今週のメッセージ――主日の説教から


2009年8月30日(日)(聖霊降臨後第13主日 B年) くもり
「 しなければならないこともしましょう! 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 7:1−8、14−15、21−23]

 法律というのは共に生きていくために、社会を維持していくために必要な最小限の規範です。しかし最小限の規範である法律だけを守っていこうとすると、その生き方は適当な生き方になる恐れがあります。それは少なくとも「罰は当たらない」という考えから始まります。「法律的」にだけ考えて生きる姿は「してはいけないことはしない」という消極的生き方になります。その生き方には「しなければならないことする」という積極的姿は消えてしまうかもしれません。「法律的」に頼る根本的問題はここにあります。

 消極的で律法主義的姿勢は、喧嘩はしないかもしれないが、最善を尽くして愛をする姿を忘れてしまう恐れがあります。イエス様の教えに従う人はより積極的にならなければなりません。イエス様が強調した心を洗うことは「してはいけないことはしない」の決心とそれを守らなかったときの懺悔で完結するものではありません。イエス様の教えにしたがってイエス様からの愛の実践を「しなければならない」と常に考え行動に移すこと。またそれができなかったとき、振り返って懺悔をすることです。

 祈祷書の「朝の礼拝」あるいは「夕の礼拝」の式文の中には「懺悔と赦しの祈り」という部分があります。祈りは、このように始まります。「憐れみ深い父なる神よ、わたしたちは、してはならないことをし、しなければならないことをせず」。「してはならないことをしました」という罪の告白は大切です。しかし「してはならないことをし」という告白だけではなく、「しなければならないことをしませんでした」という告白をも積極的にそれぞれの言葉でささげたいと思います。また「しなければならないことをしませんでした」という告白をする前に、「しなければならないこと」ができる力を神さまがわたしたちに与えてくださることを信じて祈り、「しなければならないことをする」実践の姿、この二つがより大切であると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年8月23日(日)(聖霊降臨後第12主日 B年) くもり
「 投げてしまいましょう! 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 6:60−69]

 今日の聖書箇所がわたしたちに要求しているのは「信仰の決断」ではないかと思います。今日の旧約日課では、ヨシュアが自分の死が迫ってきたことを知り民に対して決断を促しています。イスラエルの民に偶像崇拝をやめて神さまだけを選択するように促しています。今日の福音書も同じです。イエス様は弟子たちに強く決断を促しています。男だけで5千人が満腹して食べた奇跡を起こした時、大勢の人々がイエス様の周りに集まってきました。その後イエス様が船に乗って向こう岸に行った時もイエス様について行きました。イエス様はご自分の体と血を食し永遠の命を得るように教えました。ユダヤ人はどうしてもご自分の体と血を食しなさいというイエス様の教えを受け入れることはできませんでした。理解できませんでした。そのため弟子たちの多くがつぶやいて離れ去って行き12弟子しか残らなかったと今日の福音書には記されています。この時イエス様は弟子たちに言われます。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6:67)。イエス様は弟子たちに決断を促しています。ペテロがすぐ答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68-69)イエス様だけを選択し従って行きますと告白します。今日の聖書箇所のみ言葉がわたしたちに要求しているように、信仰は決断です。神さまと他の神々を同時に信じることはできません。永遠のものと一瞬のものを同時に選択することはできません。しかしながらわたしたちの姿はいかがでしょうか。洗礼式では「神の愛から引き離す、すべての罪深い思いと言葉と行いを退けます」と告白しながらも神さまとこの世の間に二股をかけているのではないでしょうか。むしろ信仰が負担になっている時もあるのではないでしょうか。

 プロテスタント、ローマ・カトリック、聖公会の信者の献金生活に関する笑い話を聞いたことがあります。プロテスタントの信者は広い運動場の真ん中にたてに線を引いて自分の収入の全部を投げて右に落ちたお金は教会にささげ、左に落ちたお金は自分の物にするそうです。ローマ・カトリックの信者は3メートルの前に1メートル直径の円を書いて収入の全部を投げて円の中に入ったお金は教会にささげ、円の外に落ちたお金は自分の物にするそうです。聖公会の信者はどうでしょうか。広い運動場に行って空に向かって自分の収入を全部投げて空中に浮いているお金は全部教会にささげ、地に落ちたお金は全部自分の物にするそうです。この話を聞いて考えたのは、現代を生きていくわたしたちの問題というのは、「いくらをささげて、いくらを自分のものにするか」のための線引きではなく、「わたしは収入の全部を空に向かって投げることができるか、できないか」という決断の問題だと思います。空に向かって投げてみると全部地に落ちてしまうことは分かっていながらも、「もし収入の全部を投げて全部空中に浮いてしまったらどうしよう!」という恐れの問題です。投げてしまえば神さまは30倍、60倍、100倍の実を結んでくださいます。また全部わたしたちにかえしてくださいます。だけれどもわたしたちは投げる決断がないのです。

 今わたしたちが「神さまから離れて去っていくか」あるいは「神さまにとどまるか」はわたしたち自身をどれぐらい「投げるか、投げないか」によるものではないかと思います。常にわたしたちは「投げるか、投げないか」について問い続けるよう、求められているのではないかと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年8月16日(日)(聖霊降臨後第11主日 B年) 晴れ
「 知恵から言(ことば)へ 」

――今日の聖句――
<知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、 はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさせた。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。 「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。:浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」>[箴言 9:1−6]

 今日の聖句は、旧約聖書の箴言の一節です。 箴言の「箴」とは、「針」と同じ意味で、「箴言」とは、「人の心を刺し貫くような言葉」(格言など)を集めた書物のことです。

 旧約聖書の中で、この「箴言」や「コヘレトの言葉」、「ヨブ記」などを、「知恵文学」と呼びます。「知恵文学」は、ユダヤで、紀元前2、3世紀ごろ流行したもので、「苦しみや悲しみの多いこの現世を生き抜いて行くための知恵、ノウハウを書き記した文学」ということです。因みに、この箴言は、上流階級の子弟たちの教育ために学校教材として編纂されたのではなかったかと言われています。

 今日の聖句の最初に、「知恵は家を建て・・・」とあります。「知恵が家を建てる」とは変な表現ですが、これは知恵を人格化しているわけです。知恵文学では、更にそれを神格化して、知恵を神々の最高の地位に高めました。

 今日の聖句は、その知恵の女神が、ご馳走と美味しい酒を用意して招いてくださる。その招きに応える者には、浅はかな者にも、正しい分別の道を歩む知恵を与えてくださる、と説きます。

 この知恵文学の時代から、2、300年後、イエスの誕生を迎えます。そして、イエスが十字架上に死なれた後、弟子たちは、「イエスが誰であるのか」という問題に直面します。それを明らかにするため福音書が書かれました。最後に書かれた「ヨハネによる福音書」の冒頭にはこのように書かれています。

 <初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。>

 これだけ読んでも、何のことかよくわかりませんが、わたしたち人間は、思いや知識や思想を「言葉」に表すことによって、互いに意思を疎通し、子孫にそれを伝え、文化を発展させてきました。このことを考えますと、「言葉」は、「知恵」の塊りのようなものと考えてもおかしくはありません。つまり、言葉があって、初めて知恵が意味を持ってくるのです。その意味で、ヨハネによる福音書冒頭の「言」を「知恵」と置き換えても決して不自然ではありません。

 つまり、知恵文学の思想は、それから3、400年を経て、「ヨハネによる福音書」の中に甦ったのです。「知恵」が神格化されたように、「言(ことば)」が神格化されました。そして、「神」即ち「言(ことば)」、「言(ことば)」即ち「イエス」、と理解され、イエスが招いてくださる食卓は聖餐式、そして、ご馳走はパン、美味しい酒はぶどう酒と理解されるようになったのです。

 歴史上いかなる優れた思想、知識も、突然単独で現れることはありません。そこには必ず準備のための期間、萌芽となる思想、知恵があります。つまり、箴言など知恵文学の思想は、わたしたちが「イエスが誰であるのか」を認識することにおいて、思想的な準備をし、人間の歴史上大きな役割を果たしたのです。

(協力司祭 広沢敏明)


2009年8月9日(日)(聖霊降臨後第10主日 B年) くもり
「 消化するために食べる「命のパン」 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 6:37−51]

 今日のみ言葉は「人間らしく生きるためには神様を信じてそのみ言葉を食べなければならない」ということをわたしたちに語っています。また今日の福音書も語っています。イエス様は神様のみ言葉の代わりにご自身を取り上げて「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである(ヨハネ6:51)」と言われました。意味のある人生を生きるためには肉体的・物理的糧だけを食べることではなく、イエス様の肉、すなわちご聖体にあずからなければならないと言われます。また神さまの啓示であるみ言葉をよく聞き従うことであると強調しています。

 み言葉を聞くことは、人間の言語を用いたコミュニケーションなので、理解するには難しくはないと思います。しかしご聖体と御血にあずかることはなかなか難しいことです。イエス様のご聖体にあずかるというのは、どのような意味でしょうか。わたしたちが聖餐式に参加する目的は、単純に「安息日を守りなさい」という律法を守るためにこなすことではないと思います。わたしたちが今日の聖餐式に参加したのは、神さまのみ言葉を聞き、ご聖体と御血にあずかるためです。イエス様の生涯をおぼえ、その生涯をそれぞれの体にあずかるためです。ただ陪餐の時間になったから前に出て食べて飲むことではありません。陪餐の時はイエス・キリストにあずかる、イエス・キリストがわたしの体に迎え入れるという心構えが必要ではないかと思います。わたしたちが毎週ご聖体と御血にあずかるとき、その実体であるパンとワインが身体の中に染みこまれ広がる体験をします。それはイエス・キリストの生涯がわたしたちそれぞれの身体に飲み込まれ広がっていくという事実を信じて受け入れることです。またキリストがわたしたちの内におり、わたしたちがキリストの内にいて生きていることを体験し告白することです。

 最後に、食べるということは消化して最後には排泄をすることです。うまく消化し排泄をしないと人間の身体は壊れてしまいます。今のトイレは綺麗になって人間の排泄物はすぐ流れてしまいますが、昔の便所を知っている方あるいは沖縄の旅行に行ったことがある方はご存じだと思います。特に沖縄の昔のトイレというのは豚を飼うところのすぐそばにあります。人間が食べて消化した物を豚は食べます。それを生きていくエネルギーにします。わたしたちが聖餐式にあずかるとき、み言葉を聞くとき、食べて満腹して満足することだけで終わってはいけません。食べて消化することです。主日の礼拝で聞いたみ言葉、および聖餐式であずかったご聖体と御血の神秘、またそれらによって養われた喜びを宣べ伝えることが消化です。この消化と排泄がなく自分一人占めになってしまうとわたしたちの心は元気にならないのではないでしょうか。

 自分だけ元気になるのではなく、イエス・キリストからいただいた命のパンを皆と分け合うことが極めて大切なことであると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年8月2日(日)(聖霊降臨後第9主日 B年) くもり
「 イエスは命のパン 」

――今日の聖句――
<イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 >[ヨハネによる福音書 6:35]
<「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」>[ヨハネによる福音書 6:51]

 キリスト教信仰の核心は、「人間の歴史を生きられた人の子イエスが、神の子である」ことを信じることです。福音書は、そのことを明らかにしようとした書物です。ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカの福音書とは違った視点から、イエスが何者であるかを明らかにしょうとしました。

 今日の聖句に、「わたしが命のパンである」、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」という言葉があります。「わたしが、何、何である」と言う表現は、ヨハネ福音書独特の表現です。ヨハネは、この表現でもって、「イエスが誰であるか」を表そうとしました。例えば、「わたしは、世の光である」、「わたしは、羊飼いである」、「わたしは、復活であり、命である」、「わたしは、道であり、真理であり、命である」、「わたしは、ぶどうの木、あなたがたは枝である」などです。

 「このパンを食べるならば」とは、「イエスを食べる」こと、つまり「イエスを信じる」ことです。続いて「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とあります。「永遠に生きる」とは、「死なない」と言うことです。或いは「いつも生きてる」ということです。

 わたしたちの「この世の命」は、必ず終りがあります。しかし、わたしを信じる者は、既に永遠の命を生きている、とイエスは言われたのです。

 今、わたしたちは、自分が永遠の命を生きているという自覚があるでしょうか。多分、多くの方は、そのような自覚をお持ちでないのだろうと思います。しかし、わたしたちの自覚がどうであろうと、イエスを信じるならば、今既に、永遠の命に生きているのです。これは、私が言っているのではなく、イエス、その方が、言っておられるのです。

 「ヨハネによる福音書」は、1世紀末頃、パレスチナの地中海に近いヨハネの教会の信徒たちによって書かれたと言われています。当時、ユダヤ人クリスチャンは、ユダヤ教からの激しい迫害の中にあり、ヨハネの教会もその一つでした。これまで支えあってきた仲間が、昨日一家族、今日一家族と教会を去っていきます。残った少数の信徒たちが、教会存亡の危機の中で、歯を食いしばって耐えながら、祈りのうちに書き記したのがこのヨハネ福音書です。

 彼らは、日曜日だけでなく、事ある毎に集まっては食事をしました。この食事は、現在の聖餐式の元になりました。彼らは、どのような思いで、「わたしは、命のパンである。このパンを食べるなら、永遠に生きる」というイエスの言葉を聞いたでしょう。彼らは、僅かなパンを分かち合いながら、イエスが今、確かに自分たちと共におられ、自分たちを支えてくださっていること、そして、自分たちの命がこの世で終わるものでないことを確信したのではなかったでしょうか。そして、そのことを、心を込めて福音書に書き記したのです。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Dec/17/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会