――今日の聖句――[ルカによる福音書24:36−〜48]
復活のイエスは、弟子達の真ん中に現われて立ち、「あなたがたに平和があるように」と言いますが、弟子達は亡霊を見ているのだと思い、恐れおののきます。 その弟子達にイエスは、「わたしの手や足を見なさい」「触ってよく見なさい」と言います。弟子達は、復活したイエスを見ても亡霊だと思い、まさしくよみが えったイエスだとはとらえません。それは、復活したイエスを、弟子達が「ほんとうに見ている」ことにはなりません。だからこそイエスは、弟子達に、「わた しの手や足を見なさい」「触ってよく見なさい」と言うのです。うわべの像を見るのではなく、まさしくよみがえったイエスを「ほんとうに見て」「悟る」こと を、弟子達は求められているのです。そしてイエスは、弟子達がそのようにできるように、自らがすすんで魚を食べられました。実体の無いむなしい体の「亡 霊」ではなく、しっかりと食物を食べる、実体の体をもったご自分であることを、イエスは自ら示されたのでした。このようにしてイエス自らが、復活したご自 身を悟らせるように、弟子達の心の目を開かれたのです。
フさらにイエスは、弟子達の「心の目を開いて」、聖書に書かれている救い主(メシア)の苦しみと復活は、まさにイエスご自身のことであったと、弟子達に悟らせます。 復活したイエスの姿を見る、ということだけでは、何の意味もありません。イエスが復活したという出来事の意味を悟り、イエスを救い主として受け入れ、ますますイエスと深く出会っていくことが求められているのです。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 20:19−31]
復活節第2主日である今日の福音書にはトマスの話が記されています。この話を聞くと「疑い深いトマス」や「トマスの浅い信仰」など否定的に解釈する傾向があります。しかしそのような伝統的な解釈に縛られる必要はないと思います。なぜならこの話は信仰が浅いトマスに焦点を合わした話ではありません。今日の福音書の内容はイエス様に会ったことがないのに信じる人々、未来の信仰者の幸せに対する幸福宣言文のような話であるからです。
そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という言葉はトマスの疑いを表した言葉というよりは、明らかに死んでしまったイエス様が本当に復活されたかに対して感覚的な証拠を徹底的に要求する言葉であります。単純な疑いや信じたくないという意志の表現ではなく、人間の論理を乗り越える、信じがたいイエス様の復活を確信したいという切実な願いであったと思います。したがってトマスは「浅い信仰の代名詞」や「疑い深い人の代名詞」というよりは、事実を認識するとき、感覚を優先するパタンーの代名詞、あるいは自分なりの方法でイエス様に出会いたい、神様を体験したい人の代名詞であるとみても無理はないと思います。
しかしここで大切なことはトマスに対してイエス様の「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という答えです。このみ言葉はヨハネによる福音書の中で唯一の幸福宣言です。この言葉が説明しているのは、信仰の対象は感覚を通してのみ認識するものではなく、五感を乗り越えていて見えないが、存在する何かに対して認識という事実、そして信仰者の幸せは目を通して見ることあるいは、奇跡による確信ではなく、愛を持ってみ言葉と証言に対する信頼と信仰ということであると思います。
最後にトマスの「わたしの主、わたしの神よ」という完全な信仰告白からもう一つの教訓が考えられるのではないかと思います。これはイエス様の愛弟子あるいはマグダラのマリアのようにしるしを要求しない完璧な信仰もイエス様の復活を体験することができるが、トマスのような実際的で感覚的なしるしを要求する信仰ももっとも偉大な信仰告白に近づくことも可能なので、信仰の道において一つだけが絶対的に正しいとは言えないのではないかと思います。皆さんは今どのような信仰を持っていますか。その信仰の道がどれであれ、わたしたちが持っている信仰の認識方法は絶対的で変わらないものではなく、イエス様に出会うためあちこちさまよう旅路であることを忘れないでいただきたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[マルコによる福音書 16:1−8]
初代教会における復活信仰の出発の過程を共に考えてみたいと思います。復活信仰はイエス様が亡くなった後、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ3人の女性が墓に行った話から出発します。この話は神様が人間の歴史に介入する姿をよくあらわしています。女性たちはイエス様の死を確信したので、イエス様のご遺体を捜しました。死を死の枠の中にはめ込もうとしました。死を乗り越える、もう一つの世界の可能性については否定していたことになります。イエス様の復活については全く予想しなかったので、女性たちは誰が墓の石を転がしてくれるかについて心配しています。この墓の入り口を閉じた石というのは死の世界を閉じ込めようとするものではないかと思います。しかし石はすでにわきへ転がしてありました。こうして死の石というのは常に死者を閉じこめるという死の論理に対する挑戦が始まりました。墓は開かれているだけではなく誰もいませんでした。開かれている、空いている墓で新しい何が始まります。イエス様の復活によって死は終ります。十字架にはりつけられ死なれたイエス様が復活したという嬉しい知らせによって新たなる歴史が始まりました。復活の意味を考えるためには、私たちは今復活の生き方を歩まなければなりません。私たちの全てを押さえ付けている重い石を転がすと、私たちの全てはイエス様に取り戻されるようになるはずです。またその結果復活の生き方を歩むことが出来ます。墓をふさいでいる石は私たちの生き方の流れを歪曲し障害を呼び起こします。私たちの中には石に押さえ付けられて、生きて行くことができないようになったと感じる方が多くおられると思います。
私たちを押さえ付けている石はさまざまです。それは私たちが病んでいる肉体的な病気であり、また知的な観念であり、政治的または社会的制度であるかも知れません。それはまた私たちを縛りつけているあらゆる不自由であり、良心の苦しみ、心理的抑圧と不安、他人に向けた憎しみと呪いであるかも知れません。また私だけが担わなければならない過去の荷物であるかも知れません。それはまた行き過ぎた所有欲と物欲、名誉と権力の追求であるかも知れません。また心の迷い、高慢、虚栄、偽善、ねたみ、恨み、利己心であるかも知れません。このような石に押さえ付けられて生きて行く限り、私たちは復活の生き方を歩むことは出来ません。それは不自由です。生きているように見えるが、実は死んでいることと違わないかも知れません。だから復活の生き方と言うのは、私たちを押さえ付けている石を転がすことです。転がされた石というのは、死に打ち勝った生命を象徴します。それは私たちが再び起き上がることができるということを意味します。石のように固くなった心臓が生き生きとした心臓へと変わります。石を転がすと私たちの中に死んでしまい腐っていくたくさんのものが生命を回復します。私たちを縛っている不安と不自由の鎖から釈放されて自由になります。解放感を感じ豊かな心を持つようになります。
しかし石は私たち一人の力でころがすことはできません。神様の力によって、また隣人の力によって転がされるものだと思います。今日の福音書の中で、天使と思われる白い長い衣を着た若者は「あの方は復活なさった」と言います。この動詞は原文では受動態で書かれていますので直訳すると「彼は復活させられた」となります。すなわち自ら復活なさったのではなく、そうさせられたわけです。私たちも自分一人で石を動かせるものではないと思います。必ず神様によって動かされ、またその力によって互いに力を合わせて動かせていただくことになると思います。その力は教会という共同体から養われるのだと信じます。
私たちのために死なれ復活されたイエス様が豊かな祝福と平和を与えてくださることを切実に願います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
(1)<夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラ トに渡した。・・・そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは 不思議に思った。>[マルコによる福音書 15:1、3−5]
(2)<三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。>[マルコによる福音書 15:34]
今日の聖句は、マルコによる福音書による「主イエス・キリストの受難物語」の一部です。受難物語は、イエスの裁判の物語です。この裁判を通して、「イエスはなぜ殺されねばならなかったか」、そして「イエスの十字架の死が、わたしたち人間の救いであるというのは、どういうことなのか」が明らかになっていきます。誰がイエスを裁いたのでしょうか。
ユダヤにおける最高権力者・ローマの総督ピラトは、何とかして死刑を回避しようとしますが、結局は自己の保身のため、ユダヤの指導者と群集の要求に屈し、イエスに十字架刑を宣告します。原告は、ユダヤの国会にあたる最高法院です。最高法院は、既に、涜神罪など律法違反の罪でイエスに死刑判決を下していましたが、ユダヤ人には死刑執行権が認められていなかったため、ピラトに十字架刑を要求したのです。
ローマ軍の兵士は、出来る得る限りの侮辱をイエスに加え、ユダヤの群集は、血に飢えた狼のように「十字架につけろ」と激しくピラトに迫りました。
イエスの弟子たちは、散り散りに逃げまどい、辛うじて踏みとどまり、裁判の成り行きを知ろうと大祭司邸に忍び込んだペテロも、イエス弟子であることがばれそうになると、三度にわたりイエスを否みます。つまり、弟子たちもイエスを裁いたのです。
すべての人間、ピラトも、祭司長・律法学者も、ローマ軍の兵士も、ユダヤの群集も、更にイエスの弟子たちですら、イエスを裁いた。イエスに十字架刑を宣告したということです。ここに人間の罪が極まりました。すべての人間を救おうとされたイエスを、すべての人間が裁き、十字架にかけようとしたのです。
更に、この裁判を見る時、聖書には書かれてはいませんが、その背後に、本質的に重要なことが隠されています。それは、父である神ご自身が、イエスを裁かれているということです。イエスは、十字架上で、ただ一言「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」)と叫ばれました。イエスは、事実、神に見捨てに遭われたのです。つまり、神ご自身が、イエスを裁き、十字架につけようとされたということです。なぜ神はイエスを十字架につけねばならなかったか。ここに大きな秘密が隠されています。すべての人間がイエスを裁いた。これによって人間の罪が極まった。つまり、人間の罪は行き着くところまで行ってしまった。それは、すべての人間が滅ぼされても仕方がないということです。しかし、ここに大きな逆転が生じます。神はすべての人間を滅ぼすことをされず、その代わり、すべての人間の罪をイエス一人に上に負わせようとされたのです。この時、イエスは、人の中の人、真の人となられました。イエスは、十字架上にのた打ち回って死なれます。このイエスの苦しみは人間の罪の重さを表しています。
このイエスの死によって、すべての人間に赦しが与えられたのです。
(協力司祭 広沢敏明)
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