今週のメッセージ――主日の説教から


2007年05月27日(日)(聖霊降臨日 C年) 晴れ
「 弁護者(パラクレイトス)」

――今日の聖句――
<「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」>[ヨハネによる福音書 14:15−18]

 今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。イースター、クリスマスと並んで三大祝日の一つで、「教会の誕生日」、「福音宣教の始まった日」と言われますが、イースターやクリスマスほど余り一般的ではありません。その一つの理由に「聖霊」が、いまひとつ分かり難いということにあるように思います。聖霊は、わたしたちにいろいろな形で働きかけておられます。

 皆さんの中には、若くして、母親、或いは父親をなくした方もおられると思います。その方々は、今でも、いつも、傍に母親、或いは父親がいて、見守り、助言してくれているという感覚をお持ちではないでしょうか。イエスの弟子たちもそうでした。イエスが十字架にけられて殺された後、弟子たちは、自分たちも捕まえられて、イエスと同じ運命になることを恐れて逃げまどいました。しかし、その苦しく惨めな逃亡生活の中で、むしろ、それまで以上に、自分たちは、イエスに守られている、いつも主イエスが見守っていてくださっていることを、ひしひしと実感したのではなかったでしょうか。

 今日の聖句に、「弁護者を遣わす」とあります。ここで、「弁護者」と訳された言葉は、ギリシャ語ではパラクレイトスと言います。「呼ばれて傍らにいる者」という意味です。なかなか日本語にぴったりした訳がなく、「助け主」、「慰め主」などとも訳されて来ました。「弁護者」とは、わたしたちが苦難に遭うとき、また言われなき非難を浴びせられるとき、わたしたちの傍にいて、慰め、助け、弁護してくれる人です。「弁護者」とは、聖霊の働きの一つです。

 このわたしたちの傍にいて、いつも見守っていてくださる聖霊を、「同伴者イエス」として、わたしたち日本人に訴えたのは、作家の故遠藤周作氏ではなかったかと思います。遠藤氏は、『死海のほとり』という小説の中で、弟子の一人アルパヨが、イエスと出会う場面を、このように描いています。

 <ある日、何故か小屋の戸が軋んだ音をたてて開いた。突然ほの暗い内側に鉛を溶かしたような陽光が流れ込んだ。そしてその一条の光にあの人の影が地面に落ちていた。あの人は一人で小屋にやって来たのである。・・・高熱にうなされてアルパヨが悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をあげる時、あの人は小さな声で言った。「そばにいる。あなたは一人ではない」、あの人が彼の手を握ってくれると、苦しみは不思議に少しずつ減っていくような気がした。「そばにいる、あなたは一人ではない」、その声は昼も夜もアルパヨの頭の中に聞こえていた。そして或る朝、彼が眼を覚ました時、熱がすっかり去っているのを感じた。その人は疲れ果てて膝の上に頭を乗せたまま眠っていた。>(『死海のほとり』p79)

(牧師 広沢敏明)


2007年05月20日(日)(復活節第7主日 C年) 晴れ
「 栄光は、わたしたちの上にも 」

――今日の聖句――
<また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるよ うに、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。>[ヨハネによる福音書 17:20−22]

 ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、最後の晩餐の後、遺言とも言える長い説教をされ、その後、この世に残される弟子たちのために切々と父である神に祈られます。

 今日の聖句は、その祈りの締めくくりの部分です。ここで、主イエスは、十二弟子など直弟子だけでなく、その弟子たちによって教えを受けた人々のためにも祈っておられることに注目したいと思います。それは現代のわたしたちでもあるからです。

 ヨハネによる福音書は、西暦90年から100年頃に書かれたと言われています。読者は、ヨハネの教会の、イエスから見れば、孫弟子、更にその弟子たちではなかったでしょうか。ヨハネの教会は、外部からはユダヤ教の激しい迫害にさらされ、また、内部的には異端的思想のために、教会は深刻な分裂の危機に瀕していました。これを読む信徒たちは、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、それは自分たちのことだ。主イエスは、他でもない自分たちが一つになるために祈ってくださっている、と思ったに違いありません。

 何のために弟子たちは一つにならねばならないか。その理由はただ一つ、世の人々が弟子たちを見て、イエスを信じるようになるためです。そのために、主イエスは、弟子たちに、「父が与えてくださった栄光を、弟子たちにも与える」と言われます。

 「栄光」とは、「神の働き」、或いは「神の存在」が、そこにあることの「しるし(輝き)」ですです。わたしたちは神そのものを見ることはできませんが、その「輝き」を見て、そこに、神が働らいておられることを知ることができます。

 「栄光」は、丁度ロウソクの炎のようなものです。炎が燃えているのではありません。燃えているのは油です。栄光という炎は、何が燃えている炎なのでしょうか。それは「愛」にほかなりません。栄光は、外から見える輝きであり、そこで燃えているのは「愛」です。

 主イエスは、弟子たちに、「新しい掟」を与えると言われました。それは、「互いに愛しあいなさい」ということです。弟子たちは互いに愛し合うことによってのみ、一つになることができるのです。そのとき、「栄光」が彼らの上に輝くのです。名誉ある輝きです。弟子たちの愛が、神に受け入れられたことの「しるし」です。世の人々は、その栄光を見て、主イエスを信じるようになります。

 現代において、弟子たちとはわたしたちのことです。教会が愛に満ち溢れるとき、その教会の上には「栄光」が輝きます。それは、主イエスが弟子たちあたえられた栄光です。

 世の人々は、その栄光を見て、主イエスを信じるようになるのです。福音宣教の核心は、「わたしたちが互いに愛し合うこと」、であることを改めて心に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2007年05月13日(日)(復活節第6主日 C年) 晴れ
「 互いに愛し合いなさい 」

――今日の聖句――
<わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む>[ヨハネ福音書 14:23]

 先週の福音書のイエスさまは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。それに続いて今週は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ福音書14:23)とおっしゃっています。イエスさまを愛することはイエスさまの言葉を守ることであるとイエスさまは言われますが、イエスさまの言葉というのは先週福音書の本文の中のみ言葉である「互いに愛しなさい」であると思います。すなわち、互いに愛し合うことはイエスさまを愛することであります。そうするとわたしたちは神様に愛され神様はいつもわたしたちと共におられるということを今日の福音書は語っています。

 愛するということは一体何でしょうか。愛するということをあえて言葉で表現するとその意味が限定されてしまう恐れもありますが、言葉で表現しますと「かわいがること」、「大切にすること」、「このむこと」、「知ること」、「無視しないこと」、「感心を持つこと」などいろいろありますが、わたしが確信することは「愛する」ことはイエスさまがわたしたちに送って下さった大きなプレゼントであるということです。

 例えば、わたしたちが飲む水は、神様の愛とちょうど同じようなものだと思います。わたしたちが毎日当たり前のように水をじゃぐちからもらうように、イエスさまは「愛」をいつもわたしたちにくださっています。それを当たり前のようにもらうか、あるいはわたしたちは注がれるイエスさまの「愛」に気づかないまま生活しています。イエスさまが下さる愛を自分だけのコップにいれて飲みます。しかし本当は、もらったコップの中の水、すなわち「愛」は隣人に絶え間なくわけてあげなければなりません。空っぽになっても心配しないでください。隣人に水「愛」を全部あげてもイエスさまはまたわたしたちに愛を注いでくださいます。もらった愛を隣人に入れてあげると、また隣人はその隣の人に入れてあげなければなりません。自分だけで全部飲んではいけません。

 イエスさまがなぜわたしたちに愛を注いでくださるか。その理由は「ありません」。例えばあなたが上手に歌が歌えるから神様はあなたを愛している、というわけではありません。勉強ができるから、でもありません。毎周教会に来るから、でもないのです。強いて言えば、わたしがわたしだから、あなたはあなただから、神様は愛してくださるのです。それはわたしたちが神様に似せて神様が創られた大切な存在であるからです。ほかの理由はないのです。

 みなさんも隣人に愛を注ぐ時は理由なんかありません。みなさんの隣人はみんな神様が創ってくださった大切な人です。大切な人にいつも愛を注ぎましょう。「かわいがりましょう」、「大切にしましょう」、「無視しないようにしましょう」、「感心を持ちましょう」・・・ 互いに愛し合う、イエスさまを愛する皆さんと共にいつも神様がおられます。

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年05月06日(日)(復活節第5主日 C年)
「 新しい掟 」

――今日の聖句――
<ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄 光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。・・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」 >[ヨハネによる福音書 13:30−35]

 今日の聖句は、「最後の晩餐」の後、イエスが弟子たちに語られた長い説教(告別の説教)の冒頭の部分です。イエスは、「新しい掟を与える」といわれます。この掟のどこが新しいのでしょうか。旧約聖書のレビ記の19章に、このような言葉があります。

 <心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。>[レビ記 19:17−18]

 「自分自身を愛するように隣人を愛する」、この言葉は、黄金律と呼ばれ、イスラエルの人々に大切にされてきました。愛の最高の基準です。その「愛の基準」を、イエスは、「わたしが愛するように」とさらに大きく引き上げられたのです。「愛の基準」が、「自分を尺度とする基準」から「イエスを尺度とする基準」に引き上げられたのです。

 でも、わたしたち人間は、イエスが愛されたように人を愛することが、果たしてできるのでしょうか。先週の土曜日、渡辺和子シスターの講演を聞く機会がありました。

 彼女は、昭和11年に起きた2.26事件で、父親渡辺錠太郎教育総監を殺されました。大好きな父親が36発の銃弾を受けて殺されるのを、当時9歳の彼女は1メートルの至近距離で見ていたと言われました。その後、彼女は、17歳で洗礼を受け、愛と赦しの実践に命をかけるべく、修道女になります。彼女は、著書の中でこのように言っています。

 <私には、一人の人間が他の人間を心から赦せるだろうかというこだわりがあります。それは、大好きな父親を私の目に前で殺した相手に対して抱いている自分の正直な気持ちなのです。・・・それは、その「敵の一人」と10年ほど前思いがけず一つのテーブルについたとき、コーヒーが喉を通らなかった思い出があるからなのです。今でも、父の死を陰で操ったと思われる人たちの家族に対してのわだかまりはとけていません。心から赦すなどということが、果たして人間にできるでしょうか。イエスさまはそれができました。・・・でも、私には、どうしても心の片隅にこだわりが残ってしまい、そしてそのことで苦しむのです。・・・でも私は、あのキリスト、そしてそのキリストが語った天の父は、人間の弱さを知り、その精一杯の努力を戦いをきっと評価してくださる方だと信じています。そして、心から赦せないゆえの謙虚さを見ていてくださるキリストを信じて、今日も私は行き続ける勇気をいただくのです。>『愛することは許されること』p80)

 わたしたち人間は、人を心から愛し赦すことはできないかも知れません。しかし、心の葛藤、その只中にこそイエスに十字架が立っています。わたしたちは、諦めるのではなく、居直るのでもなく、ただ謙虚であることを願いたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Jul/05/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会