今週のメッセージ――主日の説教から


2008年9月28日(日)(聖霊降臨後第20主日 A年) くもり
「 とりあえず後悔から 」

――今日の聖句――
<「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」>[マタイによる福音書 21:31b−32]

 今日のたとえ話の主題は「考え直す」ということではないかと思います。「考え直す(メタメロマイ)」という言葉はギリシャ語では「心を変える」、「悔い改める」、「懺悔する」などの意味を持っている言葉で新約聖書で6回記されています。その中で一番有名な部分はイエスを裏切ったユダが後悔する場面です(Mat 27:3)。ところが新約聖書の言語であるギリシャ語には「考え直す」と似たような意味を持っている言葉が三つあります。「エピストレポー」、「メタノエオ」、そして「考え直す」と訳された「メタメロマイ」です。「エピストレポー」と「メタノエオ」は同じ意味で使うことが出来る単語で「転換する」、「立ち帰る」、「反対方向に向かう」という意味を含んでいます。しかし「メタノエオ」は狭い意味で使用される単語で「懺悔する」、「悔い改める」など過去の罪悪を改めたいと、内面から意志的決断を行うことです。一方、「エピストレポー」はより広い意味として「現在位置から前をみて主に向かうこと」を意味しています。すなわち、立ち帰って変化をする行動を示しています。

 「考え直す」の意味ではない「エピストレポー」と「メタノエオ」はサウロの回心の時使われた言葉です。イエスさまの福音を宣べ伝えた弟子たちを迫害していたサウロは、イエスさまに出会い、自分の罪悪を悔い改め生き方を変えます。サウロはパウロになってイエスさまだけを救い主と信じイエスさまの僕として一生を尽くします。このようにイエスさまを信じ、生き様すべてを変えること、劇的な変化、変革を「エピストレポー」と「メタノエオ」と言います。しかし「考え直す」と訳された「メタメロマイ」はすこし意味が違います。「メタメロマイ」は過去の行動を後悔し考え直すことでありますが、行動と決断よりは後悔する気持ちを強調します。過去の行動を後悔するだけであってそのような行動を二度としないという意志的決断は含まれてない言葉です。例えばイエスさまを裏切ったユダも後悔(考え直す)はするのですが、悔い改めたという箇所は聖書どこにも書いていません。

 最初からサウロのように立ち帰ることは非常に難しいことだと思います。まず「考え直す」ことから悔い改めや懺悔が始まるのではないかと思います。内面の葛藤によって思いめぐらして悩むことから始まるのではないかと思います。行動と決断よりは後悔する気持ちから始まるのではないかと思います。それが重なった結果、内面からの意志的決断によってサウロのような悔い改めや懺悔が始まるのではないかと思います。しかし後悔ばかりして、悔しく思うだけに留まり自己完結するのではなく、その葛藤と心の動揺、悩みが聖霊の導きとみ守りによって神さまのみ旨にかなう悔い改めと懺悔につながるのだと信じます。

 すぐ意志的決断を伴う悔い改めと懺悔が出来る方はどうぞお願いします。もしまだ足りない人間だと思う方がいらっしゃったら、まずは後悔し悔しがりましょう。教会に集まって共に礼拝と祈りをささげること、聖書を共に読むこと、聖歌を共に歌うこと、共同体と交わりを交わすことはクリスチャンの基本的な義務です。それが出来なかったことに対して「悔しい!」と思うことから神さまに向かうわたしたちの歩みは始まると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年9月21日(日)(聖霊降臨後第19主日 A年)
「 主のぶどう園の労働者 」

――今日の聖句――
<「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。:主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。・・・・
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていな い。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。・・・この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」>
[マタイによる福音書 20:1、13−16]

 今日の聖句は、主イエスが話された「ぶどう園と労働者の譬え」の最初と最後です。
 <あるぶどう園の主人が、夜明け、朝9時、正午、午後3時、午後5時の5回に亘り、広場に行って労働者を雇いぶどう園に送った。一日に労働が終わって賃金を支払うとき、主人は、最後に雇った者から始めて最初に雇ったものまで、皆に約束どおり1デナリオンずつ支払った。最初に雇われた労働者はこれを見て不平を言った。これに対して主人が答えた。『自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。』>

 イエスの譬えを読む場合に非常に大切なことの一つは、自分がどこに立っているか、或いは、登場人物の誰の立場に立っているかということです。あなたは、夜明けに雇われた労働者でしょうか、9時でしょうか、12時、3時、それとも夕方の5時に雇われた労働者でしょうか。

 あなたは、朝一番に雇われ、一日中、暑い中、くたくたになるまで働き、日が暮れる頃にやって来て同じ1デナリオンをもらった仲間に腹を立てている労働者でしょうか。

 それとも、あなたは、夕方になるまで職を得られぬまま立ち尽くし、やっと職を得た労働者しょうか。

 研究によれば、当時のイスラエルは、ユダヤ古代史の中でも、失業者が最も多く出た時代の一つであったそうです。最近の日本の状況と重なってきます。私は、最近10数年の間に進んだ、わが国の雇用構造の変化に強い危機感を抱いています。特徴的には、非正社員の数が1700万人に達し、総雇用者人口の三分の一にもなっていることです。正社員と非正社員の間には、賃金だけでなく雇用保険や健康保険など社会保険の面でも大きな格差が発生しているといわれます。

 このぶどう園に最後に招かれた労働者と、現代の東京で、何度ハローワークに足を運んでも職の得られない高齢者、今日もネットカッフェで夜を過ごさなければならに若者とが重なってきます。夜明けに雇われた労働者は、現代の正社員でしょう。夕方5時に雇われた労働者は、非正社員と言えるかもしれません。

 ぶどう園の主人は、日が傾き、辺りが薄暗くなっても職がえられず、自分は何の役にも立たない人間、もう存在する価値の無い人間と絶望しかかっている人に言います。「わたしのぶどう園で働いてみないか。そこでは、誰も一人前に扱われ、自分の場所を得ることが出来る。1時間でも、ぶどう1房でもよい。わたしのために働いてみないか。」わたしたちは、誰も主のぶどう園に招かれているのです。

(協力司祭 広沢敏明)


2008年9月14日(日)(聖霊降臨後第18主日 A年) 晴れ
「 「許し」あるいは「赦し」 」

――今日の聖句――
<そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」>[マタイによる福音書 18:21−22]

 今日の福音書の展開は、先週の福音書の内容である「罪を犯した人に対する忠告」に続いて、ペテロからの質問が出されます。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と。これに対して、イエスさまは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われ、制限のない赦しをお求めになり、その意味を明らかにするため、たとえ話を付け加えておられます。このたとえ話が示しているのは、自らが受けたたくさんの負債の赦しから、仲間のわずかな負債の赦しは当然ではないかということです。

 当時労働者の1日の賃金は1デナリオンでした。また1タラントンは6000デナリオンにあたります。たとえ話に登場する「ある王」の「家来」の一人の「1万タラントン」の借金とは、現在日本の円で換算すると「6000億円」になります。そもそもこの「1万」と訳されている言葉は「無数」を意味している言葉で、「数えがたい」ほどの借金を表現したものだと思います。それに対して、この「家来」に「借金をしている仲間」のそれは「100デナリオン」と言われています。現在の日本円で換算すると、「100万円」になります。「1万タラントン」の60万分の1です。イエスさまは数字化されているこの「借金」のあまりにも大きな額の対比から、神さまとわたしたち、そしてわたしたち互いの負債関係と赦しを考えさせておられるのです。

 わたしたちはイエスさまの十字架の死という「犠牲」によって数えがたい「借金」にたとえられる罪を神さまから赦していただいています。それに比べえたら実にわずかに過ぎない「仲間」の「借金」にたとえられる罪を赦してやるべきなのだということになるわけです。ところが、このイエスさまがこのたとえ話で指摘しておられるのは、わたしたちは神さまから受けた「赦し」を忘れたかのように仲間への「赦し」を拒んでいるという問題です。わたしたちの中で、神さまから受けた「赦し」を忘れてしまうことです。そしてさらに指摘しておられることは、受けた「赦し」を忘れてしまうことは、その受けた「赦し」の取り消しになりうることです。

 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とローマの信徒への手紙5章8節に記されています。イエスさまは罪に気づかず認めもしないわたしたちのために「赦し」の犠牲を払われました。わたしたちは後で気づき悔い改めます。キリスト者は神さまから受けた「赦し」から隣人への「赦し」に生きるのです。そこには犠牲が伴いますが、神さまのみ恵と平安があると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2008年9月7日(日)(聖霊降臨後第17主日 A年) 晴れ
「 共に喜び、共に泣く 」

――今日の聖句――
<喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。>[ローマの信徒への手紙 12:15−16]

 私は、9月1日をもって、練馬聖ガブリエル教会の牧師としての働きに一区切りをつけることになりました。今日の聖句にある「喜ぶ人共に喜び、泣く人共に泣く」という言葉は、私の牧師としての原点となり、また牧師としての歩みの中で離れられなくなった言葉です。今日まで、執事として4年、司祭として8年、この練馬聖ガブリエル教会の皆さまと歩んできたわけですが、それは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」日々であると同時に、真実、「共に喜び、共に泣く」ことの難しさを実感させられる日々であったことを、今改め強く感じています。

 パウロが、このローマの信徒への手紙を書いたのは50歳台でしょうか。パウロの凄さは、人間の本質を実によく理解していたことではないかと思います。パウロもまた、真実 「共に喜び、共に泣く」ことの難しさをよく知っていたのではないでしょうか。「共に喜び、共に泣きなさい」と書いて直ぐ、このように書いています。今日の聖句の後半です。

 <互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。>

 ここに『共に喜び、共に泣く』ことを妨げる基本的な二つのことが書かれています。

(1)高ぶってはならない。
 私は、これを「自分を絶対に正しいとしない」と言い換えたいと思います。「高ぶり」は、自分は絶対に正しいと思う心から生まれるからです。自分が絶対に正しいと思っている限り、相手の話しを聞くことができず、まして相手の気持ちに共感することは出来ません。

 福音書には、イエスと対立するファリサイ派の人々が登場します。ファリサイ派の人々は、当時のユダヤ社会において、最も真面目で信仰深い敬虔な人たちでしたが、同時に、「自分たちこそ正しい」とする人たちでもありました。この正しさが傷つけられたとき、彼らはイエスを生かしておけないと考え始めたのです。

「人間は自分が間違っていると思っているときではなく、自分が正しいと思っているときに罪を犯す」という言葉を思い出します。

(2)賢い者とうぬぼれてはならない。
 現代は、ある意味で知識全盛の時代です。偏差値教育が幅を利かせ、良いとされる学校を目指して鎬を削っています。しかし、実際の世の中は、知識を積み上げた学者が、すべて人格者ではなく、学校の先生が、すべて愛の実践者ではありません。

 コリントの信徒への手紙Tの8章に、パウロのこのような言葉があります。

<知識は人を高ぶらせるが、愛は 造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。>[コリントの信徒への手紙T 8:1−2]

 「自分が賢いとうぬぼれること」は、「自分は絶対に正しいと思うこと」と同様に、相手の話しを聞き、共感し、「共に喜び、共に泣く」ことから最も遠いところにあるのです。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Nov/13/2008 (c)練馬聖ガブリエル教会