今週のメッセージ――主日の説教から


2008年7月27日(日)(聖霊降臨後第11主日 A年) 晴れ
「 うめきを祈りに変えてくださる 」

――今日の聖句――
(1)<同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せな いうめきをもって執り成してくださるからです。>[ローマの信徒への手紙 8:26]
(2)<神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。>[ローマの信徒への手紙 8:28]

 今日の聖句(2)に、「万事が益となるように共に働く」あります。「わたしたちの内におられる聖霊は、人生に起こるすべてのことを、わたしたちにとって益となるようにしてくださる」、ということです。

 わたしたちは、時に、人生に行き詰まり、することなすことすべてうまくいかないという経験をすることがあります。よくないことが続けさまに起こります。こんなに辛いのに、もう一つ辛いことが重なって起こります。自分の健康のこと、家族の健康のこと。仕事のこと、お金に関すること。家族の中に起こる様々な出来事。また、家族や友人、職場での人間関係のこと。

 健康を害したとき、仕事がうまくいかなくなり、同時に人間関係も崩れだすこともあります。苦しみのどん底で、祈りの言葉さえ出こなくなります。このような中で、なお神から離れず、「聖霊が、万事が益となるように共に働いてくださる」と信じ続けることは、どのようにして可能なのでしょうか。

 聖句(2)に、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。

 「執り成し」という言葉を、改めて広辞苑で調べてみました。最初に、「あるものの姿を変えて、別のものにする」と書かれています。つまり、真に「取り成す」とは、単に「仲裁する」だけでなく、「確かに、彼には欠点もあるが、色々見所もあるので、見直してやってほしい」と頼むということです。

 聖霊は、信仰が崩れてしまいそうになり、もう祈れないくらいへたばっているわたしたちの手をとるようにして、再び祈れるように変えてくださいます。

 どのようにして、わたしたちを変えてくださるのか。「言葉に表せないないうめきをもって」変えてくださるのです。 不思議な表現です。ある聖書学者は、「大いなるシンパシーをもって」と説明しました。シンパシーとは、相手の苦しみに共感すること、相手の苦しみを共にすることです。つまり、わたしたちの「うめき」に合わせるように一緒にうめいてくださるということです。その中で、わたしたちの「うめき」は、「祈り」に変えられていくのです。

 主イエスは、十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で、「アッバ父よ。・・・この杯を取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と祈られました。イエスの「うめき」は、次第に「祈り」になっていきます。「アッバ」は、初めて言葉を話し始めた幼児が、父親に呼びかける言葉です。わたしたちの「うめき」を、「アッバ 父よ」と呼びかける祈りに変えてくださいますように。「アッバ 父よ]は、多分、最も短く、最も真実な祈りの言葉です。

(牧師 広沢敏明)


2008年7月20日(日)(聖霊降臨後第10主日 A年) 晴れ
「 白い紙の中の黒い点 」

――今日の聖句――
<いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。>[マタイによる福音書 13:29−30]

 この前ある本を読みましたが、その中の内容をご紹介いたします。ルネサンス時代の立派な美術家の一人であった、ミケランジェロがある日の夕方友達と一緒に話を交わしていました。友達は話の中で他人の欠点と裏話をしながら、あまりよろしくないことを暴き出して悪口をしたそうです。ミケランジェロは彼らの対話にガッカリしながら沈黙を守っていました。ある友達がどうしてそのように一言も言わないでじっといるか、と問いました。その時ミケランジェロは白い紙の真ん中に黒い点を小さく書いて友達に聞きました。『お前たちはこの紙の中で何が見えるか。』『黒い点が見えるよ。』『私はお前たちがそれを見ると思った。』『私の見ているのは黒い点ではなく白くて広い部分だね。』

 考えてみれば僕たちも主人もまったく同じく麦を大事にしているように見えます。しかしよく考えて見れば麦に対する主人と僕の心の差が大きいということがわかります。主人の心はどのようなものでしょうか。毒麦が多いか、少ないかではなく、麦に対して焦点を合わせています。また主人は最後の刈り入れの時を、すなわち収穫の時を考えているでしょう。それに対して僕たちはすべての焦点を毒麦に合わせています。また「今」だけを考えています。僕は先申し上げました話の中の白い紙の上の黒い点(すなわち毒麦)だけ見るわけで、主人は白くて広い部分(麦畑)を見ていると思います。

 毒麦のたとえを読みながら主人は神様で、僕はまさに私自身ではないかと思いました。また自分の中に麦と毒麦が共に存在し成長しているのではないかと思いました。善と悪が同時に存在していて光と暗闇、真実と偽り、愛と憎さがそれではないでしょうか。いや麦畑よりは毒麦畑ではないかと思います。確かに麦は毒麦になれないし、毒麦は麦にはなれないが、しかし善良な人が悪人になれるし、悪人が善良な人になれるということから「抜いてしまう」ではなく「ほっとく」のが正しいかもしれません。また私が出会う人々を勝手に判断し評価を下す事がいくら危険で恐ろしい事なのかがわかるような気がします。相手の黒い点(毒麦)だけを見るのではなく、白くて広い部分(麦畑)を眺める主人の心に倣っていく僕にならなければいけないのではないかと思います。

 今日の福音書の「毒麦」のたとえを通して神様は愛を待っておられる方であることがわかりました。弱点と欠点だらけの私たち人間に対してその悪いところだけ叱る方ではなく、むしろ私たちの中に成長している麦がよく成長して多くの実を結ぶように励ましてくださる、面倒を見てくださる良い神様であることがわかりました。また刈り入れの時の判断は人間の分け前ではなく、神様の分け前という事実も悟らせてくださいました。このような神様のみ恵みに対して私たちができることは、人間の限界を感じ、み恵みを嬉しく受け入れながら誠実に刈りいれの時を準備することだと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年7月13日(日)(聖霊降臨後第9主日 A年) 晴れ
「 死から生に向って 」

――今日の聖句――
<もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの 体をも生かしてくださるでしょう。>[ローマの信徒への手紙 8:11]

 この世の中には、不確実なことがいっぱいあります。その中で、「人は必ず死ぬ」ということほど確実なことはありません。わたしたちは、生まれた瞬間から、死に向って歩き始めているのです。これが世の常であり、世の常識です。しかし、使徒パウロは、このような「生から死へ向かう流れ」に逆らうかのように、「わたしたちは死から生に向って立ち上がることができる」と語るのです。

 そのとき、気になることが、今日の聖句の始めに書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、」という、「死から生に向う」ための条件のような言葉です。 これを聞くと少し不安になってきます。丁度、入学受験生が「大丈夫、試験には受かるよ」と言われたその直ぐ後で、「勉強をしっかりしさえすればね」と付け加えられたようなものです。「大丈夫だ」と言われても、次第に不安が膨らんでいきます。

 わたしたちは、いつも良いことばかりしているわけではありません。自分大切さのために、つい愛を欠いた行いをしてしまうことなど、数え上げればきりがありません。或いは意識しなくても人を傷つけているかもしれませんし、実際に行動はしなくても、心の中では、人に見られては困るようなひどい思いを抱くこともあります。こんな自分でも、「神の霊が宿ってくださる」のかという不安です。

 パウロは、別の手紙で、「自分は罪人の頭だ。そんな自分でも救われたのだ」と告白しています。「主イエスは、善人と悪人を選別するためにこの世に来られたのではない。すべての人々を救うために、十字架につけられて死なれ、復活された」というのが、パウロの確信でした。洗礼を受けた以上、もう、あなたがたの内には神の霊が宿っているのです。

 私が、洗礼や堅信の準備のとき、必ず引用する聖句があります。

 <あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。>[ヨハネによる福音書 15:16]

 主イエスがわたしたちを選んでくださった、だから、わたしたちは、いたずらに不安を抱く必要も無く、いたずらに罪の深さを謙遜することも無いのです。率直に神のみ前にひざまずけば、それでよいのです。そのとき既に、神の霊は、わたしたちの内に宿ってくださっているのです。

 何故、わたしたちが、死から生に向って歩みだすことが出来るのか、それは、主イエスが死者の中から復活されたからにほかなりません。「わたしの内に宿る主イエスを復活させられた方の霊」が、主イエスを復活させた、それと同じ力で、わたしたちたちの死ぬべき体をも生かしてくださるのです。「生から死への流れ」、に逆らって、「死から生に向って立ち上がる」ことが出来るのです。信仰は、理屈ではありません。

 若い頃は、目に見えるものしか信じられませんが、人生の経験を経るにしたがって、それだけでないことがよく分かってきます。

(牧師 広沢敏明)


2008年7月6日(日)(聖霊降臨後第8主日 A年) 晴れ
「 罪と救いの重層性 」

――今日の聖句――
<わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。>[ローマの信徒への手紙 7:23−25]

 わたしたちが、信仰について人に語ろうとするとき、難しいのは「罪を語る」ことです。「愛」を語ることは未だ易しい。「マザー・テレサを見なさい」といえば、ある程度伝わります。しかし、相手が、自分の罪を見つめることが出来るように、「罪」について語ることは容易ではありません。突然、「あなたは罪人です」と言ったら、その人はきっと怒り出すに違いありません。

 わたしたちの日常のことを想像してみてください。家庭でも、職場でも、学校でも、誰かが不正かルール違反を行い、その非を覚らせようとする場合があります。そのとき、その人が心を開いて柔軟にその非を認め、真の反省に至るように語ることは実に至難の業です。大抵は、反感と怒りを買って、あげくは絶交だ、出るところに出ようということになりかねません。

 ですから、パウロも、今日の聖句の直前まで、人間の罪について細心の注意を払って、くどいほど丁寧に、書いてきました。ところが、今日の聖句に至って、突然、たまりかねたように、「自分はなんという惨めな人間なのでしょう。・・・」と叫び声をあげます。そして、その悲痛な叫びは、次の瞬間には、「主イエス・キリストを通して神に感謝します」という神への感謝の喜びに変わっていきます。

 この突然の「嘆き」と「感謝」は、大変大切なことを教えてくれます。それは、わたしたちが自分の心の奥底にある罪をじっと見つめることができるのは、それらの罪が赦され、神の前に立っているという確信があって、初めて出来ることだということと、同時に、自分の心の奥底にある罪を見つめることなしに、救いの真の喜びも得られないということです。「罪」と「救い」は、このような重なり合い(重層関係)にあるのです。

 わたしたちクリスチャンは、心の奥底にある罪に気づいた者たちです。「なまじクリスチャに成ったがために、却って悩みや苦しみが増えてしまった」とは、よく聞くところです。それだったら良いのですが、しかし一方、信仰生活を続けているうちに、自分がなお罪人であることを忘れ、安価な救いに安住してしまうこともよく起こります。

 毎日、テレビや新聞では、悲惨なニュースが毎日のように報道されます。世界では、温暖化が進み環境破壊がわたしたちの生活を脅かそうとしています。石油や穀物価格が急騰し、食料危機が貧しい国々を直撃しようとしています。戦争は止まず、多量の核兵器は蓄積されたままです。

 世界がこのような状態にあるのに、自分たちは無関係だ、安全だ、救われていると安心していることはないでしょうか。もしそうだとしたら、パウロが「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」叫んだように、わたしたちもまた、この言葉を取り戻さなければならないように思います。この言葉を取り戻さない限り、救いに喜びもまた遠いところあることを銘記したいと思います。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Aug/16/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会