今週のメッセージ――主日の説教から


2007年06月24日(日)(聖霊降臨後第4主日 C年) くもり
「 律法の呪い 」

――今日の聖句――
<信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。>[ガラテヤの信徒への手紙 3:23−24]
<キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆 呪われている」と書いてあるからです。>[ガラテヤの信徒への手紙 3:13]

 最初の聖句に、「信仰によって義とされるためです」とあります。これを「信仰義認」と言います。使徒パウロの最大のメッセージです。「義」というのは、「神さまに、あなたは正しいと認められること」です。言い換えると、「人は、律法を守ることによって救われるのではなく、信仰によって救われるのだ」と言うことです。「律法」は、その昔、神がモーセに与えられ、当時のユダヤ社会を支配していたユダヤ教の教えです。信仰というのは、主イエスが説かれた教え(福音:良い知らせ)です。

 後の聖句で、パウロは、「本来、人々にとって祝福になるはずの律法が、呪いとなって人々を罪に陥れるようになってしまった。その呪いから解き放つために主イエスは十字架にかかって死なれた。この十字架によって、わたしたちに信仰(福音)がもたらされたのだ」と言います。

 律法が呪いとなる契機には、大きく二つのルートがあるように思われます。一つは、人を裁き始めることです。例えば、律法は、「安息日は、働いてはならない」と教えます。しかし、貧しい人々は、安息日といえども働かなかれば生きて行けません。そのとき、豊かな人々の心に、自分たちは正しく、律法を守れない人々は罪人だと断罪する心が生まれます。これを律法主義と言います。

 律法が呪いとなる第二の契機は、律法が、人間が持っている自己中心主義(エゴイズム、「むさぼりの心」)と結びつくことです。律法は「隣人を自分のように愛しなさい」と教えます。例えば、これを聞いた人は、神さまに気に入られようとして、老人ホームにボランティア活動に行くかも知れません。しかし、そのとき、その人は、自分の心に、お年よりを純粋に愛する心より、自分の心を喜ばせようとしていることに気づいて愕然とすでしょう。更に、もう一つは、わたしたちが人を愛そうとするとき、自分にとって相手が愛する値打ちがあるかを判断する心から逃れることは極めて難しいことです。

 イエスが説き、パウロが伝えようとした福音は、これと全く逆でした。それは、「神は、わたしたち人間がいかなる状況にあろうが、わたしたちが愛するに値しようが、値しなかろうが、わたしたちの状態に関係なく、無条件に愛してくださっている」ということです。

 使徒パウロは、「呪いに変わった律法を、もう一度本来の律法に取り戻す出来事」、それがキリストの十字架であったと理解したのです。祝福の源であり神の子であるキリストが、律法の呪いを受けて殺される。しかし、そこに大きな逆転が生じた。イエス・キリストは、一度、律法と共に死なれたが、復活された。そこに、わたしたち人間が救われる道が開かれたことを、彼は確信したのです。

(牧師 広沢敏明)


2007年06月17日(日)(聖霊降臨後第3主日 C年) 晴れ
「 赦されている、救われているわたしたち 」

――今日の聖句――
<イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。>[ルカによる福音書 7:50]

 ある女がイエス様の足もとに伏せて止めどもなく涙を流しています。その女は自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐって香油を注ぎました。その涙は少なくとも偽りの涙ではないことを私たちは見当をつけることができます。笑いは無理やりにつくることはできるかもしれませんが、涙を易しくしぼり出すのは簡単ではないからです。この女の涙の中に込められた事情は何で、その真実は何でしょうか?それを私たちはこの光景をながめていたファリサイ派の人、すなわちシモンの言葉の中に捜すことができます。「あの人が本当に預言者なら自分にふれているあの女がだれで、いくら罪深い女なのかを分かるはずなのに」。

 この女は罪深い女でした。それで人々の近くにも行くことができず、一人で大きい荷物を背負ってあらゆる蔑視の中であえぐしかなかったのです。しかしこの女はイエス様が自分の根本的な問題を解決してくださる方であると信じ、自分が持っていたすべての恥ずかしい罪と過去を打ち明けても、安心することができる救い主であると確信しました。そこで女は自分を取り囲んでいるすべての皮を脱ぎ捨てて勇気を出してイエス様に近付きました。「真心から悔い改めます。私も人間らしく生きたいです」というお話を申し上げてみようとイエス様の前に伏せた時、自分も気付かないうちに悔い改めの涙、生まれ変わる涙、本当の涙が溢れました。それは罪で汚された自分の過去と胸をきれいに洗う涙でした。

 罪を悔い改める女に対してファリサイ派の人、シモンは「借金と帳消し」のたとえが自分と関係がないのだと思っています。イエス様は50デナリオンの持ち主はシモンであることを言おうとしましたが、彼は気がつかないところか女のように悔い改めも、愛の示しも行いませんでした。一方、「借金と帳消し」のたとえで500デナリオンの帳消しをしてもらったような女は、罪が深いほど愛も多かったのです。女は愛を示す以前にイエス様の教えを聞き、罪を悔い改めて罪のゆるしを受けていたと思います。イエス様に対する罪深い女の「愛」は赦しの理由や原因ではなく結果であります。47節を直訳するとお分かりになると思います。「この女のあまたの罪はもう赦されている。それは、この女が多くあいしたことからわかる。」注目すべきところは「赦されている」という文章です。一瞬赦されて終わったわけではなく赦された状態が続いていることです。もうひとつは50節で、罪が許された女に対してイエス様は「信仰があなたを救った」とおっしゃったことです。しかし聖書の原文をみると「救った」という一時的な出来事ではないことがわかります。「救われている」と書いてあります。それは救われたことであるし、その救いが今も続いている、今も救われた状態であることを意味しています。

 「赦してくださる」、「救ってくださる」イエス様の愛の示しは、過去の一時的な出来事ではなくイエス様を自分の救い主であると告白し、イエス様を遠ざけていた罪を悔い改めれば過去も、今も、またこれからも続く出来事であります。罪が深いと、された女のように、イエス様を自分の救い主であるとあらためて告白し、イエス様を遠ざけていた罪を悔い改めて、イエス様と隣り人を愛して、イエス様のみ恵みによって「赦されて続いていく」、「救われて続いていく」歩みができますようにわたしは祈ります。これからどのように主イエス・キリストと共に生きることができるかは、みなさんが決められます。

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年06月10日(日)(聖霊降臨後第2主日 C年)
「 真の福音のための戦い 」

――今日の聖句――
<キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。>[ガラテヤの信徒への手紙 1:6−8]

 「ガラテヤの信徒への手紙」は、「戦いの手紙」と呼ばれてきました。ある聖書学者は、「もしこの手紙が書かれなかったら、おそらくキリスト教信仰なるものは大体1世紀の終わりごろにはもう地上から姿を消していたと言っても、おそらく過言ではあるまい。キリスト教信仰が立つか、倒れるかという戦いのためにこの手紙は書かれた」とさえ言っています。

 ガラテヤの教会の最大の問題は、パウロが教会を離れて間もなく、パウロが伝えた福音から離なれて、それとは「異なった福音」に乗り換えようとしていたことです。ガラテヤの教会は、どのような福音に乗り換えようとしていたのでしょうか。2章以降に詳しく語られるのですが、ガラテヤの教会は、言うまでもなく異邦人の教会です。その教会に、ユダヤ主義者が入り込み、異邦人がキリスト者になろうとすれば、先ず割礼を受けて、ユダヤ人と同じにならなければならないと言う主張が入り込み、教会をかき乱し始めたのです。

 「異なった福音」は、「救われようと思うなら、神に救いを受けるのにふさわしい条件を整えなさい。そうすれば救われるかもしれない」という主張です。これに対して、パウロが伝えた福音の原点は、「神に愛されるのにふさわしくないものが、神に愛された」というパウロ自身の経験に基づくものでした。「異なった福音」は、パウロの福音の対極にあるものです。異邦人伝道の先駆者パウロにとって、絶対に容認できないことでした。しかし、この戦いは容易ではありませんでした、それはペテロを初め、エルサレムにいる使徒たちにもしみ込んでいる根深い考えだったからです。

 人間相互の論争、イデオロギー間の争いは、相対的なものです、どちらにも言い分があり、決着をつけることは極めて困難です。しかし、パウロが、繰り返し言うことは、わたしの主張は、人間の思いではない、それは神の思いだということです。ガラテヤの信徒への手紙1章1節での自己紹介は、パウロがよって立つ根拠を示しています。

 <人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ>[ガラテヤの信徒への手紙 1:1]

 16世紀の宗教改革以降、キリスト教は多くの教派に分かれました。それは、それだけ多くの福音理解があるということです。最近のアメリカにおける「キリスト教原理主義」の台頭、また、世界の聖公会の「人間の性」を巡る混乱は、その亀裂の深さを示しています。わたしたちは、真の福音がどれか、混迷に陥っています。今、教会の権威が問われているのです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Jul/05/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会