今週のメッセージ――主日の説教から


2007年09月30日(日)(聖霊降臨後第18主日 C年)
「 信仰を持つということ:わたしの神 」

――今日の聖句――
<神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。>[テモテへの手紙I 6:11−12]

 今日の聖句に、「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」とあります。素晴らしいメッセージです。こうありたいと願いますが、自分には到底無理だ、と感じられた方も少なくないのではないでしょうか。「不動の信仰」を持ちたいと思いますが、なかなか持てないのが現実です。むしろ、多くの人にとって、現実の人生は迷いの連続です。迷いが正常とも言えます。そのような迷いの中で、辛うじてでも信仰を保っていく道はないのでしょうか。

 主イエスは、「健康な人は、医者はいらない」と言われました。迷いの中にある人々にこそ目をかけられました。わたしたちの神は、わたしたち一人ひとりを、そのあるがままの状態で肯定し、包み込んでくださいます。そして、わたしたち一人ひとりに対して、その人の神となってくださるのです。神がこのような方であるから、私のようなものでも、生きることを許されているのです。

 そのような「迷いの中の信仰」を人に語ることは、かなり恥ずかしいことですが、今の私には、このように答えることしかないように思っています。

 「私にとって、神は、時折、耳元で『お前は、それでいいのだな』と囁く声であり、『お前のために、悪いようにはしない』と言ってくださる方だ」ということです。

 お前の信仰は、「たったそれだけか」と問われれば、まあ、「そんなところ」と言うしかありません。人間というもの、誰にも見られていないとすると、間違いなく、悪い方に行ってしまうのは間違いないように思います。私のようなものでも、現在程度に生きていられるのは、時折「お前、それでいいのだな」と囁やいてくださる方がおられるからであり、いろいろ迷いながらも、「仕方がない」と現状に居直っていられるのも、「悪いようにはしない」と言ってくださる方のお陰ということです。

 わたしたちが生きているこの現代は、この程度の信仰についても批判があります。それは学校で習った知識から見ると疑わしいこと、世間の常識から見ると愚かなことというのです。しかし、科学がここまで進んだ現在においても、人間に分かっていないことは無限にあります、それにもかかわらず、人間の力ですべてを解決できると考えるのは、やはり、人間の傲慢としかいえないように思います。このような人間の傲慢は、思わぬ仕方で、その付けを支払わされるような気がしてなりません。

 その意味で、そのような疑わしさと愚かさを知りながら、自分の欠け(迷い)と人間の限界を知るがゆえに、自分の心を神に開いていくことは極めて健全なことではないでしょうか。信仰を持つということは、この自分の欠け(迷い)とこの限界を超えることの危険を感じたものが、少し大げさにいえば、自分自身と人類をその危険から守るためにとる謙虚にして責任ある態度とは言えないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2007年09月23日(日)(聖霊降臨後第17主日 C年) 晴れ
「 教会の祈り:亀裂に橋をかける 」

――今日の聖句――
<そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。・・・神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。>[テモテへの手紙I 2:1−8]

 当時の社会もそうでしたが、現代の社会にもいたるところに、「亀裂」が走っています。 亀裂は、国と国の間にあるだけではなく、人と人の間、神と人の間、更に人の心の中にもあります。親が子を、子が親を殺す事件が後を絶ちません。家庭の中にも亀裂が深まっています。学校でのいじめは、生徒と生徒、教師と生徒に間の亀裂です。日本における自殺者の数は、9年連続3万人を越えました。世界でも異常に高い水準です。自己が引き裂かれているのです。

 わたしたちが祈るのは、「祈り」よって、この世のあらゆる亀裂をつなぎ、橋をかけることができると信じるからです。今日の聖句には、「祈り」の、4つの側面が示されています。「願い」と「祈り」と「とりなし」と「感謝」です。「祈り」が、亀裂にかける4つの橋です。

(1)「願い」:「願い」の根底には「欠け(欠乏)の自覚」があります。人は、自分の「欠け」に気づくことによって、自分自身を知り、自己を高めていくことができます。大リーグで活躍する松井選手やイチロー選手を見てください。多分、彼らは、自分の打撃が完成したと思ったことはないだろうと思います。その欠乏感が、彼らを造り上げてきたのです。「願い」は亀裂に橋をかける作業の始まりです。

(2)「祈り」:「願い」は、「祈り」によってかなえられます。アメリカの独立戦争のとき、一人の無名の戦士が作ったとされる詩があります。その最後に、このように書かれています。

 <わたしは、自分の求めたものを、何も与えられなかった。しかし、わたしは望んでいたものをすべて得た。 わたしの祈りは、知らず知らずのうちに応えられた。 わたしは、すべての人のうち、最も豊かにされたのである。>

「願い」がかなえられるのは、そこに神が関与してくださるからです。主イエスは、十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園でこのように祈られました。

 <「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」> [ルカ 22:42]

すべてを神に委ねきったとき、「願い」はかなえられます。

(3)「執り成し」:「執り成し」とは、他者を神の前に連れて行き、神の前に立たせることです。「執り成し」は、人と人の間、神と人の間に橋をかけようとすることです。

(4)「感謝」:わたしたちが最も感謝すべきは、今、ここに自分があることの神秘です。わたしたちは、感謝の祈りをささげる中で、神によって欠けが満たされていることを知り、自分と神の間に橋が架かっていることを経験するのです。

 教会は、この世のあらゆる亀裂に橋をかけるために存在します。それは、イエス・キリストが、そうされたからにほかなりません。イエス・キリストは、十字架にかけられ死ぬことにより、神と人との間に橋をかけてくださいました。今日の聖句の後半はそのことを語っています。神と人の間の仲介者になってくださったのです。

(牧師 広沢敏明)


2007年09月16日(日)(聖霊降臨後第16主日 C年) 晴れ
「 立ち返る羊 」

――今日の聖句――
<悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。>[ルカによる福音書 15:7]

 徴税人や罪人がイエスさまに近寄ってきて、イエスさまの話を聞こうとしたとき、ファリサイ派の人々が「なぜ罪人たちと食事まで一緒にするか」と不満を言い出しました。イエスさまはその時「見失った羊のたとえ」を話されました。ある人が羊100匹を持っていたが1匹を見失ったとき、99匹の羊を野原に残して(原文では荒野に打ち捨てて)、失われた1匹が見つかるまで探しに行きました。ついにその人が失われた1匹の羊を見つけたら、喜びのあまりそれを自分の肩の上にかつぎ、家に帰ってきて喜びの宴会をするだろうという話です。続いてイエスさまは「悔い改めの必要のない99人の義人たちよりも、悔い改める一人の罪人の故に、天においては喜びがあるのだ」とおっしゃいます。

 イエスさまの譬えの中で羊を探しに行った人は失った羊を探した理由については、わたしは次のように考えます。羊が美味しそうだからもっと育てて食べるためではありませんでした。あるいはその羊の肉と毛を売ってお金を儲けるためでもありませんでした。自分が飼っていた羊の存在自体が大切で羊を愛していたからです。この話に関して、伝統的な解釈というのは、羊を探しに行った人はイエスさまで、1匹の羊はわたしたち人間だという解釈です。迷っている罪人のわたしをイエスさまはあきらめず捜しているということです。イエスさまが1匹のようなわたしたちを捜している理由は、罪人だから悔い改めさせて教会に行かせて、たくさん働かせるためではありません。お金を持っているから何とかしようということでもありません。なんか能力があるからそれを使わせようということでもありません。理由は一つ、わたしたちそれぞれをイエスさまは愛しているからです。何々だから何かを持っているから愛することではなく、わたしたちの存在自体が大切だから愛しておられます。

 本日は先月生まれたばかりの赤ちゃん、たくまくんが洗礼を受けられます。たくまくんが神様に招かれ祝福を受け、洗礼を受けられる理由は、たくまくんがお金を持っているとか、能力が優れているなどではありません。確かにかわいいですけれど、神様がこの世に送ってくださったたくまくんの命、存在それ自体を愛し、大切であると思っておられるからです。

 たとえの話の中で1匹の羊が罪人とたとえられましたが、それは神さまとの関係を破って逃げ出したからだと考えられます。わたしたちは時々神さまとの関係を破って神さまを神さまとしないときがあります。今日の旧約聖書はモーセが十戒をいただくためにシナイ山に上ってなかなか降りて来ないとき、残された民は牛の偶像を造りました。神さまはそれに対して怒りましたが、モーセの願いによって民に対する災いを思い直されました。イスラエルの民はモーセがいない間、神さまを神さまとして認めないで逃げ出し偶像を造る罪を犯したわけです。しかし神さまはイスラエルの民を愛し赦してくださいました。

 わたしたちの生活においても、わたしたちはあらゆる偶像を造って、偶像に縛られているのではありませんか。それは宗教的に神さまを救い主として信じないで他のものを自分の神さまとして信じる偶像崇拝、物質的なものを拝める偶像崇拝など、神様以外のものを絶対化する時だと思います。このようなわたしたちにイエスさまはおっしゃいました。「悔い改めの必要のない99人の義人たちよりも、悔い改める一人の罪人の故に、天においては喜びがあるのだ」と。最後に、「悔い改め」に関して一つだけ申し上げてお話を終わりにしたいと思います。

 「悔い改め」は、新約聖書の原語であるギリシャ語では「メタノイア」と言って、その本来の意味は「立ち返る」です。もともとあるべき所に立ち返るという意味です。今まで反対方向に向かって行くという事実に気づかされるのが前提として起きることです。わたしたちにとって本来あるべきところはイエスさまのところです。「悔い改め」は神さまとの本来の関係を回復することです。

 今、神さまを神さまとしないで、迷い出たわたしたちを、イエスさまは探しておられます。神さまとの関係の回復を求めておられます。それはイエスさまがわたしたちの存在自体を愛してくださるからだと思います。わたしたちを捜しておられるイエスさまのところに、わたしたちみんな立ち返らせていただきたいと思います。

(聖職候補生 卓 志雄)


2007年09月09日(日)(聖霊降臨後第15主日 C年) 晴れ
「 牧会の原点:愛と謙遜と、少々の損の覚悟 」

――今日の聖句――
<その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。>[フィレモンへの手紙 16−19]

 今日の聖句は、「フィレモンへの手紙」の一節です。この手紙は、ただ短いというだけでなく、新約聖書の中で、大変特殊な文書でもあります。それは、使徒パウロがフィレモンという個人に宛てた私的な手紙であることです。

 パウロには、いろいろな側面があります。神学者、思想家、説教者、著作家、伝道者、いずれをとっても抜きん出た存在ですが、この手紙は、牧会者(魂の配慮者)としてのパウロの一面を鮮かに表しています。この手紙の書かれた背景は、次の通りです。

 「フィレモンのもとにいた奴隷のオネシモが、逃亡した。オネシモは、逃亡先のエフェソで、パウロと出会い、導かれてクリスチャンとなる。パウロは、オネシモを主人であるフィレモンのもとに送り返すことを決断し、フィレモンに宛てて、オネシモを寛大に扱ってくれるようとりなしの手紙を書く。」

 ローマ帝国繁栄の経済基盤は奴隷制でした。それだけに逃亡奴隷の扱いは過酷でした。 パウロとオネシモは、エフェソ町の牢獄で出会ったものと思われます。パウロは同じ人間として彼に接しました。それまで、そのような態度で彼に接する人はいませんでした。その愛が彼を変えていきました。

 パウロに対しては、厳しい批判もあります。奴隷制度そのもの対し何もしていないではないかという批判です。しかし、人類の歴史において差別の問題が、はっきり人間社会の課題として認識されたのは20世紀に入ってからです。むしろ、2000年の昔に、差別を受けて苦しんでいる人に対して、「一人の人間として」接したこと、それ自体革命的なことではなかったでしょうか。牧会の原点は、差別を受けたり、苦しんでいる人たち、その一人ひとりに、一人の人間として、愛と謙遜の心を持って関わっていくことに尽きます。

 ただ、その場合大切なことは、パウロがそうであったように、わたしたちも何がしかの負債を自ら負う覚悟が必要だということです。命をかけようなどとは思わないほうがよいのですが、いつも楽な方を選び、得をする方を選び、辛い思いを避けようとばかりしていると、却って、肝心なものを取り逃がし、惨めで空虚な思いをするのが現実だからです。損と見えても、腹をくくって、真正面から受け止めると、予想もしなかった道が開け、思ったより荷が軽いというのも現実です。現実は、そういう優しい面も持っているのです。

 わたしたちは、人々に関わろうと思いながらも、力も自信もなく、方法も分からないことも少なくありません。結果に対する不安もあります。しかし、小さくても一歩を踏み出したいと思います。愛と謙遜の心から、少々の損をする覚悟をもって自分の回りの人々と生きていこうとする時、おのずから、その時々に応じ、具体的な関わり方と力が与えられるものです。

(牧師 広沢敏明)


2007年09月02日(日)(聖霊降臨後第14主日 C年) 晴れ
「 宣教の原点:兄弟愛・もてなし・思いやり 」

――今日の聖句――
<兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。>[ヘブライ人への手紙 13:1−3]

 今日の聖句は、ヘブライ人の教会に宛てた、『教会のあり方』、ことに『宣教姿勢』に関する勧告です。教会にとって宣教は本質であり、教会は宣教のために存在しています。しかし、宣教の中身は、時代と共に変化してきました。ここ数十年でも大きく変化しました。近代に至り、欧米のキリスト教会は、世界宣教に乗り出しましたが、その宣教思想は「未だキリスト教を知らない人々を、場合によっては力ずくでも教会に連れて来て、洗礼を受けさせる」というものでした。この宣教思想は、第二次世界大戦によって挫折しました。世界の各地域や各民族の固有の文化や宗教を無視したその宣教思想の欠陥が明らかになりました。そのような行き詰まりの中から生まれてきたのが「ミシオ・デイ」(神の宣教)という思想です。それは、宣教は神がなされる業であり、神ご自身はこの世の恵まれない人々のところに行かれる。その神の業に参画すること、それがわたしたちの宣教だという考え方です。

 今日の聖句の主題は、最初に書かれている「兄弟としていつも愛し合いなさい」ということです。原典では、フィラデルフィア(兄弟愛)という言葉がつかわれています。宣教の根本精神が、そこにあります。そして、その具体的な例として二つのことを強調しています。(1)「旅人をもてなすこと」と(2)「牢に捕らわれている人たちと虐待されている人たちを思いやること」です。

 (1) 旅人をもてなしなさい。
 明治以来、この箇所は伝統的に「旅人」とか「客人」と訳されてきましたが、「旅人」と訳された言葉の原語の意味は、外国人、異教徒、よそ者とも訳すことのできる言葉です。 わたしたちの教会の現状に則して考えれば、それは、「新しく教会に来られる方」ということにならないでしょうか。つまり、宣教とは、「新しく教会にこられる方を、もてなす」ということです。

 (2)牢に捕らわれている人たちと虐待されている人を思いやりなさい。
 文字通り牢に捕らわれている人たちだけを考える必要はありません。現代の東京において考えれば、山谷の家がない人たち、毎晩ネットカフェで過ごしている人たち、虐待を受けている子どもたちや引きこもっている若者たち、これらの人たちのことを思い浮かべてみたいと思います。形は違いますけれども、彼らは、今の社会状況の中で、牢に捕らえられ、虐待を受けている人たちとは考えられないでしょうか。宣教とは、これらの人々を思いやることです。

 宣教の中身は、キリスト教2000年の歴史の中で、時代により、地域により変わってきました。今日の聖句は、『宣教の原点』を示しているように思います。初代教会時代、パレスチナの辺境で生まれたキリスト教が、なぜ、あの迫害の中で、遂にはローマ帝国の国教になるまでになったか。それは、教会には、他では決してみられなかった「もてなし」と「思いやり」があり、それが多くの人々の心を捉えたからではなかったでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Nov/14/2007 (c)練馬聖ガブリエル教会