今週のメッセージ――主日の説教から


2008年2月24日(日)(大斎節第3主日 A年) 晴れ
「 人の心を知る 」

――今日の聖句――
<そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。・・・
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」>
[ヨハネによる福音書 4:6−7、13−15]

 2月10日の信徒総会で今年度の教会方針(標語)が決まりました。「イエスの心を生きる―隣人の心に目を向けよう、善いサマリア人を目指して」です。「心を向ける」とは、「心を知る」と言い換えることもできます。昨年亡くなった心理療法家の河合隻雄さんは、著書『心の処方箋』というエッセイ集の中で、「人の心など分かるはずがない」、「人間理解は命がけの仕事である」などと書かれています。真実に人の心を理解しょうとしたら、一度自分の立場を捨て、自分の人生観や生き方をぐらつかせるようなことをしなければならない。それは、一度自分を殺すことだと言われるのです。

 今日の聖句は、「イエスとサマリアの女の物語」の冒頭の部分です。真夏の昼下がり、イエスは、サマリアのシカルという町にやってこられます。長旅と暑さで疲れ果て、ヤコブという井戸の側に座り込まれました。しかし、井戸は深くて飲むことができません。普通、井戸に水を汲みに来るのは朝と夕方ですから、この真昼に水を汲みに来る人はいません。そのとき、運よく、一人のサマリア人の女性が水を汲みにやってきます。こんな時刻に、人目を避けるようにやって来る女性、何かいわくがあるに違いありません。

 イエスの「水を飲ませてください」という一言から、イエスとサマリアの女との間に対話が始まります。対話の核心は、「井戸の水」から「生きた水」へ。更に[永遠の命に至る水]へと展開していきます。また、水の与え手は、逆転し、イエスは水の受け手から与え手と代わり、サマリアの女は、与え手から受け手へと代わります。

 イエスは、ひどく喉が渇いておられたにはちがいありません。しかし、それ以上にイエスの心を動かしたのは、そのサマリアの女性でした。話が進むうちに、次第に彼女の素性が明らかになります。5人の男性と関係し、現在は6人目の男性と同棲中です。その理由は明らかでありませんが、町の人々からは、ふしだらな、身持ちの悪い札付きの女と思われ、彼女自身も心に深い傷を負っていました。イエスには、女の苦しみが分かりました。

 イエスは、彼女に手を差し伸べようとされます。イエスの当時、一般のユダヤ人の常識からすれば、ユダヤ人が、サマリア人、しかも女性に声を掛けること自体、あってはならないこと、自らを汚す行為だったのです。イエスは、このタブーを乗り越えられます。イエスには、ユダヤ人とサマリア人、男と女の差別もありませんでした。イエスの前には、ただ長年、苦しみと悲しみを背負った一人の女性がいるだけです。

 イエスは、自分の方から手を伸ばし、身を低くして女の心に触れられました。「水を飲ませてください」という一言が、女の心を開きました。そのとき、既に、イエスは、女の心の内に住み始めておられるのです。女には、なかなか「イエスが誰だか」分かりません。

 しかし、間もなく、そのことに気がつきます。それは、自分の苦しみや悲しみを真実理解してくれる人の始めての出会いとなり、そのとき、女の傷はいやされました。

(牧師 広沢敏明)


2008年2月17日(日)(大斎節第2主日 A年) 晴れ
「 人間の言語ではなく、神様のみ旨にかなう言語 」

――今日の聖句――
<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。>[ヨハネによる福音書 3:16−17]

 わたしたちも日常生活の中でたくさんの言語を用いて会話をします。言語を通して自分の意思を表現したり、自分の思いを伝えたり、考えを述べます。もちろん言語が意思表現の全部ではないのですが、多くの人が言語を使って自分自身を説明します。

 わたしたちにおける言語の営みの中でみなさんと共に考えたいのは、今年の教会の標語です。練馬聖ガブリエル教会の宣教の姿勢を宣言し、これからわたしたちの思いではなく、神様のみ旨をあらわしますという決意の表現でもあります。しかしこのような素晴らしい標語も人間の言語で、「とりあえず」表現したにすぎません。次の問題はこの言語をどのようにして「生きた言語」、「新たな言語」、「人間の言語ではなく、神様のみ旨にかなう言語」として表現し実践していくかであると思います。

 ニコデモはイエスさまと対話をしました。「永遠の命」を得るためにイエスさま「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」と、言われて、ついに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」という福音の中心的なメッセージを聞かされました。

 その後ニコデモはどのようになったのでしょうか。聖書にはその直後のニコデモの様子については書かれてないのですが、多分ファリサイ派として自分の言語が「いかに人間的であったか」、「生きてない言語であったか」について気づかされ、これから自分の言語は「実践を伴う、神のみ旨にかなう言語」として語らなければならないと決意したと思います。それはヨハネによる福音書の他の箇所を読めば推測できます。

 ヨハネによる福音書7:50-52をみると、ニコデモは正義の側に立ちます。大祭司長とファリサイ派の人々が集まってイエスさまをどのようにして逮捕するかについて議論します。ニコデモが立ち上がって叫びます。ニコデモははずかしめられながらもイエスさまを守ろうとしています。またヨハネによる福音書19:38-40によると、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモはイエスさまの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包みました。すべての弟子たちがイエスさまを否定し逃げてしまったとき、不利益をうけるかもしれない、辱められるかもしれないと知りながら堂々と勇気をもって行動します。それは今までニコデモの言語が行動を伴う「生きた言語」、「新たな言語」、「人間の言語ではなく、神様のみ旨にかなう言語」として生まれ変わったことに他なりません。

 わたしたちは「イエスさまが主演である演劇においてイエスさまを輝かせる脇役」です。しかもラジオ劇ではありません。ラジオ劇は言葉だけ聞こえるので、どのような行動をしているかがわかりません。真剣なことをしゃべりながらもヨコになっているかもしれません。ただ単に言葉だけしゃべるラジオ劇ではありません。言葉だけではなく、言葉と共に言葉に相応しい行動、身体を使って積極的に自分の意思を表現すること、またそれを通して主演を輝かせなければなりません。

 大斎節を過ごしている今、今年教会の標語を通して、どのようにすれば「イエスの心を生きることができるか」、どのようにすれば「隣人の心に目を向けることができ、善いサマリ人を目指すことができるか」について、またそのことを通してわたしたちの言語がどのようにして行動を伴う「生きた言語」、「新たな言語」、「人間の言語ではなく、神様のみ旨にかなう言語」として生まれ変わるか、について悩みましょう。お一人で悩むことはできると思いますが、できれば大斎節を迎え教会が用意させていただいた様々なプログラムを通して共に悩みたいと思います。

 多くのプログラムおよび礼拝に皆さんの積極的なご参加をお願いいたします。

(聖職候補生 卓 志雄)


2008年2月10日(日)(大斎節第1主日 A年) 晴れ
「 人はパンだけで生きるものではない 」

――今日の聖句――
<さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」>[マタイによる福音書 4:1−4]

 今日の聖句にある「人はパンだけで生きるものではない」という有名なイエスの言葉は、イエスの大きな決断を表しています。イエスが、救い主として世に出ようとされる直前の出来事です。神がそのために用意されたのが、「荒れ野での試練」です。イエスは、このとき二つの試練に直面されました。耐え難いまでの飢えと、巧妙な悪魔の囁きです。

 イエスの周囲には、無数の飢えた人々が群がっていました。イエスに近づいた悪魔は、極めて巧妙に囁きます。「神の子なら、本当に神の子なら、もしあなたが偽者でなければ、石をパンに変えるくらいわけもなくできるはずだ。無数の飢えた人々を救うというのは、先ずその人々にパンを与えることではないのか」。

 しかし、イエスは「石をパンに変えること」に救いはない、それは神のみ旨ではないと断言されました。それは、苦渋の選択であったはずです。その決断は、その後、次第にはっきりとした形をとって現れてきます。言うまでもなく、それは十字架への道です。逆に言えば、それは、「十字架」を覚悟したものだけに許された言葉であったということです。

 「人はパンだけで生きるものではない」という言葉が、このように重い言葉だとすれば、わたしたちは、その重さに耐えらるでしょうか。わたしたちはどうすればよいのでしょう。この言葉の元になった旧約聖書・申命記にはこのように書かれています。

 <主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。>[申命記 8:3−4]

 神は、ただいたずらにイスラエルの民を苦しめ、飢えさせられたのではありませんでした。神は、飢えの苦しみをご存知が故に、マナを食べさせ、本当に飢えさせはされませんでした。また、着物も古びさせず、旅をする足もはれることもないようにされたのです。神は充分な恵を与え、その上で「神の言葉によって生きなさい」と言われたのです。しかし、イスラエルの民は、少し状況が良くなると、神に反逆し、神から離なれようとしました。そして、自分たちの生そのものが、神によって支えられてあることを忘れ、自分の力でそれを勝ち取ったと思うようになります。

 現代のわたしたちも同じです。現代ほど、「人はパンだけで生きることができる」という生き方が蔓延している時代はありません。イエスが、「人はパンだけで生きるものではない」と言われたのは、「パンだけで生きる生き方をすれば、その先には滅びしかない」ことを言おうとされたのです。ですから、主イエスは、人間が滅びに陥らぬために自分の命をかけられたのです。

 豊かな時代にあっても、もし感謝を忘れるなら、それは滅びにつながっていることを心に銘記したいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2008年2月3日(日)(大斎節前主日 A年)
「 十字架の言葉 」

――今日の聖句――
<十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・:兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力の ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。>[コリントの信徒への手紙I 1:18、26]

 使徒パウロは、自分が作り育てたコリントの教会が分派争いをしていることを聞き、大変心を痛め、激しい批判をもって、「一致への勧告」をしました。パウロの思いは、分派争いは、人間の思いであり、キリストの十字架を空しくするものだ、ということに尽きます。

 パウロの第1の主張は、福音宣教のためには、「知恵の言葉(人間の知恵)」によらず、「十字架の言葉」に集中すべきだ、ということです。「十字架の言葉」は、「イエス・キリストの十字架の死と復活の事実と、それが意味するもの」を指しています。わたしたちの「救い」は、この「十字架の言葉」を聞き入れ、それに従うかどうかにかかっている。これを受け入れた人々には、特別な力が働いて、神の意思が貫徹するということです。

 しかし、この「十字架の言葉」の受け入れることは、必ずしもそう簡単なことではありません。それは、人間の知恵からすれば、愚かなものとしか見えないからです。人間の知恵は、快楽、利益、幸福を求めます。しかし、「十字架の言葉」は、人間の知恵から見れば、快楽も、利益も、幸福も保証しないからです。

 イエス・キリストご自身の生涯がそれを最もよく表しています。イエスは、自分の使命を自覚し、人々への愛に生きようとしました。そのような生き方を徹底しようとすれば、結局、ユダヤ教の律法を犯さざるを得ず、そのために人間として最も悲惨な死、十字架の死まで行くしかなかったのです。それは、人間の知恵から見れば、愚かなものとしか見えませんでした。しかし、そこに人類の救いという出来事が生じたのです。

 パウロの第2の主張は、パウロが言ったことの正しさは、今この手紙を読んでいるあなたがたが示している、ということです。

 今日の聖句の後半で、パウロはこのように言います。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。・・・」 この言葉を、コリントの人々はどのように聞いたでしょうか。「召されたとき」は、洗礼を受け、コリントの教会の一員となったときと考えてもよいでしょう。そのとき、自分を含めて、自分の回りに、知恵ある人や、能力ある人や、家柄のよい人がいたかよく考えて見なさいということです。

 現代の、今ここにいるわたしたちはまた、この言葉をどのように聞くでしょうか。わたしたちは、そんなに知恵のない者、無能な者の集まりではない、と思われるかもしれません。確かに、誰も、誇ることのできるものを一つや二つは持っています。しかし、同時にわたしたちは、それ以上の「欠け」を持っています。その「欠け」にも関わらず、今生かされていることを思うとき、多少の誇るべきことは吹き飛んでしまうのではないでしょうか。今、わたしたちがこの教会のこの席に座っていること自体が、あなたがたが「十字架の言葉」を受け入れ、あなたがたの中に、神さまの特別な働きが働いている、何よりの証拠ではないかと、パウロは言います。

 わたしたちが、今ここにいること自体が、わたしたちが福音のために「召され(呼ばれ)ている)」ということを改めて心に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Mar/11/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会