――今日の聖句――[マルコによる福音書 9:2−9]
本日は「大斎節前主日」です。今週の水曜日より大斎節が始まり、4月12日の復活日(イースター)の前日まで続きます。教会では古くから、信仰を深める訓 練の期間として、特別な期節である「大斎節」を定めてきました。この期間に、信仰を持とうと願っている者も、すでにクリスチャンになった者も、共に祈り、 学び、自己を鍛練して、大斎節の後の復活日(イースター)の喜びに深くあずかってきました。
大斎節には「四つの柱」があります。一つは「祈り」です。祈りと礼拝をとおしてキリストにますますつながることを求めます。二つめは「学び」です。学びを とおしてキリストの御心を深く知ろうとします。三つめは「奉仕」です。他者へ奉仕し、他者へ与えることを具体的に実行して、キリストの働きを自らもますます実践します。そして「克己」です。これまでの自分を乗り越え、これまで自分があえてしてこなかったことを自ら行い、ますますキリストと共に生きる自分と なっていくことを求めます。大斎節とは、私たち一人一人が、ますます神の求めておられる生き方に、変えられていく出来事の時です。
本日の福音書では、高い山の上でイエスの姿が変わる、という出来事が記されています。 この「変わる」という言葉は、聖書の原文では「変えられる」という受け身の動詞で記されています。イエスは、神によって、その姿を変えられました。そしてイエスが弟子たちの前でその姿を変えられた時、そこにモーセとエリヤ がいました。モーセはイスラエルの民に神よりの掟である「律法」をもたらした者です。そしてエリヤは神の掟である律法に立ち返るようにとの神の言葉を「預 言」した偉大な預言者です。神によって姿を変えられたイエスと共に、律法という「基準」を示すモーセと、預言という「立ち返り」を示すエリヤがいました。 それは、「基準に立ち返るように変えられていく」ということが決定的にイエス自らの姿によって明示されたことです。
私たちは、いつまでも同じ姿に留まる存在ではありません。イエスのように、神によって、「基準に立ち返る」ということを証しできる者へと変えられるので す。その変えられていく方向は、悲しみ、苦しみ、不安を越えて、神の招いておられる、愛と希望と喜びへとつづいているのです。
(司祭 高橋 顕)
――今日の聖句――
<さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。>[マルコによる福音書 1:40−41]
神様から与えられた賜物である「信仰」、たくさんの人々が肉体的、社会的、宗教的に解放されることにおいて原動力となった「神様に対する私たちの信仰」について共に考えてみたいと思います。明るいスポットライトに照らされている舞台の上に自分自身が立っていると想像してみてください。舞台の上にいるわたしをスポットライトが照らしている理由は何でしょうか。舞台の上できちんと演技が出来るように、カッコいい姿を見せるためだと思います。しかしその舞台の上から客席を眺めると何が見えますか。暗いです。黒い闇しか見えません。ということは客席には誰もいないことでしょうか。舞台から見ると誰もいないような暗くて黒い闇に見える客席ですが、若干の声も聞こえるしたまに拍手も聞こえてくるので人がいるという確信があります。それでその暗いところに向かって俳優は演技をします。
これはイエス様と私たちとの関係と非常に似ていると思います。イエス様が見えますか。イエス様はご自分の栄光の姿をいつも直接見せてくださっているのですか。違います。イエス様はむしろこの世の中において私たちがみ旨にかなうことが出来るように、つまずかないで幸せな生涯を送ることが出来るように私たちを明るく照らしてくださっています。つまずいて何も見えないとき、早く立ち直ることが出来るように明るく照らしてくださっています。ここで問題はこのように明るく照らしてくださっているので、イエス様の姿は私たちから見えないことです。しかし全くイエス様の姿が見えないわけではありません。目に見えないイエス様の恵の目に見えるしるしであるサクラメント、すなわち教会の礼拝における洗礼、聖餐を通して、また聖書のみ言葉を通して私たちは暗闇の中におられるイエス様を見ることができます。目に見えないから信じることは出来ない、ということは間違いだと思います。イエス様は私たちが見えない暗闇の中から私たちを照らしてくださっています。イエス様のスポットライトを感じることが大切だと思います。私たちのために常にスポットライトを照らしてくださるイエス様なので、私たちの目にはイエス様が見えないときがあります。またイエス様の姿が全く見えないので暗闇のように感じるときもあります。しかし目に見えないと言ってイエス様に対する信仰をあきらめる瞬間、イエス様と遠くなり苦しくなると思います。しかしイエス様はあきらめることなく、常にスポットライトを照らしてくださいます。そのイエス様の愛を忘れないでください。
重い皮膚病から癒された人はイエス様が病気を治してくださると確信していました。確実に信じていました。「信じる」というのは心にとめることだけではありません。「人が言う」ことです。しかも信仰は「人が言いながら仰ぐ」ことです。すなわち、私たちにとって「信仰(人+言+仰)」という言葉は「イエス様が暗い客席から常にスポットライトを照らしてくださるという思いを言う(宣べ伝える)ことであり、同時にイエス様を仰ぐこと」です。福音書の45節をみると重い皮膚病から癒された人は「そこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」と書いてあります。イエス様に「癒しの奇跡を言わないように」と注意されたにもかかわらず、肉体的、社会的、宗教的解放による喜びで軽率な行動をしたかもしれないが、イエス様に対する信仰と驚くべきわざを言わざるを得なかったと思います。45節の「告げ」という言葉は他の福音書の箇所では「イエス様による宣教」と、今日の使徒書には「他の人々に宣教しておきながら」というふうに訳されています。
私たちも「人が言いながら仰ぐ」という信仰に対する理解をもって、イエス様から与えられた信仰というプレゼントに生かされて「イエス様が暗い客席から常にスポットライトを照らしてくださるという思いだけではなく、わたしたちが常に照らされているという福音を言い広めイエス様を仰ぐ」姿を実践していきたいと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[マルコによる福音書 1:29−39]
今週の福音書には安息日の礼拝が終わってからペテロの家にて行なわれた癒しの奇跡が記されています。ペテロのしゅうとめが熱を出して寝ていました。この場面を見た仲間の弟子はイエス様に彼女のことを話します。続いて31節に「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」と書いてあります。わたしはこの31節までの出来事を通して二つのことに注目したいと思います。
一つ目は、イエス様がそばに行き、手を取って起こされます。今日も苦しんでいる、悩んでいる、病んでいる、絶望している、挫折している人々に対してイエス様の癒しは行なわれていると思います。もちろんそれはイエス様ご自身が直接なさることでありますが、教会を通して、教会の聖職を通して、またイエス様を信じる信徒であり、イエス様に使える使徒である私たちを通して行なわれる奇跡であると思います。私たちの周りには、教会の共同体の中にも苦しんでいる、悩んでいる、病んでいる、絶望している、挫折している方々がたくさんおられます。それは私たち自身でもあります。その現実を目の前にして傍観しているのはクリスチャンの姿ではないと思います。毎週私たちは礼拝の中で代祷をささげながら彼らを覚えています。しかし祈りだけでは十分ではありません。祈りは完結ではなく、出発であります。イエス様がなされた行い、み言葉を通してイエス様が示された、命じられたことを実践するための出発であります。
今日の福音書を通してイエス様は「そばに行って、手を取る」ことを私たちに要求されています。私たちはこのみ言葉に動かされイエス様がなさろうとする癒しを準備しなければならないと思います。福音によって動かされ祈りを持って初め、そばに行って、手を取りましょう。癒しは関心と愛を通して行なわれます。もちろん医療的な行為や専門家がなすべき行いは彼らに任す必要がありますが、それに先立って教会としてできることは福音によって動かされ、祈りを持って準備し、関心と愛をもって「そばに行って、手を取る」ことです。イエス様はきっと起こしてくださいます。イエス様はきっと熱を去らせてくださることを信じます。知らないうちに無関心であった周りをよくよく見ていただきたいと思います。
二つ目に、「彼女は一同をもてなした。」と書いてある部分です。「もてなす」の本来の意味は「執事」の語原である「ディアコニア」から派生した動詞で未完了過去形と言って絶え間なく現在まで続いていることを意味している言葉です。すなわち、ペテロのしゅうとめが癒されてから、もてなしは私たちに受け継がれて今も続いていることを意味しています。「もてなし続ける」、「給仕し続ける」、「仕え続ける」、「奉仕し続ける」ことを意味しています。弟子の使命をあらわす言葉でもあります。もてなしている主体はペテロのしゅうとめであったが、今は私たちが主体となって受け継ぐべきだとわたしは理解しています。
イエス様によってわたしたちは日々生かされている、癒されていると思います。またそのような経験がなかったのであればこれから生かされるのであろうと、癒されるのであろうと思います。イエス様の癒しはそれで終わるものではないと思います。癒されてから、生かされてからは、ペテロのしゅうとめのようにイエス様のために、また周りの隣人のために仕えることが大切だと思います。それがイエス様によって生かされている、癒されている私たちの本来のなすべきことだと思います。しかも「もてなす」で終わるのではなく、今日のみ言葉が示しているように「もてなし続ける」ことです。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――
<知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。・・・
ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。>[コリントの信徒への手紙T 8:1b−2、9−11]
先月の20日、バラク・オバマ氏が、第44代米国大統領に就任しました。ご承知の通り、オバマ氏は、CHANGE(変化・変革)を訴えて、米国国民の共感を得、大統領選挙を勝ち抜きました。
教会も、CHANGEが必要です。ただ、教会が変化を求める時、忘れてはならないことは、一般社会や政治以上に、「変えなければならないこと」と「変えてはならないこと」をしっかり見極めていかなければならないことです。なぜなら、政治や社会の問題はやり直しが利くかもしれませんが、人の「魂」や「いのち」の問題はやり直しが利かないからです。もし、一度、一人の人の魂や「いのち」を傷つけてしまったならば、誰もその責任をとることが出来ないからです。今日の聖句で、パウロが、「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」と言っているのは、このことです。
コリントの信徒への手紙Tの8章は、使徒パウロが、コリントの教会からの質問に答えて、この教会が直面する極めて具体的で切実な問題に関して、「変えるべきか、変えざるべきか」の判断基準を示している個所です。パウロは、日常生活で出会う具体的な問題を、常に、主イエスの福音という根源的光に照らして、考え抜きました。
「偶像に供えられた肉を食べるか、食べないか」は、コリントの教会にとって重大な問題でした。理屈としては、唯一の神のほかに神がないなら、他の神々の偶像に供えられた肉を食べたから、食べた人が汚れるわけではありません。しかし、汚れると思い込んでいる人々にとっては切実な問題でした。パウロは、これらの弱い人たちの立場にたち、「今後決して肉を口にしない」とまで言い切ります。確かに、「偶像に供えられた肉を食べても、何も変わることはない」という知識は正しいかもしれない。しかし、その知識を納得しないまま食べてしまった弱い人は、後で後悔し、苦しむことになるだろう。正しい知識によって、人が滅びることもあるのだ、ということです。
今日の聖句の冒頭に、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあります。知識は、愛と結ばれ、愛によって制限されて、初めてわたしたちの役に立つ、知識だけが一人歩きすることは極めて危険だ、ということです。
愛は、世界を造り、国を造り、会社を造り、学校を造り、家庭を造り、教会を造り、人を造ります。しかし、愛が欠如する時、世界は滅び、国は衰退し、会社は倒れ、学校は荒れ、家庭は冷え、教会は教会でなくなり、人は傲慢になります。
今、日本の社会は病んでいます。その中で教会は何ができるか。教会はその存亡が問われています。教会が何かをし、何かを変えようとするとき、絶対に忘れてはならないものがある。それは、パウロがそうであったように、「弱い人たちに対する徹底した暖かい愛の眼差しです」。
(協力司祭 広沢敏明)
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