法に従って生きるのではなく、信仰によって生きなければならない。そのために、キリストは十字架にかかって死なれた」と考えました。ルターは、著書『キリスト者の自由』の最後にこのように記しました。
『キリスト者は、自分自身においては生きないで、キリストと隣人において生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身を越えて神の中に至り、愛によって再び神から出て自分自身の下にまで至り、しかも常に神と神の愛とのうちに留まり続ける。・・・見よ、これこそ真の霊的なキリスト教的自由であって、あらゆる罪と戒めから心を解放するものであり、天と地が隔たるように、他のすべての自由に優る自由なのである。』
(牧師 広沢敏明)
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