――今日の聖句――
<主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。>[コリントの信徒への手紙II 13:13]
現代のキリスト教信仰の中で一番難しい教理のひとつが三位一体に関する教理です。教会は 「神様は一人で、父、子、聖霊の三つの位格である」と言います。一つでありながらなぜ三つの位格であるか、また三つの位格が一つになれるか。「これを信じなさい」と言われても困ります。人間の理性では信じがたい事だからです。聖書には確かに神様はお一人であると記されています。また教会の教えは父も神様であり、子も神様であり、聖霊も神様であると教えられています。「これを多くの人々が分かりやすく理解するようにするために、神様が父、子、聖霊の姿で現われたと言えば、信者たちが理解しやすくなるのではないかと」昔からたくさんの学者が主張しました。テルトゥリアヌスは三位一体という言葉を最初に使った人物として西方神学の創始者であると言える人でした。彼は三位一体論という教理が定められた時に使われた重要な概念、例えば「一つの実体-三つの位格(Una sub-stantia-tres personae)」 という用語を初めてラテン語で表現しました。ラテン語で表現された「一つの実体-三つの位格」という表現がギリシャ語に翻訳されると「一つの本質-三つの表現様態」(one essence[ousia]-three expressions[hypostasis])になります。ここで「一つの実体、本質」は不変で永遠で分けられることができないし、主体的で単一でありながら普遍的な神様の神性を表現します。また、三つの位格は唯一神である神様が自分を啓示なさった多様な姿、表現、様態、活動作用等を現わそうとする単語で「究極的実在」の具体的側面です。
父も子も聖霊も神様です。しかし一人のお父さんであって、三人のお父さんではないのです。一人の息子であって、三人の息子ではないのです。一人の聖霊であって、三人の聖霊ではないのです。この三人の三位の中には前後も上下もなく、三位皆同じく永遠性をもっておられます。実は私たちは神様について分かっていることより、神様について分からないことがより多いと言うことが三位一体の神秘です。私たちが神様についてたくさんの知識をもって分かることより、もっとも重要なことは神様を愛することです。神様は皆さんに対してご自分を知ってもらうことより、皆さんが神様をもっと愛することを願っていると思います。
結論的に申し上げますと、キリスト教の三位一体論は「一つが三つであり、三つが一つ」 という謎みたいな数字遊びをしようとするのでもなく、パレスチナという所で33年の間住んでいた一人のユダヤ人に対して「地球を訪れた神様が人に変身した」という神話みたいな話を弁証しようとすることでも決してありません。三位一体論が言おうとする真理は、33年間イスラエルに住んでいたイエスという一人の人間の中からあふれ出た絶対的愛、絶対的真理、絶対的赦し、絶対的信頼、絶対的正義などの聖なる生涯の「意味と力」が世に属しているのではなく、天に属していることであり、人間性を通じて現われた神性の表れであることを証言しようとするものです。同じく聖霊の中で体験する愛の力、和解の力、癒しの力、そして新たなる創造の力が単純な「超能力」や「魔術」ではなく、彼らの中に現存する神様の臨在ということを証言しようとするものです。ですからキリスト教の三位一体論的、唯一神信仰はイスラエルの唯一神信仰を立て通しながらも、より具体的な生き生きとした唯一神信仰であると思います。
(聖職候補生 卓 志雄)
――今日の聖句――
<賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に、霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。>[コリントの信徒への手紙T 12:4−7]
地球上の人口65億人超、同じ人は決していません。これは、すべての人が、誰一人不必要な人はなく、すべての人が存在する意味があることを示しています。わたしたち一人ひとりに、違った賜物、違った務め、違った働きが与えられているのです。
「みなさん、まどみちおさんの『ぞうさん』という詩をご存知だと思います。今日は、母の日でもあり、こういう詩を思い出しました。
<ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ
ぞうさん ぞうさん だあれが すきなの
あのね かあさんが すきなのよ>
『くまさん』という詩もあります。
<はるが きて めが さめて くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽだが ええと ぼくは だれだっけ
はるが きて めがさめて くまさん ぼんやり かわにきた
みずに うつった いいかお みて そうだ ぼくは くまだった
よかったな>
『キリン』という詩もあります。
<みおろす キリンと みあげる ぼくと
あくしゅ したんだ めと めで ぴかっと
そしたら せかいじゅうが しーんと しちゃってさ こっちを みたよ>
まどさんの詩を読んでいると、この世界のすべてのものへの限りなく温かい眼差しに圧倒されます。「ぞうさん」も、「くまさん」も「キリンさん」も、この世界にあるすべてのものが、あるがままに、「自分に生まれてきたことを喜んでいる」ことが、ひしひしと伝わってきます。この世にあるすべてのものが、それぞれ自分としての形と性質をもち、そのあるがままの姿で、神さまに祝福されているのです。
ぞうさんは、鼻が長いからといって、キリンさんが首が長いからと言って、他の動物より偉いわけではない。みんな同じように、この世にあることを許され、みんな平等に祝福されているのです。そして、みんな、そのままで、心ゆくまで生き生きと、生きていくことを許されているのです。
わたしたち人間も、その中の一つです。背の高い人低い人、足の早い人遅い人、絵のうまい人下手の人、声の良い人良くない人・・・。みんな同じ価値をもち、神さまに祝福されているのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
(1)<愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。>[ペテロの手紙T 4:12−13]
(2)<あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。>[ペテロの手紙T 4:15−16]
わたしたちは、時に、「クリスチャンになりさえしなければ、もっと気楽に、楽しく人生を遅れたのに、なまじっかクリスチャンなどになってしまったために、余計な苦しみを引き受けてしまう」とつぶやくことはないでしょうか。
この「クリスチャンの苦しみ」には、3つの層があるように思います。
人生、もっと気楽に、楽しく過ごせばよいではないかとの考え方にもうなづけますが、クリスチャンとして避けられないこのような苦しみは、無駄な苦しみ、不必要な苦しみでしょうか。決してそうではありません。わたしたちは、何時、どこで、「火のような試練」に遭遇するかもしれません。それがどのような試練であっても、クリスチャンとして、うろたえず、しっかりと受け止めたいと思います。逃げようとするほど、却って苦しみが重くのしかかってくるのが現実かも知れません。思い切って、腹をくくって受け止めると、以外に軽いというのが現実かも知れないのです。
また、自ら試練を乗り越えようとする努力は必要なのですが、一方、わたしたち人間の力には限界があることを知っておきたいと思います。あるところから先は、神にゆだねて生きようということです。そうして、全くゆだね切ったところに、苦しみが喜びに、闇が光に変わる新しい地平が開けてくるのです。
クリスチャンとしての苦しみは、その人の人生に深い意味を与えてくれます。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |