――今日の聖句――
<さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。>[コリントの信徒への手紙I 1:10−13]
今日は、午後2時から、当教会において、西武地区キリスト教教会連合の「一致礼拝」が行なわれます。西武地区キリスト教教会連合は、西武池袋線の江古田駅、練馬駅を最寄駅とする教会の集まりで、現在、カトリック1教会、プロテスタント4教会と聖公会の当教会、合計6教会が参加しており、40年を超える歴史があります。
今日の聖句は、使徒パウロが、自分が造ったコリントの教会に宛てた「一致のための勧告」です。この教会の最大の問題は、分派争いでした。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派という4つの分派があったことがうかがわれます。
これらの4つの分派は、初代教会時代の思想的な傾向、自由主義、教養主義、律法主義、霊的熱狂主義を表しているとも考えられます。パウロにとっては、たとえそれがパウロ派であっても赦せないことでした。それは、自分たちの人間的な思いを主張することにほかならず、それはキリストへの信仰を空しくすることでした。パウロは、痛烈な批判を浴びせます。「キリストは分割されたのか。」「パウロが、あなたがたのために十字架につけられたのか。」「あなたがたはパウロに名によって洗礼を受けたのか。」
「キリストの分割」が、明白になったのが、16世紀の宗教改革です。どんな出来事にも光と影があります。宗教改革も例外ではありません。宗教改革には、キリスト教を堕落から救ったという一面もありますが、一方、それまで一つであった教会が、無数の教派に分裂する契機となったのも宗教改革です。
「極端にいえば、それまでは、信仰は与えられたものであったのに、それ以降は、一人ひとりが信仰を選ぶようになったのです。現在の世界のキリスト教界の混乱は、それと無関係ではありません。女性聖職問題、同性愛問題、先端医療巡る倫理の問題など、いずれをとっても、何が正しいのか分からなくなっています。教会の権威が揺らいでいるのです。「キリスト教一致運動」は、その反省に基づいていますが、一致への道程は、そう簡単ではありません。
私は、「一致」を考えるとき、いつも『ジグソーパズル』を思います。ジグソーパズルには、一つとして同じ断片はありません。出来上がった絵の重要な個所の断片の価値が、他の断片より高いというわけでもありません。どんな片隅の断片でも欠ければ絵は完成しません。キーワードは「補完」です。すべての断片が補いあって一つの絵を完成するのです。「一致」とは、すべてのものが「同一」になることではなく、すべてのものが「補完」し合うことです。
そして、一つの絵とは、イエス・キリストの十字架と復活に集中し、それを宣べ伝えることです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<そわたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである>[ヨハネによる福音書 1:30]
子どもたちが少し大きくなると家事の手伝いをすると優しく言ってくれる時があります。「パパ、ママ手伝いたい」と子どもに言われることがあるでしょう。そうなると最初は「すごい!もう赤ちゃんではなくて大きくなったな。」と思って頼みます。しかしその判断に対して「あーしまった。間違った」とすぐ反応してしまいます。子どもに頼むと即戦力になると思いましたが、戦力どころか、家事の時間は2倍以上になってしまいます。実はジッとしているのが戦力になることであり、助けになります。また家事も早くきれいに終わります。しかし家事の邪魔になるかもしれないが、親の手伝いをしたいという子どもの真心によって感動するのは事実です。心が温かくなります。
わたしたちを見てくださる神さまの心も同じであると思います。正直に神さまに対して戦力にならないわたしたちであります。ジッとしていればそれが神さまのためになるかもしれません。よけいなことをして神さまの邪魔ばかりするわたしたちです。神さまは実はわたしたちの助けが必要ではないかもしれません。
にもかかわらず神さまは謙遜してわたしたちの協力を願いました。わたしたち人間の世界にイエスさまを送ってくださいました。しかも救いの業を行うためイエスさまが活動し始めたとき、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。神さまが人間から洗礼を受けることはあり得ないことです。洗礼者ヨハネが先に進んでひざまずいて洗礼を受けるのが当然のことだと思いますが、逆に洗礼者ヨハネのほうに進んでいき洗礼を受けます。神さまが人間によって洗礼を受けます。洗礼は聖別された水を用いて人間の罪を洗うサクラメントです。また洗礼は人間がうけることです。しかしながら洗礼が必要ないイエスさまが洗礼をうけるとは。イエスさまが受けた洗礼は限りなくご自分を低くされたということ、限りない謙遜、人間と共に歩みたいという神さまの力強い意志表現であると思います。
わたしたちがささげるお祈り、礼拝、み言葉に従い正しいと思って行う奉仕、犠牲などのすべてのことは何の意味もないかもしれません。これらのことをしても神さまが分かってくれるだろうか?あるいは神さまに何の助けになるのだろうかと、疑うかもしれません。しかしながらその小さな祈り、礼拝、み言葉に従うすべての行いが、神さまを喜ばせる器になります。わたしたちの罪によって遠くなり、断絶された人間と神さまとの関係をまっすぐつなげる役割を担うことになります。
神さまはわたしたちをみて幸せそうにほほえみながら受け入れてくださると思います。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ 来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」:しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。>[マタイによる福音書 3:13−15]
今日は、顕現後第1主日ですが、伝統的に「主イエスの洗礼の日」として記念されてきました。イエスは、その公生涯を、ヨハネに洗礼を受けることから始められます。この洗礼の時から、イエスは、自分の使命を自覚し、新しい道を歩み始められたからです。
イエスが洗礼を受けられたことの意味は、今日の聖句にある次のイエスの言葉に簡明に表されています。このように書かれています。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
「罪の無いイエスが何故、罪の赦しの洗礼を受けねばならないのか」という古くからの疑問があります。このイエスの言葉は、この疑問にも答えています。それは、今はまだ準備が完了していないということです。イエスは、大きく飛躍されようとされています。その出発点が洗礼です。天からの声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」はそれを示しています。イエスと父である神がしっかりと結びあわされたのです。
「我々」とは、イエスとそこにいる洗礼を受けるために集まった大勢の群衆を指しています。イエスは、ご自分を、そこにいる大勢の群衆、つまり、この世のにあって、あらゆる苦しみや悲しみ負い、罪に染められた人間と同じに考えておられるということです。だとすれば、皆が受けようとする洗礼を、イエスも受けようとすることは当然ではないかということです。
この場合の、「正しいこと」とは、「人間が神に対して取るべき態度」とです。つまり、神が、人々がヨハネから洗礼を受けることを望んでおられるなら、イエス自身も、群集の一人として洗礼を受ける、それを神が望んでおられるということです。
「今」は、大変重要な意味を持っています。その「今」が過ぎ去った瞬間、時代は大きく変化します。それまでは、預言者の時代でした、神は預言者を通して人々に働きかけられました。その最後の預言者となったのが洗礼者ヨハネです。しかし、イエスの洗礼のときから、神はイエスを通して福音を語り、救いの働きを始められたのです。預言者の時代が終わり、イエスの時代が始まったということです。
現代のわたしたちもまた、イエスの時代を生きており、神の大きな恵のもとにあることを、しっかりと自覚したいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。>[マタイによる福音書 2:1−3]
今日、1月6日は顕現日です。今年は、顕現日が主日と重なるめずらしい年です。顕現日は、英語ではエピファニーと言い、「現れる」という意味です。主イエスの福音が、世界に伝えられ、神さまの働きが全世界に現れることを記念する日です。
この日には、伝統的に、マタイによる福音書2章の、いわゆる「3人の博士たちの物語」が読まれてきました。この物語が、顕現日に読まれるのは、救い主イエスが、東の国の3人の博士たちを通して、イスラエル民族以外のすべての国の人々、つまり異邦人といわれる人々にも現れたことを示しているためです。
これまでの聖書では、「博士たち」と訳されてきましたが、新共同訳になって、「占星術の学者たち」と訳されるようになりました。「占星術の学者」と訳された元の言葉は、「マギ」です。この「マギ」という言葉は、英語のマジックの語源となりましたように、本来の意味は、魔術師、占星術師、妖術師です。博士や学者というと聞こえはいいですが、魔術師や妖術師というと少しイメージが変わってきます。
ユダヤ教では、占いなど魔術的なことを偶像礼拝として極端に排除してきました。つまり、「マギ」(占星術の学者)とは、ユダヤの人々にとっては、何か得体の知れない、異教を信じる人々の中でも特にひどい誤りの中にいる人々を意味したのです。
聖書によれば、羊飼いに次いで、主イエスの誕生に駆けつけたのは、この得体に知れない異国の人物でした。羊飼いも、日本では、牧歌的な美しいイメージ受け取られていますが、当時のユダヤでは最も汚く、危険できつい職業に携わっている人々で、社会の最下層にあって、皆からは嫌がられのけ者にされている人々でした。
このユダヤ人の中では最も嫌がられた羊飼い、異邦人の中では最も得体の知れない占星術師が、イエスに初めて出会うことになったのです。ここに大きな意味があります。
この社会の中で最も忌み嫌われ、のけ者にされている人々とイエスの出会いを伝えること、これが福音書の狙いでした。当時のユダヤの社会では、徴税人や娼婦、病人、外国人は罪人とされ、社会からのけ者にされていました。占星術師も羊飼いもこの系列に入る人々だったのです。そのような人々が救い主イエスの誕生に、真っ先に出会う人にされたのです。
社会の現実が厳しく、過酷であることは、当時も現代も変わりません。その中で、才能や健康に恵まれない人々、環境や支援者に恵まれなかった人々、強い人々が作り出す社会の流れに取り残される人々、このような社会に片隅に追いやられ、押しつぶされ、希望を持てない人々、主イエスはこのような人々の労苦、重荷、悲しみを背負うためにこの世に来られたのです。このような人々は、もはや神以外に希望を見出せず、ひたすら神を求めました。そして神に出会うことができました。占星術師とイエスとの出会いは、それを表しています。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |