――今日の聖句――
<また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
>[マタイによる福音書 10:38−39]
聖書を読むとき二つのことを念頭に置いて考えなければなりません。「聖書が書かれた当時の背景を歴史や文脈に沿って再構成する作業」と「現在日本という所に住んでいるわたしたちの文脈における意味を聞き取る作業」です。ただ無意識の中で自分の持っている常識を「2000年前のイスラエル」に持ち込み、わたしたち自身の状況下で実行可能な箇所は現代へと適用する一方、「2008年の日本」に適用できないと見なされる箇所をさっさと2000年前に置き去ることがあります。大切なのは、わたしたちの置かれている状況が本当に2000年前の状況に相当するか否か確信を持つため、しっかりと釈義し、2000年前の人々が抱えていた問題を再構成する解釈が必要です。しかしその作業を皆さんそれぞれ行うことは大変難しいことであると思います。そのため教会では主日の説教を通して福音の解き明かし、水曜日の「聖書を学ぶ会」や月1回の「聖書に親しむ会」を通して2000年前に書かれた聖書が今わたしたちに何を語っているかを一緒に考えようとしています。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と「平和の君」イエスさまは福音書を通してこのようにおっしゃいました。この箇所によってまるでイエスさまが紛争を起こす者であり、暴力を正当化する人物であると思うかもしれません。「まさか!」と、「あり得ない」と疑問視する方もおられると思います。しかしキリスト教を公認して教会で聖人とされている「コンスタンティヌス」は様々な戦争で相手の兵士を殺しながらこの箇所を唱えました。十字軍戦争に出かけた兵士たちは戦の中でこの箇所を唱えました。南アメリカを侵略したスペインの神父たちはこの箇所を唱えました。第1・2世界対戦に参戦した軍隊のチャプレンたちはこの箇所を朗読してから説教を行いました。キリスト教の歴史は人類に戦争を教えてきたと言っても過言ではないでしょう。イエスさまに従ったイエス運動は一言で言うと「世俗的価値の徹底的な否定」でした。自立的に自分自身を小さくし、所有を拒み、食卓の交わりのため持っている物を分かち合い、限りない慈しみと赦しを実践する運動でした。このようなイエス運動の参加者の中には、家族との摩擦を呼び起こす場合がありました。福音書の様々な場面においてイエスさまに従った弟子たちの家庭に分裂が起こる様子が記されています。結果的にイエスさまは「平和ではなく剣」をもたらしました。イエスさまは家庭との別れも覚悟するように促しました。この要求はイエス運動の参加者を対象にしました。「平和ではなく、剣」というのは究極的に無所有の実践のための平和のメッセージでありました。人間世界の平和は平和な関係の中でつくられる物ではなく、絶え間ない戦いと分裂の中で行われたのは否定できない事実であると思います。そのためにイエスさまは決断を促しています。『自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない』と。
今まで「2000年前のイスラエル」を説明いたしました。次に「2008年の日本」を考えてみましょう。わたしたちの時代という文脈における意味を聞き取る作業をしてみたいと思います。皆さんは今日の「2000年前のイスラエル」で起きた福音書を通して「2008年の日本」について何を考えさせられましたか。また何が語られましたか。例えばクリスチャンがマイノリティーである日本の社会において、またはそれぞれの家庭において今日の福音書のような内容は非常に示唆することが多いでしょう。例えば家族全員がクリスチャンの家庭はそれほど多くない。またお墓の問題などキリスト教に入ると家庭内の問題が起こりやすくなるのは、皆さんがよりご存知であると思います。これからわたしたち共に考えてみましょう。神さまが望んでおられる、神さまのみ旨にふさわしい信仰の道を共に歩みましょう。また今日の福音書だけではなくこれから聖書に出会うときは「当時のイスラエル」と「2008年の日本」を忘れないようにしながら、聖書のみ言葉に出会っていくことができますように願っております。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<一人の罪によって 多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。・・・しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
>[ローマの信徒への手紙 5:15b、20]
今日の聖句は、二人の人物を想定しています。その「一人」は、言うまでもなく、「イエス・キリスト」です。もう一人の名前は、ここには出てきませんが、その人の名を「アダム」と言います。妻の名は「エバ」です。パウロは、人類の歴史の中で、二人の人物「イエス・キリスト」と「アダム」を取り上げて、極めて大切なことを語ろうとしているのです。パウロにとってアダムが、何故それほど重要だったのでしょうか。
創世記の第3章にある「アダムとエバの物語」は、よくご存知だと思います。神話の世界の物語ですが、アダムは人類全体の祖先となった人物です。彼は、エデンの園に住んでいました。そのエデンの園の中央には、「一本の木」が生えおり、神は、この木になる果実だけは食べてはならないと命令されました。しかし、ある日、アダムは、妻のエバに唆されて、エバは蛇に唆されて、「その木の果実」を取って食べてしまいます。人類の最初の神への反逆です。アダムとエバは、そのため遂にエデンの園から追放され、そのときから人間の苦しみと悲しみに満ちた歴史が始まります。
神の命令に対する最初の背き、これを、後世になって「人間の原罪」と呼ぶようになりました。このような考え方を最初に言い始めたのは、パウロであると言われています。
皆さんは原罪について、どのようにお考えでしょうか。「古い神話の物語で、自分には無関係」と思われるかもしれません。しかし、パウロにとってこの物語は、古い神話ではなく、それは自分のことであり、われわれの物語だということでした。
今月8日、秋葉原で無差別殺人事件が起こり、7人の方が犠牲になられました。そして、加藤智大(ともひろ)という人物が現行犯逮捕されました。これは特殊な人間が起こした、特殊な犯罪でしょうか。 パウロの理解はそうではありませんでした。それは、同じような環境、同じような状況に置かれれば、人間だれでも犯すかも知れない、犯しうる可能性を持っているということです。彼は、「誰でもいいからかまってほしかった」、「誰かに止めてほしかった」とも供述しているそうです。多くの苦しみの中で、最も耐え難いのが「孤独」だと言われます。人間の奥底には、自分の力ではコントロールできないような深みがあることを思い知らされます。「原罪」の一つの姿です。
人間が本質的にそのようなものであるとすれば、自分だけの力ではどうしようもない、死ぬしかないと思いつめたところで、パウロは、イエスに出会います。そして、「イエス・キリストは、そのような罪の泥沼にあるわたしたちを救うために、十字架の上で死に、復活された」という確信を得るのです。パウロは、この喜びの確信を人々に伝えようとしました。その喜びがいかに大きなものであったか、今日の聖句では「一人の罪人アダム」と「一人の人イエス・キリスト」を重ね合わせながら、「神の恵み」への喜びが語られます。今日の聖句の最後にこのように言います。
<罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。>
罪が深ければ深いほど、恵みの大きさが身に染みてくるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。・・・
死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる 神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。>[ローマの信徒への手紙 4:13、17b−18]
6月5日、国際宇宙ステーションの中に設置された日本の有人宇宙施設の船内実験室が動き始め、その入口に「きぼう」と書かれた「のれん」が掛けられ、その暖簾を宇宙飛行士が潜り抜ける映像が報道されました。この日本の有人宇宙施設が「きぼう」と名づけられたのは、言うまでもなく、科学によって人類に明るい未来を切り開こうとする願いが込められています。これが、わたしたちの希望の一つの形です。「目に見える希望」と言ってもよいかもしれません。努力や忍耐によって未来を切り開いて行こうとすることです。
しかし、「キリスト者の希望」は、このような希望とは大分違います。「キリスト者の希望」は、人間の努力や忍耐による希望が行き詰まり、途切れたとしか思えないところから始まります。今日の聖句の前半には「約束」という言葉があります。そして、その「約束」が後半の、「希望」という言葉に繋がっていきます。
今から3000年以上昔のことです。アブラハムは、「あなたの子孫は、天の星の数のようになる」という「神の約束」を受けました。このとき、アブラハムには、まだ子どもはなく、齢は100歳にもなろうとしていました。既に、子どもを授かることの出来る年をはるかに過ぎていました。しかし、この約束に基づいてイサクが与えられました。
今日の聖句に、「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。」とあります。何を言おうとしているのでしょうか。アブラハムは、何の疑いも持たず信じたのか、そうではないということです。いくら希望しようとしても、希望することを妨げる目に見える現実がある。しかし、神の約束が与える大きな希望のゆえに、神の約束を信じた、ということです。アブラハムは、寸でのところで不信仰に陥りそうになったが、紙一重のところで踏みとどまったということです。目に見える現実は、不可能としか思えない、どこを探しても希望のかけらも見出せない。そのところで「神の約束」を信じた、ということです。
この後、パウロは、アブラハムのことを語りながら、突然、イエス・キリストのことを語り始めます。「神は、イエス・キリストを通して新しい約束をしてくださった。それがイエス・キリストの十字架の死と復活である。わたしたちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、義とされた。わたしたちの罪はすべて赦され、死すべき体に永遠の命が与えられた。」
わたしたちは、人生の歩みの中で、思わぬ危機に遭遇します。それでも神はおられるのかという疑問に押しつぶされそうになることもあります。目に見える現実の姿は、絶望としか見えず、不可能としか思えない。その中で、わたしたちは、イエス・キリストの約束を信じるのです。そこに「キリスト者の希望」があります。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。>[ローマの信徒への手紙 3:21−24、28]
使徒パウロの四大書簡の一つ、「ローマの信徒への手紙」は「義の手紙」と呼ばれます。「義」とは、今日の聖句にある「神の義」(神の正しさ)ということです。この「神の義」を、ある聖書(共同訳聖書)は、「神の救いの働き」と訳しました。つまり、「ローマの信徒への手紙」は、「わたしたちはどのようにして救われるのか」を書いた書物と言うことが出来ます。
パウロは、青年時代、サウロといい、有名なユダヤ教のラビ、ガマリエル門下の俊秀で、ユダヤ教団のエリートでした。キリスト教徒への迫害を積極的に主導し、最初の殉教者となったステファノが殉教したときも、その現場にいました。しかし、あるとき、キリスト教徒迫害のためダマスコに向かう途中、イエスに出会い、回心します。それから数年間、パウロは、アラビアの荒れ野に身を潜め、救いを求めて苦悶の月日を過ごしたと考えられています。そこで得た結論が、「人は、律法を守ることによってでもなく、善い行いをすることによってでもなく、ただ信仰によってのみ救われる」ということでした。
「ローマの信徒への手紙」7章にこのような言葉があります。
<わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。>
パウロが、具体的にどのような罪の虜になっていたかは書かれていません。しかし、そのような罪の虜になっている自分を救うことが出来るのは、結局、自己の努力でも、修行でも、善行でもなく、ただ信仰によるしかないことに気づくのです。「信仰のみ」とは、今自分がありのままの姿で、ただ「イエス・キリストを信じること」、「イエス・キリストだけを見続ける」と言ってもいいかもしれません。
マルコによる福音書の5章25節以下に、「イエスの服に触れる一人の婦人の物語」があります。長年の病で全財産を使い果たした一人の婦人が、群集の中で、イエスの衣の裾に触れ、癒される物語です。その時、イエスは、「あなたの信仰があなたを救った]と言われました。この婦人は、何か立派な行いをしたわけでも、立派な意見を述べたわけでも、立派な祈りを唱えたわけでもありません。医者への支払いのために財産をすべて使い果たし、すべてが空しい思いの中で、「この方の服にでも触れればいやしていただける」かもしれないという思いで、そうしただけです。「もう、この方しか頼るものはない」、「僅かでも、主のみ心が動くならそれを受けたい」と思っただけです。それが、パウロのいう「信仰のみ」ということです。
この物語に即して言えば「イエスの衣の裾を握り続ける」ということです。
(牧師 広沢敏明)
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