今週のメッセージ――主日の説教から


2007年11月25日(日)(聖霊降臨後最終主日 C年) 晴れ
「 主がお入用なのです 」

――今日の聖句――
<イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」>[ルカによる福音書 19:29−31]

 教会のカレンダーでは、今日は、今年最後の日曜日です。この日には、旧い年と新しい年をつなぐ日ということで、特別な意味が与えられてきました。伝統的には「王であるキリストの主日」と呼ばれてきましたが、昨年から、日本聖公会では「キリストによる回復の主日」と呼ぼうということになりました。今日の「祈り(特祷)」では、このように祈ります。

 <永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。・・・>

 キーワードは「回復」ということです。わたしたちにとって、「回復」とはどういうことでしょうか。

 今日の聖句は、イエスがエルサレムに入城されるときに乗るロバを、二人の弟子たちが調達する場面です。この弟子の行動を「弟子の冒険」と言った人があります。それは、イエスの命じられた通り、ロバが見つかるかどうか、半信半疑のまま、イエスの言葉だけを信じて村に出かけたからです。

 私は、弟子たちの行動もさることながら、このロバの持ち主の方が、更に大きな冒険をしたように思います。突然、見たことのない男が二人現れて、黙って、つないであった綱を解いて自分のロバを連れて行こうとします。驚いて詰問すると、「主がお入り用なのです」としか言わない。主が誰であるのか、会ったこともない。これでロバを貸すほうがどうかしています。このロバは、彼にとってなけなしの財産であり、生活の必需品であったかもしれません。しかし、このロバの持ち主は、弟子たちの申し出に同意し、弟子たちはロバを引いて帰りました。なぜ、この持ち主が同意したかわかりません。正に、ロバの持ち主は、冒険に乗り出したのです。

 今、ここにいるわたしたちも、この「主がお入り用なのです」という言葉を味わってみたいと思います。「主がお入り用なのです」という言葉は、クリスチャンになった者は誰でも、どこかで聞いたはずなのです。聖職のように自分のすべてではないかもしれませんが、自分の持っている大切な何かを主のお入り用に差し出す決意したのであります。しかし、月日が経ち、クリスチャンの経験を積むに従い初心が薄れてきます。その「ご用」が、何であったのか、ぼんやり曖昧になってきます。わたしたちは、時々、初心に戻って、「自分のご用」が何なのか確認することが必要かもしれません。ご用が分かれば、それを差し出すための冒険に乗り出すことができます。

 今、わたしたちにとって、「回復」とは、「自分のご用」を再確認し新しい冒険に乗り出すことでなないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2007年11月18日(日)(聖霊降臨後第25主日 C年) 晴れ
「 「今」を大切に 」

――今日の聖句――
<あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。>[ルカによる福音書 21:18−19]

 紀元前2世紀から1世紀の間の時代は、イスラエル民族がシリア政権の迫害とローマ帝国の支配よって苦しめられた時期でした。現実の中では何の希望が持ってなかった人びとに、宗教的希望を与えるために黙示文学者たちは次のような歴史観を考えました。この世は一つではなく、「この世」と「来る世」であると。すなわち「歴史」と「終末」として分けて考えました。

 ルカによる福音書が書かれた時期の初代教会もその黙示文学の影響を受けイエス来臨の信仰を持っていました。なぜかというと、ルカによる福音書が書かれる前であるA.D.70年に、ローマ軍はエルサレムでのユダヤ人反乱を鎮圧し、ローマ軍は城壁を破壊し神殿は崩壊しました。ユダヤ人の独立戦争は敗北で終わりました。その敗北によって1948年イスラエルの建国までユダヤ人は国を持たない民族として苦難の日々を過ごすことになりました。当時初代教会のユダヤ人キリスト者はイエス様が速やかに来臨し救ってくださることを望んでいました。ルカにはこの思いが強く働いたに違いないと思います。ルカは、イエス様が裏切られ、引き渡され、死なれても、すべての悪の勢力に打ち勝って復活されたことを伝え、当時のキリスト者に忍耐を持って希望を捨てないように強く述べています。

 わたしたちは平和の中ですごしながら終末というのが経験できないかもしれません。しかし、大切なのは毎瞬間を終末のように生きることです。今わたしはここでしゃべることが人生の最後であると思い頑張ってお話したいと思います。皆さんもこの礼拝が人生の最後だと思ったら精一杯お祈りすることができると思います。そのように何でも最後であると思って頑張っていきたいのです。

 また戦争のような大きいことではないけどわたしたちは終末のような、世の終わりのようなことに直面することがあります。そのときこそ忍耐を持っていただきたいです。今苦しくて耐えられない現実であっても神さまはわたしたちの命を勝ち取ってくださるという希望を望みながら祈りましょう。また言葉だけの祈りではなく営みそのものが祈りとなるように実践しましょう。

 神さまが「その髪の毛一本も失われることはない」と言われたように皆さんと絶え間なく共におられると固く信じます。

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年11月11日(日)(聖霊降臨後第24主日 C年) くもり
「 祈りは教会の力 」

――今日の聖句――
<終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。>[テサロニケの信徒への手紙II 3:1−2]

 今日の聖句で、パウロは、テサロニケの教会に、繰り返し「わたしたちのために祈ってほしい」と願います。パウロは、二つのことを願っています。「主の言葉が、速やかに宣べ伝えられる」ことと、「悪人どもから逃れられる」ことです。「悪人ども」とは、文字通りパウロの宣教を妨害するユダヤ教徒たちを指しているわけですが、現代の読者であるわたしたちにとっては、もっと広く「悪そのものから逃れる」と考えることも許されるのではないかと思います。

 「悪」は、自分の外から襲ってくるとともに、自分の内から湧き上がって自分を襲ってきます。つまり、「悪」には、「外面的な迫害や妨害、事故や病気」であるとともに、「心の中から生じてくる内面的な悪い思い」の二つがあるように思います。

 パウロが、外からの悪以上に真剣に悩んだのは、この内から湧き上がってくる悪の問題です。わたしたちは、人を愛そうとしても真実に愛しきれない自分を知っています。肉体の欲望を押さえようとしても押さえきれない自分を知っています。

 聖書には、「口は災い」というテーマがしばしば登場します。わたしたちは、心ならずも、つい「人を傷つける言葉」、「言わなくてもよいこと」を言ってしまって、後で後悔します。心理学の研究によれば、人間の行動の90%は無意識によるもので、残り10%だけが意識のコントロール下にあるとも言われています。

 パウロもまた、意のままにならない「心と体」に深刻に悩んだ人物でした。パウロは、自分の中に、自分の力ではどうにもならないできない部分があることを知り悩みました。善いことをしようとしても、どうしてもそれができない自分を知り、そういう自分を「何と惨めな人間でしょう」と告白しています。そして、生きている限り悪から逃れられず、悪から逃れるためには死ぬしかないとまで思い詰め。死なないでおこうとすれば、イエス・キリストに頼るしかないと思うようになりました。

 神に頼ることは、祈ることです。「祈ることは、叫ぶことだ」と言った人があります。パウロは、外からの悪と、内からの悪と戦う中で、自分で祈るだけでなく、どうしても、教会の人々に、自分のために祈ってほしい、一緒に神に向かって叫んでほしいと書かずにはいられませんでした。

 この手紙を受け取ったテサロニケの教会は、パウロのために、それこそ叫ぶように祈ったのではなかったでしょうか。教会は祈りの群れです、祈りの共同体です。教会から祈りが失われれば、もはや教会とは言えません。祈り以外に教会は何も持っていません。政治力も資金力もありません。しかし、逆説的ですが、教会は、祈ることによって不可能を可能にすることができるのです。祈りは教会の力です。

(牧師 広沢敏明)


2007年11月04日(日)(聖霊降臨後第23主日 C年) 晴れ
「 信仰の賞味期限 」

――今日の聖句――
<兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教 会の間で誇りに思っています。>[テサロニケの信徒への手紙II 1:3−4]

 使徒パウロが、テサロニケの町を訪れたのは西暦49年の秋と言われています。テサロニケの町は、ギリシャの北部、エーゲ海のテルマ湾に面した大変美しい町です。当時、ギリシャではアテネに次いで第二の都市として栄えていました。パウロは、その町に4週間程滞在しましたが、その間に少なからぬ人々が信徒になりました。この「テサロニケの信徒への手紙」は、その翌年、西暦50年、コリントの町に滞在中、書かれたのではないかと考えられています。新約聖書の中で、最も古い文書であります。

 この手紙は、「愛と希望の手紙」と呼ばれることもあります。パウロが注目するのはテサロニケの教会の信仰です。この手紙には、教会誕生当初の、まことに純粋な初々しい信仰の姿が描かれています。

 今日の聖句に、「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」とあります。具体的にどのような迫害・苦難であったかは書かれていません。パウロとテサロニケの教会の人々の間では当然分かりきっていたことだったのでしょう。

 突然やって来たこのパウロという人物の語る福音を受け入れなければ、テサロニケの教会の人々は、それまでどおり安楽に日常生活を送れたに違いありません。しかし、一度、キリストを知ってしまったために、町の人々から、犯罪人として十字架につけられた人物を神と崇める変な人々の仲間とののしられ、ユダヤ人からは中傷や迫害を受けるようになりました。また、イエスの愛の教えを知ってしまったがために、これまでなかった愛の悩みを抱えることになる、世の中をそう呑気に生きていけなくなる。そのようなことだったかも知れません。

 今日は、この練馬聖ガブリエル教会の創立72周年記念日です。わたしたちは、時折、このような純粋な信仰を思い起こし、初心に帰る必要があるように思います。信仰に賞味期限があるのかどうか分かりませんが、信仰も、人の営みですから手入れを怠り、放っておくと味が落ち、緩んできます。わたしたちが、教会での礼拝や交わりを大切にするのはこのためです。信仰は、人と神との関係だから、教会など不必要だ、余計な人間関係に煩わされない方がよいという考えも分からない訳ではありませんが、教会を離れた信仰がいかに脆く、危ういものかは、少し教会を離れてみるとお分かになるのではないでしょうか。生活から「けじめ」が失われ、生活が荒れてきます。「けじめ」とは、常に新鮮さを失わないということです。

 最近、「求道者のいる教会は、元気な教会だ」という話を聞きました。求道者のみずみずしい信仰が教会全体を元気にしてくれるのです。教会とは、礼拝と交わりのなかで、自分の信仰の賞味期限を新しくしていく場所です。教会に新しく来られる方は、その元気の源泉です。そして教会が元気であるというのは、教会に愛が溢れていることです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Jan/05/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会