今週のメッセージ――主日の説教から


2008年12月28日(日)(降誕後第1主日 B年) 晴れ
「 神の言が光となって 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書1:1−18]

 本日朗読される福音書の箇所は、「ロゴス賛歌」と言われます。「ロゴス」とは神の「言(ことば)」のことですが、そのロゴスが私たちのこの世界の現実に、 はっきりと現れた、という喜びを、「ロゴス賛歌」はほめたたえています。天地創造の出来事が記されている創世記の初めでは、すべてのものが神の言によって 創られた、と伝えています。神の愛と祝福と喜びと希望に満ち満ちているこの世界を創った、神の力ある「言」が、今、私たち一人一人のために、この世界に 「肉」となって来られたのです。それは私たち一人一人に「光」をもたらすため、救いをもたらすために来られたのです。

 このロゴス賛歌で、「光は暗闇の中で輝いている」(5節)と賛美されます。暗闇にある「光」とは、三つの大切な出来事を起こします。一つめは、暗闇に あって、光は周りを照らし、真実を明らかにする、ということです。二つめは、暗闇にある光は、道しるべとなって、人を正しいところへ導く、ということで す。三つめは、どんな小さな光であっても、暗闇に光があれば、暗闇は光の世界に逆転することになり、光は希望となります。

 この「光」がイエス・キリストであり、私たちのこの世界に来られたのです。

(司祭 高橋 顕)


2008年12月25日(木)(降誕日 B年) 晴れ
「 マリアの信仰――すべて心に納めて、思い巡らす 」

――今日の聖句――
<その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。>[ルカによる福音書 2:17−20]

 クリスマス、おめでとうございます。
 今日の聖句は、ルカによる福音書のイエス誕生の一場面です。羊飼いたちは、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の声を聞き、ベツレヘムへ急ぐと、馬小屋の中で飼い葉桶に寝ている幼子イエスを探し当てました。

 その現場にいた人々の中で、マリアに注目したいと思います。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と書かれています。「すべて」とは、マリアが天使ガブリエルから、イエスをみごもることを告げられてからのすべての出来事でしょう。「心に納めて」とは、それらを、心の奥に仕舞いこんで、人にはしゃべらない、打ち明けないということです。「思い巡らす」とは、「結びつけ」、「つなぎ合わせる」ということです。それまで心の奥に蓄えたすべての出来事を、牛が食べ物を反芻するように、何度も何度も繰り返しつなぎ合わせ結びつける作業です。ものを考える場合の基本的営みですが、それはまた孤独な営みです。しかし、これは、イエスの神秘の全容をしっかり把握し、それを自分の人生と結びつけていくには欠かせない営みです。イエスの母として、ナザレの田舎の教養もない一人の娘マリアが、なぜ選ばれたか分かりませんが、その一つがこのような「心に納めて、思い巡らす」資質にあったのかもしれません。

 信仰とは、このように一方で神の言葉を聞きながら、他方、自分の見ている現実、自分が経験した事実とを結び合わせ、思い巡らす営みではないでしょうか。その意味で、信仰は、一時的な情熱でも、まして必死である思想にしがみつく妄信でもなく、すべてのことを思いめぐらしながら、現実をしっかり受け止めていく営みです。

 人類の歴史の中で、ある意味で最も過酷な運命を背負わされた女性はマリアなのかもしれません。神の子をわが身に宿すということ、その母になることなど想像を絶したことです。 マリアは、イエスを宿す時、天使ガブリエルから「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と告げられました。また、生まれてから八日目の宮詣の時には、シメオンから「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするために定められている。あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」と告げられます。 そして遂にその時がやってきます。活動を始めて僅か3年後、33歳のイエスは犯罪人として裁判にかけられ、十字架につけられて殺されてしまいます。 その十字架の下で、わが子の悲惨な姿を見つめるマリアの心に去来したものは何だったでしょうか。ここでもマリアは、わが子とわが身の一生を振り返って、思い巡らしたに違いありません。そして、イエスの神秘をしっかりと理解したのです。ここにマリアの信仰があります。

 この1年、辛いこと悲しいことも沢山ありました。そのような時、マリアの信仰を思い起こしたいと思います。一つのことにこだわらず、すべてを思い巡らす時、神の恵みにいかに捕らわれているかに気づくに違いありません。

(協力司祭 広沢敏明)


2008年12月21日(日)(降臨節第4主日 B年) 晴れ
「 実は部屋があります! 」

 日曜学校の皆が降誕劇の練習をしています。5才のゆうじは宿屋の主人の役です。ベツレヘムに着いて宿屋を訪ねているヨセフとマリアに「宿の部屋がいっぱいでおと泊めできないのです」と断る役です。ゆうじはがんばって練習をしました。

 降誕劇の日です。ゆうじの出番です。ヨセフは言います。「ごめんください。どうか今夜一晩だけでも泊めてくれませんか。あちこちいってみたが、どこもいっぱいで断られてしまいました。」ゆうじは「うちの宿の部屋もいっぱいでお泊めできな…な…。実は部屋があります!どうぞ入ってください」と練習の時と違うことを言ってしまいました。降誕劇はゆうじのせいで失敗でした。ゆうじは先生に怒られました。

 その夜ゆうじは「イエス様が生まれる部屋がないと、イエス様は困るしかわいそうだからうちの部屋を貸してあげたかった。」と泣きながら言いました。

 そのそばでイエス様がゆうじの手をやさしく握ってくれました。

(牧師補 卓 志雄)


2008年12月14日(日)(降臨節第3主日 B年)
「 わたしたちにとって道とは 」

――今日の聖句――
<神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。>[マルコによる福音書 1:6−8]

 洗礼者ヨハネは自分の役割について「主の道をまっすぐにするため」だと証ししています。ここで道というのは道路というふうに訳することが出来ます。この表現は昔中東の王様が旅に出るとき、僕たちが王様の旅の邪魔にならないように道路を整えて整備した習慣から由来したものです。洗礼者ヨハネの証しによって主の道は整えられてイエスさまは人類の救いのためのみ業を行ってくださいました。洗礼者ヨハネが整えた道、その道を通してこの世で神さまの愛をわたしたちにお示しになったイエスさま、またイエスさまとわたしたちもそれぞれの道を通してつながっています。そのために今わたしたちは教会に集まってイエスさまをわたしたちの救い主であると告白しています。またイエスさまと自分だけではなく、わたしたち人間も隣人と互いにイエスさまとつながっている道を通して交わりを持っています。

 しかしすでにイエスさまとつながっている、また隣人とすでにつながっている道をわたしたちはどのように考えていますか。すでにつながっているにもかかわらず「もうイエスさまとつながるのはいやだ」、「教会の交わり何かめんどうくさい」と言いながら閉鎖しているのではないでしょうか。「道なんかなくても私一人で行きることはできるから」と言いながら孤立しようと思っていませんか。

 地震が起きると、大雨が降ると、山崩れによって道路が閉鎖されたというニュースを聞きます。そうなると物資が来ないので閉鎖された道路の中に閉ざされた人々の生活が貧しくなって非常に困っている様子が伝わる場合があります。飛行機かヘリコプターがあるじゃないかとおっしゃる方もおられると思いますが、今の状況から考えると空路と陸路は物資を運ぶ規模の面からみると大きな差があります。まだ陸路に依存する面が多いのです。とにかくイエスさまとつながる道と隣人とつながっている道が閉ざされると、わたしたちの心すなわち霊性は、先ほどたとえのように物資が来なくて困っている人々のように貧しくなります。教会はその道がつながる場所です。洗礼者ヨハネによって整えられてイエスさまが歩いておられた道、またその道が、イエスさまとわたし自身、またわたし自身と隣人と互いにつながっている場所が教会です。わたしたちは教会に集まって礼拝を通して、交わりを通して道をつなげなければなりません。またつながらなくなった道があったら道路工事をしてつながるようにしなければなりません。また教会の外ではイエスさまとわたし自身とつながっている道をまだイエスさまを知らない人々とつながるように努力しなければなりません。

 主の道を真っ直ぐにした洗礼者ヨハネの働きを通して、降臨節を迎えているわたしたちはイエスさまとわたしとの間の「道」、わたしと教会共同体との間の「道」、またわたしとまだイエスさまを知らない人との間に成立するだろうと思う「道」についてどうのようにすれば神さまに喜ばれる形でつながるかについてそれぞれ考えながら残りの降臨節を過ごしたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年12月7日(日)(降臨節第2主日 B年) 晴れ
「 福音の初め 」

――今日の聖句――
<神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。>[マルコによる福音書 1:1−4]

 今日の聖句は、「マルコによる福音書」の冒頭の部分です。その最初の言葉、「神の子イエス・キリストの福音の始め」に注目したいと思います。

 大変印象的な言葉です。ご承知の通りマルコによる福音書は、新約聖書の4つの福音書の中で最も早く書かれた福音書です。著書マルコは、使徒ペテロの通訳として、また使徒パウロと共に伝道の旅した人物ではなかったかと言われています。

 誰でも文章を書くとき、最初の出だしには神経を使います。それによって、その後の展開や内容も決まってくるからです。その意味では、新約聖書の4つの福音書、いずれもその最初の言葉は特徴的で、それぞれの福音書の特色をよく表しています。マルコは、この最初の言葉を、どんな思いで書き、何を言おうとしたのでしょうか。

 マルコによる福音書の大きな特色の一つは、他の3つの福音書が、イエスの誕生物語から書き始めたのに対し、マルコは、それらを一切すっ飛ばして、いきなり洗礼者ヨハネの出現から筆を起こしていることです。洗礼者ヨハネの出現こそ、「イエス・キリストの福音の始まり」だと言うのです。そして、物語は一気に、イエスの洗礼から、ガリラヤでの伝道へと展開していきます。そこには、麗しいクリスマスの物語も、少年時代のイエスの聡明な物語もありません。つまり、マルコは、何よりも、「イエスは誰であるのか」、「イエスは何をされたのか」そして、「それは何を意味するのか」という、イエス・キリストという出来事の核心を真っ向からずばりと読者に訴えようとしたのです。

 「イエスは誰であるのか」を、マルコは、最初の一言で言ってのけます。「神の子イエス・キリスト」。初めて、この言葉を聞いた人は仰天したのではなかったでしょうか。ユダヤ社会において、「一人の生きた人間を神とすること」は、十戒に対する重大な違反であり、それは死罪に値することでした。この驚くべきことを、真っ先に呈示するものとして登場するのが洗礼者ヨハネです。

 「福音(GOSPEL)」とは、「よい知らせ」という意味です。つまり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは、今ここに、人類の救いについて、新しい歴史が始まる。人間の歴史の真っただ中に、神の直接的な介入が今まさに始まろうとしている。洗礼者ヨハネはその先駆けなのだ、ということです。著者マルコは、この「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉を、震えるような心の高鳴りの中で書いたのではなかったでしょうか。まさに、そのような思いがなければ、書き得ない言葉だと思います。

 今、ここにいるわたしたちも、間もなくクリスマスを迎えるに当たり、洗礼者ヨハネによって始まったイエス・キリストの救いの業の中に生きていることを心に刻みたいと思います。

(協力司祭 広沢敏明)


メッセージ目次へ トップページへ 東京教区へ

Last Update Apr/07/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会