今週のメッセージ――主日の説教から


2008年3月30日(日)(復活節第2主日 A年) くもり
「 イエスさまが弟子たちに残された言葉 」

――今日の聖句――
<「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」>[ヨハネによる福音書 20:22−23]

 今日の福音書の箇所は、イエスさまが復活して弟子たちが集まっている所に現れているのを説明しています。本文を読むとイエスさまは弟子たちの信仰を固めるため、また弟子たちを派遣のため、自らご自身の復活を目撃させるために現れたと思います。

 イエスさまの傷跡は復活後にも体に残されました。イエスさまが受けた受難と死の証拠である傷は彼の死を語っており、その死に打ち勝って復活したということを語っています。20節には「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されています。弟子たちが人間であるから物理的な証拠をみて喜んだのであります。ここで喜ぶという意味の原語の意味は「歓迎する、幸せ」です。マタイによる福音書2章10節の「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」の喜びと同じ言葉を使っています。弟子たちが喜んだのは東の学者たちがメシアの星を発見したことと同じだと思います。すなわち弟子たちはメシアに再び出会い喜びました。またイエスさまは弟子たちに両手を見せました。新共同訳に表現されているようにただ「手」を見せたわけではなく、原文には複数として表現されている。すなわち両手の傷跡を見せるため脇の傷跡を見せるため胸を張ったに違いありません。今もイエスさまを従うすべての人にもイエスさまは心を開いてくださると思います。これはヨハネによる福音書16章22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」の成就でもありました。

 21節ではイエスさまは再び「あなたがたに平和があるように」と言われます。ここではただの挨拶ではなく派遣命令をするため騒いでいる雰囲気を鎮めるためでした。またイエスさまの言葉に耳を傾けるようにしたことです。イエスさまは「父が私を派遣したように、私もあなたがたを派遣する」と言います。というのは、イエスさまはご自身が行われた使命を絶えず行うように命令しました。イエスさまは父と同じ権威を持っています。「のように」と言ったのはイエスさまの権威が弟子たちにも与えられたことを意味します。すなわち弟子たちにイエスさま自身とイエスさまの名のために活動する権威を与えました。これはヨハネによる福音書13章20節にもすでに記されています。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 22節でイエスさまは弟子たちに息を吹き入れました。これは、イエスさまは実際生きておられ、この命の息を見せようとしただけではなく、弟子たちがイエスさまから与えられる霊的な命と権威と能力を彼らにあらわそうとしたのです。全能なる神の息が人間に吹き入れられ世界が始まったように、救い主であるイエスさま・キリストの息も彼らに命を吹き入れられ新たな世界が始まりました。また聖霊はキリストの賜物です。使徒は按手を通して聖霊を伝えました。また教会を担う奉仕者を任命し、聖霊を通して教会がイエスさま・キリストのみ業と共に歩むことが出来るようにしました。ここは派遣と伴って彼らの活動の上に聖霊のみ助けがあることを示している箇所でもあります。また「受けよ」はマタイによる福音書26章26節、マルコによる福音書14章22節の最後の晩餐における「とって食べなさい」の「とって」にも使われました。「聖霊を与える」と「パンを与える」ことの関係に関して考えてみます。すなわちイエスさまが昇天をし、弟子たちによって教会が始まるとき聖霊降臨後働く聖霊によって、また毎週主日行われる聖餐式において主の血と体を食しながら記念をする弟子たちあるいは使徒たちにとって「受けよ」という単語は、主から命の力を得る非常に意味深い単語であったのではないでしょうか。

 23節の伝統的な解釈は「赦しの権限」に関することです。元々弟子たちには赦しの権限もなかったしそのような立場でもなかったといわれています。しかし聖霊が与えられ生じる結果として赦しの権限も弟子たちが持つことが出来るようになったと言われてきました。一方ここで「赦される」という表現は、「手放される」という意味をも持っています。また大事なことは「罪は赦される」が完了形であるということです。すなわち「赦される」または「手放される」で終わるのではなく「赦されている」または「手放されている」ということです。というのは人が赦すのではなく前から、神に赦されたことがずっと続いていたことを示しています。またこれからも人と人互いにゆるしあって、続けていくことも意味しています。

 今日の物語の核心は「平和」と「聖霊」、「手放す」のではないかと思います。弟子たちを派遣することにおいてイエスさまはただの挨拶ではない意味として「平和があるように」と言います。それは平和の仲介者であるイエスさまが、イエスさまに倣って平和の仲介者になる弟子たちを派遣する命令でもあります。これから続ける聖餐式の中の「平和の挨拶」の時、イエスさまに倣って自ら平和の仲介者になることを認識し、主の祈りをささげるとき、特に「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します。」の部分を唱えるときは自分が手放してないまま、首を絞めている人々を思いながら、その人々に対する「赦し」ができるように祈りを共にささげたいと思います。

(聖職候補生 卓 志雄)


2008年3月23日(日)(復活日 A年) 晴れ
「 苦しむ神 」

――今日の聖句――

  1. <さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。>[マタイによる福音書 27:45−46]
  2. <事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。>[ヘブライ人への手紙 2:18]

 今日は、主イエスのご復活を祝う日です。主イエスのご復活を真に喜ぶためには、主イエスの十字架を見つめねばなりません。主イエスの復活と十字架は一つのことだからです。主イエスは、十字架に掛けられる前夜、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で、「父よ、御心ならば、この杯を取り除けてください」と切に祈られました。しかし、この祈りは、その通りには受け入れられませんでした。イエスは逮捕され、裁判に掛けられ、遂に十字架につけられます。父である神の沈黙が続きます。

 遂に最後のときが来ます。今日の聖句1の通り、イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)と大きな叫びをあげられ、息を引き取られます。イエスが愛して已まなかった神、それまで、イエスの願うことは何でもかなえられた神、しかし、このときは沈黙が続きます。この最後の叫びは、古来、多くの人を躓かせる謎でもありました。人々は、なぜイエスが「神の見捨て」に遭わねばならないのか理解できなかったからです。でも、私は、このとき、主イエスは、真実 「神の見棄て」を経験されたのはないかと思っています。「神の見捨て」は、絶対的な孤独です。多くの苦しみの中で、「孤独」がいかに耐え難いかは、孤独の果てに死を選ぶ人々が必ずしも少なくないことにもうかがわれます。

 父である神は、何故これほどに過酷な試練をイエスに課されたのか。十字架の死そのものが、わたしたち人間のためだったとすれば、この「神の見捨て」も、わたしたち人間のためであったはずです。それは、わたしたち人間の中に、それほどのイエスの苦しみでなければ、いやしえない苦しみがあるからではないでしょうか。アウシュビッツのガス室の中にいる人たち、広島、長崎で、原子の火で焼かれている人たち、今、アフリカの大地で、エイズのために死にかけている子どもたちのことを想像してみてください。その人たちが、イエスに共感し、救いを見出す唯一の道は、イエスもまた神の見捨てを経験される以外の道はないように思われます。父である神は、すべての見捨てられた人々の兄弟となり、彼らを神に導くために、独り子であるイエスを、犠牲にされたのです。わたしたちを愛してくださる神は、またわたしたちのために苦しんでくださる神なのです。

 み子イエス・キリストが、十字架上で父である神の見捨ての中で死ぬとき、父である神は、み子と共にいて、み子の孤独と死を苦しまれる。神がこのような方であるからこそ、イエス・キリストの十字架は、わたしたちが苦しみの中にいるとき、神がその苦しみを分かち合い、共に担ってくださる「しるし」となるのです。今日の聖句2は、そのことを表しています。第二次世界大戦末期、ヒトラー暗殺計画に加担した罪で処刑された神学者ボンヘッファーは、その獄中で、「苦しむ神のみが、助けることができる」と書きました。

(牧師 広沢敏明)


2008年3月16日(日)(大斎節第6主日 A年) 晴れ
「 想定外の十字架 」

――今日の聖句――
<こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。>[フィリピの信徒への手紙 2:10−11]

 人間にとっては誰でも想定外のことが起きると思います。私のことですが、自分が聖職を目指すことは、自分の人生において「想定外」のことでした。神さまはわたしに想定外のことを起こさせてくださいました。主の僕として主の福音を宣べ伝えるように導いてくださいました。このような想定外のことはイエス・キリストを救い主として告白するわたしたちクリスチャンには必ず起きることです。今教会に来て礼拝を献げること、クリスチャンになったこと、またキリストをわたしの救い主と告白することは皆さんにとって「そんなはずではなかった」という想定外のことであったかもしれません。

 2000年前イスラエルにも想定外のことが起きました。それはイエスさまが死刑を宣告され苦しみを受けられ、十字架にかけられたときの起きたことです。今日の福音書の中でピラトによる裁判の話があります。ピラトからの裁判でイエスさまは無罪でした。ピラトはイエスさまから何の罪も見つけることができませんでした。当時イスラエルでは、過越祭には罪人の中で一人を釈放する慣習がありました。群衆の選択は意外でした。彼らはバラバを解放してイエスさまを殺せと叫びました。自分の政治的野心だけを考えたピラトはイエスさまから何の罪も見つけることができなかったにもかかわらず、イエスさまをユダヤ人たちに渡しました。ユダヤの法廷で死刑を宣告されても、死刑を執行する権利はローマにありました。イエスさまはまたローマ兵士たちに渡されました。ローマ兵士たちはイエスさまの頭に茨の冠をかぶらせ、赤いマントを着せてむち打ちました。そしてバラバのために準備した十字架をイエスさまに担わせました。イエスさまはゴルゴタに向かって上りました。数えきれないほどなぐられて血だらけになった背中に、十字架のその重くて荒い表面が触れる度にイエスさまの苦痛は加えて行きました。倒れてまた倒れてもイエスさまは行かなければなりませんでした。ゴルゴタに近づくと、先に引かれて行って釘を打っている強盗たちの悲鳴と殴られる鈍い音がますます大きく聞こえます。

 「想定外」の体験をした人、イエスさまの代わりに釈放されたバラバはイエスさまが十字架を担って行かれたその道を遠く隠れて付いて行ったはずです。「一体なぜ?」、「一体どうしてこの人が死ななければならないか?」、「この人は一体私よりどれぐらい大きい罪を犯したから、私は生き返って彼は死ななければならないのか?」。涙のまぜこぜになったバラバは重ねて言ってまた重ねて言ったはずです。イエスさまのためにバラバがやったことは何もなかったと思います。しかしバラバはイエスさまによって生き返りました。死の入り口で生命を得ることができました。バラバがかけられるために用意された十字架は、イエスさまに渡されました。それはわたしたちを救うための用意してくださった神さまの恵みでした。死の入り口に立っていたバラバ、彼は誰でしょうか?まさにわたしたちです。バラバという名前は 「父の子」と言う意味です。イエスさまがバラバの代わりに死なれたことによって、父なる神の独り子、イエスさまを信じるすべての人々が父なる神の子になりました。イエスさまはバラバのために、皆さんと私のために苦難を受けました。十字架を担いました。イエスさまは今日のバラバであるわたしたちのために、その十字架がわたしたちの代わりを担ってくださったことを信じてください。

 聖週を迎えるこの時間、イエスさまが血を流しながら歩まれたその道がわたしたちのための救いの道であることを告白しましょう。私たちが行かなければならない苦難の道を代わりに歩まれ、私たちが負わなければならない呪いの十字架を代わりに背負われたイエスさまのその大きい愛に感謝しましょう。またわたしたちの人生において、イエスさまがどのような「想定外」のことを起こさせてくださっても、それはわたしたちを恵みの道に導いてくださる神さまのみ業であることを改めて考えていきたいと思います。

(聖職候補生 卓 志雄)


2008年3月9日(日)(大斎節第5主日 A年) 晴れ
「 イエスは涙を流された 」

――今日の聖句――
<イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを 見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。>[ヨハネによる福音書 11:33−37]

 今日の聖句は、「ラザロの復活の物語」の一節です。ユダヤのベタニアというエルサレムからほど近い村に、マルタ、マリア、ラザロという3人の姉妹と弟が住んでいました。ラザロが重い病気に罹り、死に瀕しているとき、マルタとマリアは、イエスに早く来て欲しいと連絡します。しかし、イエスが到着された時は、ラザロは墓に葬られた後でした。

 墓の周りでは、ラザロの姉マリアだけでなく大勢の村人が皆一緒に泣いています。それを見たイエスは、激しい憤りを覚え、興奮して叫ばれ、そして涙を流されました。イエスは、何に対して、それほど憤り興奮されたのでしょうか。イエスの涙は何の涙だったのでしょうか。

 イエスの涙は、村人の想像したような、ただ単にラザロを深く愛していたからではありません。イエスの憤りと涙は、マルタもマリアも村人も、皆が死の支配の前になすすべもなく、泣き悲しみ、立ちすくんでいることへの憤りでした。

 日本語は、命という言葉は一つですが、ギリシャ語では、命を表す言葉が二つあります。心臓が動いていたり、呼吸をしたりすることに関係する命をビオス(自然的命)と言い、「人はパンのみにて生きるにあらず」という場合の命を、ゾーエー(人格的命)と言います。今日の聖句の少し前に、次のようなイエスの言葉がありますが、この場合の命はゾーエー(人格的命)です。

 <イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」>[ヨハネによる福音書 11:25−26]

 イエスの憤りと涙は、死が、ラザロのゾーエー(人格的命)までも支配していることへの憤りと涙だったのではないでしょうか。死も支配に対して、皆が何もできず、ただ泣き悲しんでいることへの憤りと悲しみです。ですから、このラザロの死は、自然的死を装いながら、実は人格的死を表しているのです。問題は、イエスの愛の深さをもって、その死の支配に打ち勝てるかということです。この後、イエスが、墓の中に向かって大声で「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれると、ラザロは、手と足を布で巻かれたまま出てきます。ラザロの復活です。ラザロが生き返ったことは、イエスの愛が死の支配に勝利したことを表しています。しかし、イエスにとって、この死との戦いは、前哨戦にすぎませんでした。本格的戦いは、イエスの十字架の死をかけた戦いになりました。

 イエスは十字架上に死なれますが、やがて、死から復活されます。イエスの復活による死に対する勝利は、わたしたちが主イエスにつながっている限り、永遠の命にあずかっていることを示しているのです。

(牧師 広沢敏明)


2008年3月2日(日)(大斎節第4主日 A年) 晴れ
「 我々も見えないということか 」

――今日の聖句――
<イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを 聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」>[ヨハネによる福音書 9:39−41]

 今日の聖句は、ヨハネによる福音書第9章の「イエスが生まれつき目の見えない人の目を開かれた物語」の結論に当たる個所です。

 一人の生まれつき目の見えない男が登場します。多分、彼は、エルサレムの人通りの多い道端で物乞いをやっていた。そこへ、イエスの一行が通りかかります。イエスはその男に目を留められます。その男は、思いがけない恵みに出会うことになるわけですが、その後、この出来事が安息日に行われたこととも重なって、ファリサイ派の人々から厳しい咎めを受けます。しかし、その過程で、その男は、次第に主イエスへの信仰に目覚めていき、心の目を開かれていきます。一方、周囲の人々は、その男の目が見えるようになったのを喜ぶどころか、返ってイエスへの殺意を強めていきます。

 今日の聖句は、見えていると言いながら、実は何も見えていないファリサイ派の人々に対するイエスの痛烈な批判です。

 これに対し、生まれつき目の見えない人、彼は、人生に悲哀を嘗め尽くしてきました。目が見えないと言うことは、大変なハンディキャップです。人生を歩んでいくのに大きな重荷です。自分が、今どこに置かれているか分かりませんから、常に大きな緊張を強いられます。自由に生活を楽しむことができません。一歩間違えば、身を危険にさらすことになります。しかし、こうした現実を通して、目の見える人には見えない真実が見えてくるのです。目の見える人は、見えるがゆえに見えるものしか信じられなくなります。目に見えないものを信じることが難しくなります。人間のはかなさ、もろさ、限界といった事実に、目の見えるがゆえになかなか気づくことができません。しかし、目に見えない人にとっては、それらは、極めて身近な現実です。それだけ、真理を身近に見つめていると言うことです。

 現代は、ことに目に見えることしか信じない時代です。わたしたち、小さいときから、科学的合理性至上主義を叩き込まれ、実証できることだけを正しいと信じるように教えられてきました。また、健康なこと、力の強いこと、能力のあることが良いこと教えられてきました。その結果、人間のはかなさとか、もろさとか、弱さに目を閉ざしてきました。しかし、本当に大切なことは、人間のはかなさ、もろさ、限界といったものに真剣に向き合うとき、見出すことができるのです。その意味で、何時も人間のはかなさや弱さと向き合ってきた『生まれつき目の見えない人』の方が、実は本当に大切なものを見る目を持つことができたのです。

 サン・テクジュペリの童話『星の王子さま』の中で、「だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないと。」、「かんじんなことは、目には見えない。」と言う王子さまを思い出します。ファリサイ派の人々が「我々も見えないと言うことか」と呟いたことは、わたしたちにとって、他人事ではないかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Apr/14/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会