今週のメッセージ――主日の説教から


2008年8月31日(日)(聖霊降臨後第16主日 A年) 晴れ
「 人間の思いとイエスさまのみ心の衝突 」

――今日の聖句――
<それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」>[マタイによる福音書 16:24]

 今日の箇所の中で大切であると思われる部分は、イエスさまがおっしゃる「自分を捨て、自分の十字架を背負って」です。イエスさまに従うための二つの条件が提示されていますが、その中の1番目の条件「自分を捨て」という部分を守ることからイエスさまに従うことが出来るのではないかと思います。では「自分を捨てる」とはどんなことでしょうか。新約聖書の原文であるギリシャ語の意味としては「否認、否定」の意味が含まれています。さらに「かえりみず」というふうに訳することも出来ます。これは何を意味しているのでしょうか。

 一般的に「自分を捨てる」に対して、自分自身の欲望や世の中に対する執着を捨ててイエスさまに従うことであると教会は教えてきました。しかしこれはその意味だけではありません。イエスさまによって導かれた人生の営みの中で、自分だけが正しいと思うことを否定してイエスさまが示す方向に向かって歩むことも含んでいるのです。例えば今日の福音書ではペテロの思いとイエスさまのみ心が衝突しました。すなわち、ペテロの思いというのは、イエスさまが死んではならない。一方、イエスさまのみ心というのは、自分が死ななければならない。それが神さまのみ心である。ということです。この二つが衝突した時ペテロは叱られました。この時ペテロは「自分が正しいというその思いを捨てなければならない痛み」を経験することになります。これがまさに自分の否定です。自分を捨てることです。すなわち、「イエスさまの導き」と「自分の思い」の衝突が起きる時に自分の思いをあきらめてイエスさまに従うことです。だからイエスさまに出会わない限り、自分の否定というのはありえないことだと思います。

 イエスさまが死の前に予告したご自分の「死と復活」の中では、イエスさまに従うためにキリスト者は何をすべきかについて記されていました。それは自分を捨てること、かえりみないことです。皆共にイエスさまに出会って、またペテロのように「人間の思いとイエスさまのみ心の衝突」を体験していただいてから、わたしたち人間がイエスさまの前でいかに惨めなものであるかを悟ることが大切なことだと思います。それによって自分自身を否定し、自分自身をかえりみないで、それぞれがイエスさまを示す矢印となって、共に主に従って歩んでいきたいと思います。

 今からでも「自分の思いとイエスさまのみ心との衝突」を通して「自分が正しいというその思いを捨てなければならない痛み」を皆さんと共に感じたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年8月24日(日)(聖霊降臨後第15主日 A年) くもり
「 祈りの究極の形 ― 神への畏敬と賛美 」

――今日の聖句――
<ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定め を究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。>
[ローマの信徒への手紙 11:33−36]

 今日の聖句は、使徒パウロが、「人類の救い」「ユダヤ民族の救い」を論じたこの手紙の前半を終えるにあたり、思わず口から出た「神への畏敬と賛美の祈り」です。

 パウロは、書物に埋もれた書斎の中の観念的な思想家ではありません。パウロは徹頭徹尾、イエス・キリストの福音のために命をかけた旅の伝道者であり、魂の奥底を抉るようにして神に肉迫していった神学者です。

 第一部では、生まれながらにして罪を宿し、そのままでは滅びるしかない人間は、ただ主イエス・キリストを信じることによってのみ救われると論じましが、それは、とりもなおさず、イエス・キリストによって救われ新しい人生を歩み始めることのできたパウロ自身のことでした。

 また、第二部では、神に選ばれ、本来真っ先に救わるべき民族でありながら、イエス・キリストを受け入れられず、十字架につけて殺してしまったユダヤ民族のこれからの運命を論じますが。これは、同様にイエス・キリストを受け入れない父や母など愛する家族の運命と重なります。これから、ユダヤ民族はどうなっていくのか、遂には滅びるしかないのか、これはパウロにとって、自分自身の救い以上に切実な問題でした。

 本来救われるはずのユダヤ人が救われず、救われるはずのない異邦人が救われる。本来信じるはずのユダヤ人が信じず、信じるはずのない異邦人が信じた。民族の歴史や、自分の生涯を顧みるとき、この不思議としか言いようのない現実の内に、そこにこそ「神の奥義」があると見たのです。そのとき、パウロは思わず「神への畏敬と賛美の祈り」を唱えないではいられませんでした。

 今日の聖句の中間は、旧約聖書のヨブ記からの引用です。ヨブは、この世で、「何故、善人が苦しまなければならないのか」、この永遠の謎とも言える、この世の不条理に肉迫した人物です。ヨブは、友人の「これほどの不幸に襲われるには、何か重大な罪を犯したに違いない。早く罪を告白した方が身のためだ」との忠告にもかかわらず、「これほどの仕打ちを受けるほどの罪を犯した覚えはない」と、執拗に神に食い下がります。このときヨブに神の声が聞こえてきます。ヨブは、すべてを納得できたわけではありませんでしたが、神の声を聞いたとき、神の前で「参りました。わたしの負けです」と告白していました。そのときから、ヨブの神への怒りは賛美へと変わっていきました。

 パウロは、この世の不条理の中で、執拗に神に食い下がり、遂には賛美する者に変えられていったヨブに、深い共感を感じていたのだろうと思います。旧約聖書のヨブ、新約聖書のパウロ、この二人は、不条理としか見えない現実の背後に、神の存在を見ることのできた人物であり、神の前で心の底から「参りました」と言いえた人物といえるのかも知れません。「神への畏敬と賛美」は、祈りの究極の形です。

(牧師 広沢敏明)


2008年8月10日(日)(聖霊降臨後第13主日 A年) 晴れ
「 家族の信仰のために 」

――今日の聖句――
<わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。>[ローマの信徒への手紙 9:2−5]

 今日の聖句の前半、パウロのこれほどまでの悲しみと痛みの原因は何だったのでしょうか。パウロの心を占めていた大きな問題が二つありました。「自分自身の救いの問題」と「ユダヤ民族の救いの問題」です。この悲しみと痛みは、後者に関わるものです。

 言うまでもなく、パウロはユダヤ人であり、イエス・キリストもユダヤ人でした。「ユダヤ民族は特別な民族である」ということが、ユダヤ人の信仰の原点です。それは、「神に選ばれた民族」であり、「神を信じることにおいて一つとされた民族」ということです。そのために、彼らは、神から特別に「神の子」として生きる生き方、つまり律法を授けられ、神から栄光と繁栄を約束されている民族でした。

 ですから、本来であれば、真っ先にイエス・キリストを受け入れるべき民族であり、真っ先に救いに与るはずの民族でした。しかし、現実には、ユダヤ人は、イエスを拒絶し、あげくの果ては殺害してしまいました。

 何故、ユダヤ人はイエス・キリストを殺害したか。一言で言えば、それは、イエス・キリストが愛されたのはユダヤ人だけではないと言うことが明らかになったからです。それは、ユダヤ人にとって、自分たちのアイデンティティが否定されること、信仰の原点が否定されることに他なりません。ユダヤ人は、どこかで選民の誇りを捨てるべきでしたが、そうはしませんでした。

 民族の問題は、家族の問題と重なってきます。多分、パウロの愛する父も母も、兄弟も、姉妹もイエス・キリストを受け入れなかったのでしょう。民族という高次の問題と、家族という具体的問題が重なるなかで、パウロは、民族の運命にのっぴきならない深い関心を抱かざるを得なかったのではなかったでしょうか。

 現代のわたしたちにとって、家族の信仰の問題はどうでしょう。時代は、パウロの生きた時代とは大きく違います。当時は信仰なしでは生きられない時代でした。しかし、現代は、多くの人が信仰なしでも生きていけると考えています。親が子どもに同じ信仰を求めることは極めて難しくなっています。口で話しても、通じないところにこの問題の難しさがあります。結局は、「祈り」と「生き方を見せること」しかないのかも知れません。ただ、その祈りと生き方が真実のものとなるために必要なことがあります。それは、パウロが深く悲しみ、絶え間ない痛みを感じたほどの悲しみと痛みをわたしたちが感じているかということです。

 パウロが抱いた「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」と思うほどの悲しみと痛みを、期待することは無理でしょうが、もう少し真面目に悲しみ、痛みを感じることが必要なのかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


2008年8月3日(日)(聖霊降臨後第12主日 A年) 晴れ
「 輝かしい勝利 」

――今日の聖句――
<だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、 わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。>
[ローマの信徒への手紙 8:35、37−39]

 今日の聖句は、何度も声を出して読み、或いは紙に書き記して心に刻みたい言葉です。
 「ローマの信徒への手紙」第一部の「結びの言葉」です。この第一部のテーマは、「救い」です。使徒パウロは、自分の心の奥底を抉るようにして、「自分をも含めて、もう滅びるしかない罪人である人間が、どのようにして救われるのか」を執拗に探求してきました。そして、「わたしたちは、ただ信仰によってのみ救われる。その信仰はイエス・キリストにひたすらすがることだ。この救いが現実のものになるのは、ただ『神の義(正しさ、愛)』によるのだ」という確信に達しました。

 パウロは、この第一部を「だれも、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができはしない。主イエス・キリストによって、わたしたちに輝かしい勝利を収めている。」と結ぶのです。

 パウロは、この言葉を、それまでに経験したあらゆる困難を思い出しながら、万感の思いをもって書き記したのだと思います。次にある「七つの危機」 ―― 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か ―― は、それを表しています。

 「キリストの愛」からわたしたちを引き離そうとする危機には二種類あります。心の内から迫ってくる「内在する罪」と、外から襲ってくる「外的な危機」です。ここでは、パウロは「外的な危機」に集中します。

 現在の日本において、クリスチャンだからという理由だけで、このような苦しみや迫害に遭うことはないかもしれません。わたしたちは、そのことに安穏とし過ぎてはいないでしょうか。わたしたちが注意しなければならないのは、わたしたちをキリストの愛から引き離そうとする「外的な危機」は、装いを新たにわたしたちに迫ってきていることです。

 その最大のものは、科学的合理性至上主義や技術進歩に伴う豊かさと人間中心主義によって、多くの人々が「信仰抜きでも、この世の中、結構うまくやっていける」と考えるようになってきたことではないでしょうか。

 艱難や迫害は、精神を緊張させ、信仰を鍛えます。しかし、平穏と豊かさは、精神を弛緩させ、信仰の根を蝕みます。今、わたしたちは、2000年前、パウロが直面した外的な危機とは異なる新たな外的な危機が、わたしたちを「キリストの愛」から引き離そうとしていることにもっと敏感にならねばなりません。

 このような危機に中にあって、なおイエス・キリストの愛は燦然を輝く確かな光です。

 わたしたちは、この方をしっかり見つめ、この方を信頼し、この方についていく以外の方法はありません。最後までしっかり走り通そうではありませんか。わたしたちには、「輝く勝利」が約束されているのです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Nov/13/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会