今週のメッセージ――主日の説教から


2007年03月25日(日)(大斎節第5主日 C年) 晴れ
「 ぶどう園と農夫の譬え 」

――今日の聖句――
<そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。・・・そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そう としたが、民衆を恐れた。 >[ルカによる福音書 20:13−16、19]

 今日の聖句は、「ぶどう園と農夫の譬え」としてよく知られている譬えの一節です。イエスは、この譬えで、イスラエルの歴史とこれから自分の身に起ころうとしていることを明らかにされました。同時に、この譬えは、イスラエルの指導者たちに対する痛烈な批判です。これを知った律法学者や祭司長が、「イエスに手を下そう」としたのは、当然のことだったでしょう。

 間もなく、この譬えでイエスが話されたことが現実となります。神が救い主として遣った最愛の息子・イエスを、イスラエルの指導者たちは、エルサレムの北の城壁の外で、釘付けにしてしまったのです。しかし、この物語は、イエスの死でもって終りになりませんでした。指導者たちは、イエスを十字架上に殺しました。しかし、イエスの本当の命までも抹殺することは出来なかったのです。イスラエルの指導者たちの意図は、イエスに宣教を止めさせることでしたが、それは出来なかった。むしろ、イエスの宣教は、イエスの死後、弟子たちに受け継がれて全世界に拡大していき、2000年後の今も、なお続いている。それが教会です。

 イエスの譬えは、どの譬えも、聞く人を傍観者にしておかない力があります。現代のわたしたちは、この物語をどのように聞くでしょうか。胸に手を置いて考えると、わたしたち自身が、この譬えの農夫ではないかという想いを振り払うことは出来ません。わたしたちは、神の恵みに与りながら、その恵みを独り占めにしようとしていることはないでしょうか。現代における収穫は、端的に言えばお金かもしれません。或いは一人ひとりのタレント(才能)かもしれません。わたしたちは自分のお金や才能をどのように使っているでしょうか。また、神に託されたぶどう園の管理を、良い実が実るように誠実に管理しているでしょうか。わたしたちは、神のぶどう園を、人が殺しあう戦場とし、環境汚染によって作物が実るのを妨げ、大量の核兵器によってぶどう園そのものを滅ぼし尽くそうとしてはいないでしょうか。それにもかかわらず、わたしたちが滅ぼされないのは、もっぱら神に憐れみによるのです。

 この譬えを聞いた民衆は『そんなことがあってはなりません』と言いました。これは、『こんなことがないようにしてください』という祈りとも理解できます。神は、わたしたちが、たとえどんなものであろうと、滅ぼし尽くすことはされないことを信じたいと思いますが、わたしたちが、いつまでも、神のぶどう園を荒らしまわることが、赦されるわけはないのです。

(牧師 広沢敏明)


2007年03月18日(日)(大斎節第4主日 C年) 晴れ
「 断腸の思い 」

――今日の聖句――
<そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢 の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。>[ルカによる福音書 15:17−20]

 今日の聖句は、有名な「放蕩息子の譬え」の一節です。放蕩息子という表題が付けられていますが、この譬えの本当の主人公は、父親です。

 最後の行に「憐れに思い」という言葉があります。元の言葉は、心臓や肝臓などの内臓を意味する言葉から派生した、「生け贄として捧げられた動物の内臓を食べること」を表す言葉です。そこから人の苦しみや悲しみを見て、自分の内臓がキリキリと捩れるような痛みを感じることを表す言葉となりました。岩波版の聖書では、「断腸の想いに駆られて」と訳されています。ルカによる福音書は、この言葉を神やイエスの心を表す場合にだけしか用いていていないことに注目したいと思います。

 この「痛み」の根源は「愛(アガペー)」です。父親は、この放蕩の限りを尽くした息子を見て、裁かねばならない想いと、愛さねばならない想いの葛藤の間で、内臓が捩れるような痛みを感じるのです。

 主イエスもまた、人々の苦しみや悲しみに触れて、はらわたの捩れる痛みを覚えられました。昨年来、子どもたちをめぐる心痛む事件が頻発しています。ことにいじめや児童虐待による悲惨な事件を聞くとき、何ともやるせない気持ちになります。凍てつく冬の夜、裸で外に放り出され震えている子ども、食べ物を与えられず飢えている子ども、拳で殴られ足で蹴られて傷の痛さをじっと堪えている子ども、愛されず寂しさに泣いている子ども。主イエスは、そのような子どもと共におられ、一緒に苦しんでおられるのです。

 このはらわたの捩れるような痛み、その延長上に、主イエスの十字架があります。主イエスはわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちの多くの罪にもかかわらず、わたしたちの苦しみを担い、十字架の上で、これ以上ない苦痛を経験されました。わたしたちはその痛みによって癒され、救われたのです。わたしたちが、癒され、なぐさめられるのは、わたしたちの苦しみや悲しみを、本当に分かってくださる方が、そばにいてくださるからです。主イエスは、真の人間であるからわたしたちの苦しみを本当に分かってくださり、真の神であるから、わたしたちを救うことがおできになるのです。

 わたしたちクリスチャンが、キリストの業に参与しようとすることは、他者の痛みに寄り添うことにほかなりません。それは、裸の人に服を着せることであり、家のない貧しい人に避難所を提供することであり、飢えている人に食べ物を与えることであり、病気の人を訪問することなのです。わたしたちは、幸せによって神に近づくことは極めて難しいのかもしれません。他者の痛みに参与することは、神が、わたしたちが神に近づくために用意された太い道なのです。

(牧師 広沢敏明)


2007年03月04日(日)(大斎節第2主日 C年)
「 反逆の歴史 」

――今日の聖句――
<ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」:イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」>[ルカによる福音書 13:31−34]

 今日の聖句に登場するヘロデは、ヘロデ・アンティパスといい、ガリラヤの領主で、洗礼者ヨハネの首をはねた人物です。その人物が、イエスに対して殺意を抱いていることが明らかになったのです。ルカによる福音書によれば、イエスの生涯は、その誕生のときから不穏な空気が渦巻いています。先ず、生まれる場所が定められていませんでした。最初の宮もうでのとき、シメオンは母親マリアに、「この子は、反対を受けるしるしと定められている。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言しました。更に、成長され、初めて故郷ナザレで説教されたとき、イエスの言葉に憤った人々は、イエスを崖から突き落そうとします。

 今日の聖句の言葉、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」、 この言葉の背後には、旧約聖書に記されたイスラエル民族の歴史があります。旧約聖書がその全巻を通じて語るのは、「イスラエルの民の神への反逆の歴史」であり、「預言者の受難の歴史」です。預言者イザヤもエレミアもエゼキエルも、その使命のために自分の命をかけました。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 この言葉は、そのようなイスラエルの民やエルサレムの都へのイエスの深い思いを表しています。本来、神の都であり、神の栄光を表すべきエルサレムを、「反逆の都」、「石で撃ち殺す者」と呼ばざるをいない悲しみです。

 わたしたちが心しなければならないのは、このようなイスラエルの預言者殺しの歴史は、2000年以上昔の、遠くはなれた異国の出来事であっても、現在のわたしたちと無関係ではないということです。わたしたちもまた、幾たびとなく神の言葉を殺してきたのではなかったでしょか。 わたしたちは、日常生活の中で、イエスの言葉を受け入れることの難しさを味わいます。イエスを知ったことによって、心に葛藤が生じます。イエスの弟子たちがそうであったように、これまでと同じ生活を続けることが出来なくなるからです。わたしたちは何とかして自分を正当化しようとしますが、結局は、雛を羽の下に集められる神の愛にゆだねることしかないことに気がつきます。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update May/26/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会