今週のメッセージ――主日の説教から


2008年11月30日(日)(降臨節第1主日 B年) 晴れ
「 将来 − 神様から与えられた賜物 」

――今日の聖句――
<「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」>[マルコによる福音書 13:30−32]

 今日私たちは一番目のろうそくをつけて降臨節を迎えています。イエス様が来られることを待ち、その意味を深く考えながら、わたしたちの信仰と営みを点検してみる時期です。降臨節はまだ来てない意味のある事件を待つことを意味します。ラテン語では「将来」を意味する二つの単語「futurum(ピュトルム)」と「adventus(アドベントス)」があります。「ピュトルム」は「自分の意志と決断と行動を通じて自分が作って行く将来」すなわち「形成して行くこと」を意味しています。それに対して「アドベントス」は「来ていること」すなわち「自分の意志と関係なく自分に近付く時間としての将来」を意味します。「ピュトルム」としての将来と言うのは、本質的に人間が形成して作って行くことと同じ将来です。ところが「来ていること」という意味の 「アドベントス」は人間が時間の主体になって事件発生の主体になる将来ではなく、わたしたちに向けて来ている出来事をわたしたちが受け入れる将来です。まさにこの「アドベントス」という言葉がわたしたちが今迎えている時期の降臨節、すなわち「Advent」ということです。

 しかしわたしたちは「将来」と言えば、まだ何も書かれてない紙の上に自分が絵を描いたり字を書いたりすることだと想像しています。一般的に「将来」はわたしたちの意志と決断と行動を待っている時間と空間であると考えています。将来と言うのは誰もまだ駆け付けたことのないところを先に走って行く行為と同じだと思いがちです。そのような思いが強すぎて「こちらに来ている将来」という概念はほとんど忘れてしまっています。わたしたちはカレンダーをめぐる時に、一週間後または何ヶ月後何かをすると丸をつけたりメモをしたり表示をします。手帳に約束をあらかじめ記入しておく事に慣れています。ですから「将来」と言うのは本質的に人間の自由意志に属して、人間が形成していくのだと思い、人間の意志に属して、自分が作って行くことだと思うようになりました。将来は人間が自由自在に処分することができる「所有」のようなものだということにあまりにも慣れています。最後の臨終の時間が近くなる時、時間は自分勝手に処分することができる所有物ではないと、自分の手の中に入った財産のような物ではないことに気づかされるだろうと思います。

 一口で言えばわたしたちは「将来」と言うのは来ていることであると、待ちながら神様のみ恵としていただくこと、予期しない賜物であることをほとんど忘れて生活しています。それで今日の福音書での弟子たちのように時間を人間の領域と思って、人間が時間の主体になって将来を思うようになれば将来に対して心配するようになり、動搖するようになり、不安になります。降臨節第1主日に持たなければならないわたしたちの姿勢は何よりも「アドベントス」としての将来的営みの姿勢、すなわち待つことができること、将来というのを神様から与えられた賜物として受け入れる姿勢の回復です。もちろんわたしたちが愼重に考えながら作って行く「希望の将来」に対して責任を持っていく姿勢は言うまでもありません。しかし、イエス様がわたしたちに言われているのは、信仰的な姿勢において「将来」はこちらに来ている賜物のようなものということ、わたしたちの営みと言うのは自分が成すことだけではなく、神様の許しと賜物としてのみ可能である神秘なことだという悟りが必要な信仰の季節が降臨節だと思います。

 神様から与えられた時間の中で、神様から与えられたなすべきことを忠実に果たしながら、わたしたちのために来られるイエス様を目覚めて待ち望む姿勢が今一番大切なことであると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年11月23日(日)(聖霊降臨後最終主日 A年) 晴れ
「 最も小さな者の一人と 」

――今日の聖句――
<だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。>[マタイによる福音書 25:31−46]

 今日の福音書では、二つの側の人々が示されます。「最も小さな者の一人」に手を差しのべた人々と、そうでない人々です。そのどちらの側の人々も、「いつ」 自分がイエスに手を差しのべたのか、差しのべなかったのか、分かりません。イエス(王)に手を差しのべた者として祝福された人々は、その日常の中で、飢え、渇き、旅をし、裸であり、病気であり、牢に入っている人たちに、手を差しのべていました。人として他者を思いやり、その最も小さな者のために自分をさ さげて仕えていたのです。そのことがイエスと出会い、神に仕えることだったのです。

 一方、イエス(王)に手を差しのべず呪われた者とされた人々は、「いつ わたしたちは、あなたをお世話しなかったでしょうか。」と聞きます。この質問の背景には、「もし最も小さな者が、あなただと事前に分かっていたなら、お世話したのに。」という、自分の名を上げるための他者に仕える姿勢が表れています。他者に仕える、最も小さな者に仕える、ということには、自分の思惑など全 くありません。ひたすら、その他者が自分の隣人として共に生きていくように、自分が仕えていくのです。

 いつイエスと出会い、イエスに手を差しのべ、神に仕えたのか、人は分かりません。そのことについて、今日の福音書は、最も小さな者の一人に仕えているなら ば、「今、イエスと出会い、神に仕えている」と私達に教えます。

 最も小さな者の一人と共に生きることの大切さと喜びを、今日の福音書は教えます。

(司祭 高橋 顕)


2008年11月16日(日)(聖霊降臨後第27主日 A年) くもり
「 神さまの愛を分かち合いましょう 」

――今日の聖句――
<だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。>[マタイによる福音書 25:29]

 神様は皆さんをとても愛しています。特に大人より子どもをとても愛しています。たくさんの愛を皆さんにくださいました。ある人は神様からもらった愛をみんなと分け合いました。神様が愛してくださいましたように友だち、お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先生を愛しました。そしたらその愛をもらった人から愛をもらって(愛されて)、みんなの愛の気持ちは神様から愛をもらった時より何倍になりました。

 しかしある人は神様からもらった愛を独り占めにして誰にもあげませんでした。自分の愛はひとつだから誰にもあげたくありませんでした。

 神様は隣人と愛を分け合った人をほめました。神様にその人は喜ばれました。しかし神様からの愛を独り占めした人は怒られました。「なぜ愛をあげなかったか」と。愛がひとつであるから他の人にあげちゃうとなくなるからあげなかったと言い訳しました。しかし神様からの愛はひとつではなくいっぱいありました。

 神様は皆さんを愛しています。皆さんがもらった愛は独り占めしないで隣人にあげましょう。神様からの愛を分け合うとその中にはたくさんの愛があります。何倍にもなります。

(牧師補 卓 志雄)


2008年11月9日(日)(聖霊降臨後第26主日 A年) くもり
「 基本を守るのが「近道」 」

――今日の聖句――
<だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。>[マタイによる福音書 25:13]

 今日の福音書の中で登場した「ともし火」とともに準備しなければならない「油」は何でしょうか。これに対して人々の答えはさまざまだと思います。ある人はイエス様のお話を聞いてそれに従うこと、あるいは愛の実践、あるいは善を施すこと、祈り、行動する信仰などいろいろな答えが出ます。しかしわたしは今日の説教を準備しながら、この油というのは「一番常識的で基本的な何らかの実践」を意味するのではないかと思います。何故ならばともし火とともに油を準備するということは、あまりにも当たり前で常識的なことだからです。

 また私たちは重要なことをするときには、特別な方法や秘法が必要であると思うかもしれません。ダイエットの例をあげてみます。ダイエットには様々な方法があります。運動の方法も様々、ダイエットにいい食べ物もいっぱい出回っています。しかしダイエットの基本は体内に摂取したカロリーを生活の中で多く消費することです。そのためにうまずたゆまずする運動と食生活の調節など生活習慣の改善が一番常識的なことであり一番良い方法です。

 しかし多くの人々は一番常識的で基本的なことは無視したまま、特效薬と近道を探しています。もちろんそういうものなどが一時的な效果を出すかもしれませんが、持続的な效果を得るためには運動と食生活など一番基本的で常識的なことの実践が何よりです。しかし人々はこのような事実を忘れ、まるで基本的土台を無視してもいいと思い、何か特別な薬のような秘法があるだろうということばかり考え、基本的で常識的なことの価値を無視するのが私たちの姿ではないでしょうか。そしてこのような例は信仰生活においても同じです。

 終末と審判、すなわち、神の国に入るために、救われるために、私たちはよく祈りと善の施し、教会と神様に対する献身、慈善と犠牲など特別な何かを探しているのではないでしょうか。また覚えておかなければならないことは、立派な事というのは常識的で基本的なことから始めて成り立つという事実、そして立派で特別な事は常識的なことの実践の上、意味を持つというあまりにも平凡な事実です。私たちがその事実を忘れる時私たちも彼らのように気が抜けた行動をまったく同じく繰り返す可能性があるということです。

 私たちが神の国のためにすべきことは何か特別な事や近道を探して出るのではなく自分の位置でしなければならない一番基本的で常識的なことが何であるかを考えることです。

 何故ならば聖職として、主婦として、会社員として、学生として各自に任せられた一番基本的で常識的な任務とすべきことに充実すること、その以上の良い準備はこの世の中に存在することができないからです。愚かな5人のおとめが準備しなかったものは、そんなに難しいものではありませんでした。花婿が来ると起こされてから買いに行ったので花婿を迎えるのは遅くなったのですが、行こうと思えば買いにいける状況でした。わたしたちの油も今わたしたちそれぞれの立場、状況の中で、やろうと思えばできるものです。皆様それぞれの油、イエス様を迎えるときの油というのはどのようなものであるかが、これからのわたしたちに残された宿題だと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年11月2日(日)(聖霊降臨後第25主日 A年) 晴れ
「 愛する者を奪われた人々への祈り 」

――今日の聖句――
<マリアは墓の外に立って泣いていた。・・・天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは 言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。・・・・イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ 語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。>[ヨハネによる福音書 20:11−17]

 教会では、11月は「死者の月」、死者のために特別に祈る月とされています。今年は、1月以来、8名の方が天に召されました。今日は、特にご遺族の方々の心に思いを寄せ、「主の慰め」を祈りたいと思います。

 先ず初めに、突然、思いもよらない形で愛する者を奪われ、未だにショックから立ち直れず、なかなか普通の生活に戻れない人のために祈りたいと思います。

 「なぜ、あの子が、あの人が死ななければならなかったのか。人生は、余りにもひどい、自分が代わりに死ねばよかった、人生は空しい」、そのような思いがこみあげて来ます。

 今日の聖句は、イエスを愛してやまなかったマグダラのマリアが、よみがえられた主イエスに出会う場面です。マリアは大きな慰めをえます。

 <祈りましょう>
 父なる神よ。愛する者を奪われて、ショックから立ち直れず、打ちひしがれている人々を、生きる拠り所であったものを失い、空虚な思いから逃れられずいる人々を、あなたの憐れみをもって顧みてください。どうか、混乱した感情の中にも、あなたの愛の力を知り、愛する者の死を受け入れることができるようにしてください。そして痛みは過ぎ去らなくても、あなたが共におられ、痛みを共に担ってくださることを知ることができるようにしてください。

 次に、愛する者を奪われ、深い悔恨の思いを抱いている人々のために祈りたいと思います。「なぜもっと優しくしてあげられなかったか、なぜもっと長く傍にいてあげられなかったか、なぜもっと話を聞いてあげられなかったか」、痛恨の思いがこみあげてきます。

 新約聖書の「ルカによる福音書24章」に、このような物語があります。
 その日、二人の弟子が、逃れるようにエルサレムからエマオの村へ急いでいました。二人は、自分たちの師、イエスが捕らえられ、十字架につけられた時、何も出来ず、恐怖のために逃げまどっていたという、痛恨の思いを抱えていました。その時、一人の見知らぬ人が二人に近づき、エルサレムで起こった出来事とその意味を話します。そして、宿を共にし、共に食事をしたとき、二人は、その人がイエスであることが分かります。しかし、その瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。 二人は語り合います。「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」二人は、大きな慰めをえます。

 <祈りましょう。>
 父なる神よ。自分の力と思いが足らず、何もできなかったと感じ、心を乱し、罪の意識に苦しんでいる人々に、平安を与え、自分を責める思いから解き放ってください。どうか、人間の弱さの中でも、あなたに愛され、受け入れられていることをお示しください。そして、今、痛恨の思いに浸っている人々の人生の歩みにおいて、その喜びと悲しみを、あなたが共にしてくださるように。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Apr/07/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会