――今日の聖句――
<終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された のです。・・・:もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。>[ペテロの手紙T 3:8−9、12]
信仰する者の幸せとはどういうものでしょうか。今日の聖句にこのような言葉があります。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
「召された」ということは、信仰者とされたということです。何のために信仰者とされたか、「祝福を受け継ぐため」です。信仰者とは、神から祝福された者です。わたしたちは、その祝福を引き継いだ者だし、また、その祝福を、自分の子どもたちに、自分の家族に、自分の友人に、また自分の周りにいる人々に引き継いでく者です。
神の祝福を受け継いでいくためには、どうすればよいか。「悪をもって悪に報いず。侮辱をもって侮辱に報いず。かえって祝福を祈りなさい。」と聖書は言います。これを聞いて、皆さんはどのように、お思いになるでしょう。自分の日常を振り返ってみて、いかがでしょうか。
直接にしろ、影に隠れてにしろ、誰かがあなたが悪口をいったとします。その時、悪口を言い返さず、その人の祝福を祈ることができるでしょうか。人によって程度の差こそあれ『悪口に対しては、悪口を持って報いる』ことが、世の中の常になってはいないでしょうか。悪口を言われて、そのままにしておいては、気がすまない、心が落ち着かない、何かそれを帳消しにするような仕返しをしておかないと、計算が合わないと思っているようなところはないでしょうか。まして、祝福を祈る、などは思いもよらないことです。
このような思いの中で、今日の聖句をこの聖書の言葉を聞くのです。 あなたがたは、悪口に対して、祝福を持って報いることが出来るはずだ。悪口に対して祝福をもって報いることによって、あなたの毎日の日々を、神に祝福された幸せな日々にしていくことが出来るというのです。この手紙の著者は、詩篇34編を引用します。
<命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」> [ペテロの手紙T 3:10−12]
聖書は重ねて、このように言います。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加える でしょう。」これは大変重要な言葉であると思います。そうあって欲しいと願います。しかし、その一方でそれは本当なのか、という思いが心の底から湧きあがってきます。たとえ善いことに熱心であっても、危害は容赦なくどこからともなく襲ってくる、それがわたしたちの経験則です。思わぬ病気、天災、事故、中傷・・・。
しかし、聖書は語りかけます。「あなたは、それでもなお祝福の中にあることができる」と。よく味わってみたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
イースター後、主イエス・キリストが復活されたことをお祝いする復活節が続いています。今日はその5週目です。今日の福音書は十字架で死なれる前、弟子たちに告別の説教を行う場面です。今日の福音書箇所である14章から17章まではいわゆる「告別説教」と呼ばれる非常に大切な部分です。また葬送式で読まれる福音書箇所の一つが今日の福音書の一部でもあります。今日の福音書は父なる神さまと神様のみ旨を行おうとするイエス様、またイエス様とイエス様のみ旨を行うようにと言われている弟子たちの姿が書いてあります。イエス様は十字架上の死、復活、また昇天を通して父なる神様の所へ行こうとする前に、神様とイエスご自身、また弟子たちとの関係性について述べています。皆さんと今日の福音書の意味について考えたいと思いますが、今日は第3主日です。日曜学校の休みではなく大人も子どもも10時半の礼拝で一緒に礼拝をささげる時間なので、子どもたちと共に「子犬のウンチ」という紙芝居を通してイエス様の復活を考えたいと思います。
子犬のウンチはタンポポと一緒によみがえりました。当時イエス様を殺したユダヤ人たちはイエス様をウンチのように扱いました。いつも貧しい人々、けがれされた人々、小さくされた人々の友であったからです。イエス様がタンポポのような心の花を咲かせるとは思わなかったでしょう。イエス様は子犬のウンチのように悲しく死んでしまいました。しかし神様はイエス様をそのまま放置したのではありません。タンポポのように抱きしめてくださいました。神様に抱かれたイエス様は、ご自分も一所懸命神様を抱きしめてよみがえりました。イエス様が生きている間行われた癒し、慰め、教えは死んでしまったのではありません。きれいな花になってよみがえりました。またその花は私たちの心で咲いたのです。それと同じく人間とイエス様のことについて考えましょう。私たちはしばしば自分自身の存在意味について考えるときがあると思います。わたしはなぜこの世に生まれたのか。この世界において何の役に立つのか。あるいは自分が神様のみ業をあらわすことにおいて役に立っているのか。もしかしすると邪魔者ではないか。のようなことです。わたしもそうであります。本当にわたしって教会で必要な者であるか、という問いは聖職を志願した時から今まで絶え間なく続いている問いでもあります。
しかし子犬のウンチを見てみましょう。彼は回りから汚いもの、いらない者、邪魔者として扱いをされてきました。しかしタンポポとの出会いによって彼は変わりました。タンポポは子犬のウンチに存在意味を与えてくれました。また実際にタンポポに抱きしめられた子犬のウンチは、自分もタンポポを抱きしめて、タンポポが花として生まれ変わることにおいて大きな役割を果たしたのであります。タンポポにとって子犬のウンチは絶対必要であることと同じく、何の役に立たないと思う私たちは、イエス様にとって絶対必要であります。今日の使徒書には「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と記されています。すなわち私たちはイエス様に出会うとき私たちの存在意味について気づかれます。またその出会いによってイエス様に抱きしめられ、わたしたちもイエス様を抱きしめて、きれいな花を咲かすことができると思います。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。・・・羊はその声を聞き分ける。・・・」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門で ある。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。>[ルカによる福音書 24:30−32]
人は非常に辛く悲しい出来事に遭遇したとき、心に深い傷を受けます。その人が、その後の人生を、何とか歩いていくためには、二つの道が考えられます。
一つ目の道は、その出来事を忘れてしまいうことです。その傷を心の奥にしまい込んでしまうことでもあります。しかし、その傷が消えてしまったわけではありません。時に、その心の奥にしまいこまれたはずの傷が、無意識のうちにその人の体や精神を蝕んでしまうこともあります。
二つ目の道は、忘却するのではなく、辛いかも知れないが、それを抱えながら、その傷を癒していく生き方です。
アメリカのカトリックの司祭であった故たヘンリー・ナウエンは、このようなことを言っています。
<「癒し」とは、「人間の物語」と「神の物語」を結びつけることである。・・・それは、わたしたちの苦難、痛み、悲しみが、もっと大きな苦難、痛み、悲しみ、つまり、イエス・キリストの苦難、痛み、悲しみの一部であること、を明らかにすることである。>
今日の聖句は、有名な「エマオへの途上の物語」の一節です。
二人のイエスの弟子が、エルサレムからエマオの村に向かって歩いています。二人はイエスの十字架の死に打ちのめされていました。そのとき、一人の見知らぬ人が二人に声をかけます。その見知らぬ人は、二人の話に耳を傾け、それから、聖書(旧約)の話しから始めて、最近の三日間にエルサレムで起こった出来事について説明します。二人には、その見知らぬ人がイエスであることは分かりません。
二人にとって、モーセや預言者の物語は、幼い頃から慣れ親しんでいる、よく知っている物語です。しかし、彼らは、その見知らぬ人の話を、全く耳新しい、とても身近な物語として聞いたのです。その見知らぬ人は、彼らがよく知っている民族の古い出来事とこの三日間に起こった出来事を、もっと大きな文脈の中で関連付けて話しました。それを聞いているうちに、二人の心の内に、何か変化が起こり始めました。彼らにとって、悲しみの出来事としか見えなかったものの先に少しずつ喜びが見え始め、これまで喪失と絶望でしかなかったもの先に何か新しい地平が見え始めたのです。
同じ旅館に泊まることになった二人は、その見知らぬ人と食事を始めます。その見知らぬ人は、パンを裂き、賛美の祈りを唱えて、弟子たちに渡されます。それは、二人の弟子にとって、この三年間、毎日慣れ親しんだ光景でした。二人は、その時、その見知らぬ人が、イエスその人であると気づきます。 二人にとって、その見知らぬ人が説明された「神の物語」(聖書全体とこの三日間の出来事)と自分たちの物語(三年間のイエスの弟子としての生活)が結びついた瞬間です。その時、二人の傷は癒され、彼らの心は燃え始めました。このときから、二人は、新しい生を生き始めます。そして、エルサレムに向けての新しい旅が始まったのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。>[ヨハネによる福音書 10:1−3、6−8]
伝統的に、今日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれ、ヨハネによる福音書10章の「良い羊飼いの物語」が読まれることになっています。今日の聖句は、その前半の部分です。 ヨハネによる福音書は、西暦90年から100年頃に書かれたもので、その時代の教会の姿を色濃く映していると言われています。
イスラエルは、西暦70年のユダヤ戦争によってローマから独立を勝ち取ろうとしましたが、徹底的な敗北を喫し、エルサレムの神殿は破壊されました。その時、ユダヤ教はヤムニアという町に本拠を移し再建をはかろうとしますが、その中心となったのがファリサイ派です。ユダヤ教は、自己の信仰を純化することを再建の柱に据え、クリスチャンたちを異端として迫害するようになります。「良い羊飼い物語」と聞きますと、何か牧歌的な、麗しい物語を想像しがちですが。実は、この物語は、イエス・キリストを救い主とするクリスチャンと、それを否定するユダヤ教との激しいつばぜり合いを表しているのです。
今日の聖句に、「ファリサイ派の人々は、その話しが何のことか分からなかった」とあります。ファリサイ派の人々は何が分からなかったのでしょうか。わたしたち日本人は、現実に羊飼いというものと知りませんので、羊飼いと羊の関係はよく分かりませんが、ファリサイ派の人々にとっては熟知のことです。ファリサイ派の人々が分からなかったのはこの物語と自分たちがどのような関係があるかが分からなかったということではないでしょうか。
この「良い羊飼いの物語」は、直前の「生まれつき目の見えない人を癒す物語」を受けて、イエスがファリサイ派の人々の態度を痛烈に批判されたものです。ファリサイ派の人々は、イエスが、生まれつき目の見えない人を癒された事実を見ようとはせず、却って、癒された男とイエスをヘの殺意を膨らませていきました。この物語で、イエスは、ファリサイ派の人々に対し、「わたしは羊飼いである。羊はわたしの声を聞き分ける。しかし、お前たちは、わたしの声を聞こうともせず、わたしが誰か知ろうともしない」と言われます。なぜ、ファリサイ派の人々は、イエスの声が聞こえなかったのでしょうか。それは、自分の正しさに固執したからです。 ファリサイ派の人々は、当時の社会にあって、モーセの律法をしっかり守る真面目な、正しい人々の集団でした。しかし、イエスが生まれつき目の見えない人を癒された姿を見ることができなかった。そして、自分自身の正しさを貫こうとした。
これは、人ごとではありません。わたしたちは、クリスチャンでありますけれども、徹頭徹尾、「イエスの心」を生きているわけではない。それぞれの価値観、正しさに生きているところがあります。どうか、わたしたち一人ひとりが、日常生活の中で、主の言葉を虚心に聞くことが出来ますように、祈りたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
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