今週のメッセージ――主日の説教から


2007年10月28日(日)(聖霊降臨後第22主日 C年) 晴れ
「 善き戦いをたたかう 」

――今日の聖句――
<わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時 が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。>[テモテへの手紙II 4:6−8]

 今、使徒パウロはローマにおいて、牢の中でこの手紙を書いています。折から、ローマでは、暴君ネロのキリスト教徒迫害の嵐が吹き荒れようとしていました。パウロは、殉教の死を覚悟しました。

 わたしたち、人間は、誰も死を免れることはできません。いざそのときを迎えたとき、その孤独と不安をどのようにして乗り越えることができるのでしょうか。パウロには、そのような孤独感や不安感はなかったのでしょうか。

 この手紙の最後の方で、パウロは、テモテに対し二度にわたり、早く帰ってきてくれるように頼んでいます。弟子たちの多くが自分のもとを離なれ去り、ルカだけしか残っていない寂しさを吐露しています。死を目前にして、よほど寂しかったのかもしれません。

 『戦いを立派に戦い抜く』と訳されている個所は、文語聖書では、『われ善き戦いをたたかい』と訳されています。つまり、「善き戦い」を戦ったのであって、戦いを「善く戦った」のではないということです。原文には、「善き戦いを戦う」の方が忠実であるように思います。戦い自体は散々な負け戦だったかも知れない、しかし、その戦いは意味のある戦いであった、ということです。「善き戦い」とは、主が与えてくださる戦いです。パウロにとって、それは、イエスの福音を宣べ伝えることでしたし、ある場合には持病との闘いでもありました。わたしたち一人ひとりにも、主は、それぞれに、またそのときどきに、その人だけの固有の戦いを与えてくださっています。わたしたちは、それと戦っています。散々苦戦しているかもしれません。挫折と失敗の連続かもかもしれません。しかし、とにかく戦っていることには違いないのです。

 4章17節に、「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。」という言葉があります。パウロが、実際、ランオンの餌食になりかけたのかどうかの確証はありません。しかし、孤独の中で、これまでの生涯の苦難を顧みるとき、「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」としか言いようのない確信を得たのではなかったでしょうか。

 <わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。>

 この言葉は、決してパウロが自分の力や勇気や信仰を誇っているのでなく、死を目前にして、つい弱気になりそうな自分を奮い立たせ、神の方ににじり寄り、そして遂に「神は、いつもそばにいてくださる」確信を得て安らぐ。孤独と不安を克服しようとするパウロの必死の思いが伝わってくるような気がいたします。

(牧師 広沢敏明)


2007年10月21日(日)(聖霊降臨後第21主日 C年) 晴れ
「 神様のみ旨にかなう願い 」

――今日の聖句――
<神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。>[ルカによる福音書 18:7]

 ルカによる福音書は祈ること、しかも常に祈ることを強調していますが、今日の福音書でもイエス様は常に気を落とさず祈らなければならないことを話されています。それに対するたとえとして「しつこいやもめと裁判官」の話をあげています。

 あるやもめが悔しいことがあって裁判官の所に何回も行ったのですが、裁判官はその度に、彼女を全く無視しました。やもめは何の力も、お金もなかったので、しつこく願うしか方法はありませんでした。ついに裁判官はやもめの言うことを聞いてあげたという話です。不正な裁判官さえもやもめのしつこい願いを聞いてあげるのに、正しい神さまはご自分の民の願いを聞かないはずがないということから、神さまに対する信仰をもって絶え間なくつねに祈ることを促しています。

 イエスさまはこのたとえを通して、祈りというのは、即応えがなくても神さまに対する信仰を持って常に祈るとき、神さまはその祈りを必ず聞いて応えてくださるということを強調しています。イエスさまが話されたように、神さまはわたしたちの祈りを聞いてくださるという確信を持って生きていかなければなりません。また祈りが信仰を守る道であり、祈りによって信仰が成長することは忘れてはいけないと思います。

 しかし神さまに対する信仰と確信をもって祈っても、その祈りに対する応答がない場合をわたしたちは経験したことがあるでしょう。それは神さまが願うことではなく、自分がほしいことばかり、願っているからかもしれません。わたしたちが祈るときは、神様のみ旨にかなう「自分の願い」でなければなりません。神さまのみ旨と自分の心は、「自分に必要とするもの」と「自分が欲しがっているもの」として分けられます。必要とするものは必ずなければならないものです。一方、欲しがっているものはただ自分が願うことであって、あればいいけれども、なくても命とは関係ないことです。

 わたしたちは永遠なる命が必要です。
 わたしたちは神さまのみ助けが必要です。
 わたしたちは信仰が必要であり、希望が必要であり、愛が必要であります。

 このようなものを得るためには各自の意志と努力が必要です。なぜかというとこのようなものはわたしたちが欲しがっているものではなく、わたしたちにぜったい必要とするものだからです。

 最後に、祈りというのは「願い」だけではなく、感謝と賛美をしなければなりません。わたしたちのすべての営みが主によって恵まれていることに対して常に感謝し賛美をしなければなりません。そして悔い改めの祈りが必要です。神さまに背いて反対側にいることを認め、本来あるべき神さまのところに立ち返らなければなりません。人間は罪深いですが、神さまは悔い改めを待って、怒りを抑えておられます。神が忍耐するのは人が神さまへと立ち返るのをまっています。その三つをまとめてみると、祈りというのは神様に対して「ありがとう」、「ごめんなさい」、「お願いします」の構造で、やもめのようにしつこく呼び求めるものだと思います。イエスさまはおっしゃっています。
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年10月14日(日)(聖霊降臨後第20主日 C年) くもり
「 本当に生きるということ 」

――今日の聖句――
<イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。・・・ 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」>[テモテへの手紙II 2:8、11]

 「テモテへの手紙II」は、使徒パウロが、最愛の弟子テモテに宛てて書いた遺言とも言われています。パウロは、この手紙を、牢獄の中で書きました。今日の聖句はその核心ともいえるところです。それは、イエス・キリストは、死者の中から復活された方であり、そのことは、わたしたちの『生き死に』と関係があるということです。もし、あなたが、「あなたは、本当に生きていますか」と問われたら、どのように答えるでしょうか。

 わたしたちの日本語には、「いのち」という言葉は、一つしかありませんが、聖書には、二つの言葉が使い分けられています。一つは、「ビオス」という言葉で、心臓が動くとか、脈があるとかいう場合の「いのち」で、これを「自然的命」とか、「生物的命」と言います。もう一つは、「ゾーエー」といい、肉体の死にもかかわらず生き続けるような「いのち」、或いは、人間らしく、自分らしく生きている「いのち」です。聖書で、「永遠の命」という場合の「いのち」です。ある人は、この「いのち」を「人格的命」と言いました。

 わが国の自殺者の数は、非常に高い水準にありますが、人間だけが自殺するということも、わたしたちが、この「自然的命」と「人格的命」を持っていることを裏付けているように思います。人が自ら命を絶つ理由は様々です。廻りの人々の期待に応えることができない、自分の責任を果たすことができない、自分は愛されていない、孤独だ、存在意味が分からなくなった、などの理由で、もう生きている意味がない、自分の「人格的命」は終わってしまったと感じた人が、自らの「自然的命」をも絶ってしまうのです。

 このように、聖書は「ビオス」(「自然的命」)と「ゾーエー」(「人格的命」)を使い分けているのですが、これは、二つの命があるということではなく、一つの「いのち」に二つの側面があるということです。イエスの有名な『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』[マタイによる福音書4:4]という言葉は、このことをよく表しています。人はパンなしで生きることはできませんが、パンだけで生きることもできないのです。

 聖書が「永遠の命」という場合、「永遠」とは、時間的に未来永劫ということではなく、「いつも、今」ということです。「今を大切にし、その今をどう生きるか」に焦点があるのです。それは、今、「人格的命」を生き切ることです。「人格的命」を生き切るとは、「イエスの言葉に従って生きる」ことです。もし、あなたが、今、「人格的命」を生き切っているなら、既に、あなたは、「永遠の命」を得ているのです。

 ただ、もし、あなたが、今、「永遠の命」を生きているとしても、それは、あなたの努力や善行の所為ではなく、もっぱら神の一方的な愛の働きだということです。「復活」とは、そのような「いのち」の神秘に気づき、そのような「いのち」を生き切ることでなないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2007年10月7日(日)(聖霊降臨後第19主日 C年) 晴れ
「 信仰の継承 」

――今日の聖句――
<そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。>[テモテへの手紙II 1:5]

 使徒パウロは、西暦48、9年頃、第1回宣教旅行の途中、小アジアの内陸の町リストラに行きました。そのとき、テモテの祖母ロイスと母エウニケに出会います。それから約3、4年後、第2回宣教旅行の際、パウロは、再びこのリストラに立ち寄り、エウニケの息子テモテに出会いました。以降、テモテは、生涯、パウロが最も信頼する忠実な弟子として、パウロと行動を共にします。

 わたしたちは、このように、母から子へ、子から孫へ、信仰が継承されることを望んでいます。しかし、今日、「信仰の継承」は、極めて難しくなってきています。わたしたちの中には、クリスチャン三代目、或いは四代目という方も少なくありません。しかし、自分の子ども、或いは孫が信仰を受け継いでくれるかどうか、大変心もとない状況にあります。

 わたしたちの教会の『これからの教会のビジョン』の中で、「信仰の継承」について、このように書かれています。

 「信仰は、一つの生き方を選ぶことです。子どもたちの生き方は、子どもたち自身が選ぶものではありますが、親として、教会として、子どもたちがどういう生き方を選ぶについては、責任があります。子どもたちの自主性を尊重することと、子どもたちに正しい生き方を教えることと混同してはなりません。今、信徒の家庭においても教会離れが進みつつあり、信仰の継承が問われています。」

 大切なことは、「信仰の継承」を、個々の家庭や家族の問題としてはならないということです。教会全体の課題として、どの家の子どもも教会が責任もって育てていかなければならないということです。現代のこの国で、ゼロ歳の赤ちゃんから、90歳のお年寄りまで、共に祈り、食事をし、話し合う集まりは、教会以外にはないように思います。この中で、相手へのいたわりや、思いやりが育まれていきます。かつては、家庭がその役割をはたしていました。今日の社会のギスギスした人間関係は、日本の社会から、このような集まりが消滅してしまったことと無縁ではないように思います。

 家族とは、特別の情念が支配するところといえます。親が子どもに抱く愛情や気配りの多くは、非合理的で感情的です。非合理的ともいえる愛情によって、どこかで大目に見てもらっているから、安らぐことができるのです。教会が、「神の家族」であることの現実的な意味は、それと同じような情念、別の言葉で言えば、「血の通った愛情」が支配している所だということです。「血の通った愛情」は、老人を力づけ、若者を励まし、悲しんでいる人を慰め、子どもを育てていきます。

 教会が、そのような暖かい愛情に包まれているとき、その愛情の中で育った子どもたちは、わたしたちの信仰を継承し、成長していってくれるのではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Nov/14/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会