今週のメッセージ――主日の説教から


2009年1月25日(日)(顕現後第3主日 B年) 晴れ
「 呼ばれて、従う 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 1:14−20]

 イエスと行動を共にした12人の弟子たちは特に「使徒」と呼ばれますが、この12人の弟子たちのもともとの職業や生い立ちや生き方は、多様でした。イエス に従って弟子となる前のこの12人は、本日の福音書にもある通り、ある者たちは漁師であったり、また収税人、またある者は政治結社のメンバーでもありまし た。その彼ら12人は、それぞれイエスに出会い、イエスに従って共に歩む、ということがなければ、お互いに決して一緒になることはあり得ないことでした。

 イエスはその弟子となる一人一人を「御覧になり」、私に従いなさいと「お呼び」になります。呼ばれた一人一人がそれぞれ「イエスに従って」、弟子となりま す。イエスは、何か能力のある人、才能のある人、秀でた力のある人を見ぬいて、私に従いなさいと声をかけたのでしょうか。イエスは、その人のどんな力を期 待して弟子になるように声をかけたのでしょうか。イエスに呼ばれて弟子となったこの12人たちに共通している一つの行動の姿があります。それはイエスに呼 ばれて、「従う」、という行動を起こしていることです。イエスは、何かの能力や優秀な才能や秀でた力を持っている人に、それらの力を期待し、求めて、弟子 となるように声をかけているのではありません。そうではなく、その人の、ひたすらイエスに「従う」という、その力を求めて、イエスは招いておられるのです。

 「私について来なさい」、とイエスは、私たち一人一人を招いておられます。私たちはその呼びかけを受け入れ、その呼びかけに応えることができます。なぜなら、「従うという力」をすべての私たちは持っているからです。

(司祭 高橋 顕)


2009年1月18日(日)(顕現後第2主日 B年) くもり
「 信徒と使徒 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 1:43−51]

 今日の福音書ではイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、公生涯を出発してからまず何をなさったかが記されています。ルカによる福音書を除いて、今日の福音書であるヨハネ、そしてマタイ、マルコによる福音書には同じ内容が書いてあります。それはイエス様が「弟子をお選びになる」という内容です。ヨハネによる福音書には、洗礼者ヨハネによってイエス様が洗礼を受けて、まずシモン・ペテロとアンデレを弟子にしたという内容が記されています。その次はフィリポとナタナエル二人を弟子にします。その物語が今日の福音書の箇所です。イエス様は弟子を作ってから働きを始めます。

 イエス様はこの世に来られ成長し公生涯が始まった時、すぐ奇跡を起こしたり、行事をしたり、癒したり、建物(教会)を作ったり、運動をしたのではなく、まず弟子を選びました。弟子をお選びになったのは、ご自信の働きのため、また神様の働きのため、ハードの部分ではなく、ソフトの部分を大切にされたということです。この世におけるイエス様の働きは「教える」、「癒す」、「宣べ伝える」ことでした。これはご自分を示そうとしたのではなく、神様のみ業を示そうとしたものです。またこのイエス様の働きは弟子に対する教育の一環でもありました。イエス様が死なれ復活し昇天してから、イエス様を証して教会を建てる人、教会を担っていく人を育てるためでした。

 ペテロを始め弟子たちは3年間イエス様に従ってイエス様から教わりました。彼らも気づかない内に、イエス様に似てきたと思います。弟子たちのモデルはイエス様でした。ペテロを始め弟子たちは初代教会を作り使徒と呼ばれました。彼らは宣教活動を通してイエス様に似た自分を手本とするように教えます。彼らが作った教会の中で生まれた聖職は自分だけではなく、信徒にもイエス様の人格を手本とするように、イエス様の弟子になるように架け橋の役割を担うことになりました。

 皆さんは教会で信徒と呼ばれています。それは「信じる者」という意味であります。しかし「信じる者」信徒にとどまらないで、「使徒」となって教会に使える、用いられる、つかわされることに向かって歩んでいかなければならないと思います。イエス様に選ばれ弟子となったわたしたちは「信じる」信徒であり、「使わされる」使徒でもあります。イエス様の選びに応えて行くわたしたちの宣教の働きが主のみ旨にかなうものとなりますように。主の栄光をあらわすものとなりますように切実に願うばかりです。

(牧師補 卓 志雄)


2009年1月11日(日)(顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 B年) 晴れ
「 誠実に応えていくこと 」

 今日はイエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられたことを記念する「主イエス洗礼の日」です。また教会では今年成人になられる方々を祝福しお祝いする日でもあります。イエス様は30才になるまで大工として働きながら家庭を扶養し個人的な生涯を送りました。しかしヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられてから公生涯をはじめます。これはヨルダン川で洗礼を受けられることによって人類を救う責任を担い始めた「メシア就任式」とも言えると思います。3年という短い期間でしたが、神の国について人々に教え、病気の人、貧しい人、小さくされた人を癒し慰めてくださいました。またわたしたちの代わりに自ら苦難の道を選ばれ死なれ復活されることによって「人類の救い」という神様から与えられた使命を全うされました。この3年間の公生涯の出発点が、ヨルダン川での洗礼でした。イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることによってメシアとしての公生涯を出発しました。神様からのお呼びに対してイエス様は3年間の公生涯を通して神様に誠実に「応えて」メシアとしての働きを成就されました。

 この説教が終わってから成人祝福式が行われます。社会では成人になることについて「今まで未成年(子ども)として家族や地域や社会に守られてきたが、成人を迎えて、これからは、地域や社会に責任のある形で参加していくことだ」と説明します。成人なるとお酒もタバコなども自由にできるしもっと楽しい人生が始まるのではないかと思いますが、成人になって与えられる自由、義務、権利というのは非常に重いものであると思います。新成人は二十歳になって、形的には成人式(成人祝福式)を通して成人となり自分が属している共同体の一員として家族、地域、社会に対して責任をもって「応えて」行くことが大切です。

 イエス様の洗礼と成人式という転換点であり、出発点を通して私たちの信仰生活を顧みたいと思います。信仰生活あるいは教会生活にも出発点があります。お母さんのお腹からあるいは自分の決断によって「イエス様に従う」と決心させられたあるいは決心した時期がそれだと思います。それは人それぞれだと思いますが、人間の限界を乗り越えられないとき神様にすべてをゆだねたいと思い、起こるできごとだと思います。それは幼児洗礼を通した堅信、あるいは大人になってからの洗礼・堅信という形を通して現れることになります。わたしたちは洗礼堅信というサクラメントを通して今まで罪びととしての自分を告白し、主イエス・キリストを自分の救い主として告白し、主イエス・キリストを主と信じてその教えに従うことを約束します。

 イエス様が洗礼を受けられたことによってメシアとして生涯を始められたように、わたしたちは洗礼堅信によって神様の子どもになります。クリスチャンとして出発します。洗礼堅信は目に見える形として信仰生活をはじめる出発点だと思います。決して自分の信仰を完結する時ではないと思います。神様のみ恵みによってクリスチャンとなり、教会の一員となったわたしたちはそれを忘れず絶え間ない礼拝、祈り、交わり、奉仕、献金を通して神様、そして教会に応えているかどうか、応えているのであればどれぐらいであるかをこれから真剣に考えて生きたいと思います。これはわたしと皆様に残された宿題だと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年1月4日(日)(降誕後第2主日 B年) 晴れ
「 夢を見る人・ヨセフ 」

――今日の聖句――
<イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は 聖霊によって宿ったのである。」・・・
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、 その子をイエスと名付けた。>
[マタイによる福音書 1:18−20、24−25]

 新年、明けましておめでとうございます。今日は、「聖家族の主日」でもありますので、父ヨセフに焦点を当てたいと思います。

 4つの福音書のうち、ヨセフの役割を重視しているのがマタイによる福音書です。

(1)夢を見る人・ヨセフ

 今日の聖句にもありますように、ヨセフは、「夢を見る人」として登場します。現代の心理学も、夢が、自分自身も気づいていない、心の最も奥深いところにある、願いや悲しみや不安を、はっきり現していることを明らかにしています。

 神は、人の心の深み、魂とも言うべきところにおいて語りかけられます。夢は、神と出会う場所と言ってもよいかもしれません。

 考えてみれば、マリアも天使の声を聞きました。羊飼いもそうでした。それらは皆、夢の中に出来事だったかも知れません。しかし、夢で聞いた声が、現実になって行く、それがクリスマスの出来事でもあるのです。だから、夢を見ない人には、クリスマスの出来事を本当には理解できないのかも知れません。

(2)正しい人・ヨセフ

 次に注目したいのは、「夫ヨセフは正しい人であった」と書かれているところです。「正しい人」とは、常に神の方向を向いている人のことです。聖書は、「ひそかに縁を切ろうと決心した」と、極めてあっさりと書かれていますし、その解釈も色々あるようですが、大切なことは、ヨセフが、それまで愛してやまなかったマリアに裏切られ、その愛が成り立たなくなった、もう一緒に生きていくことはできないと思たった時、彼がどのように深く傷つき、悩んだかということではないでしょうか。

 正しい人であっただけ、その悩みも深かった。ヨセフは愛と疑いの中で、悩みにのたうち回りながら、生きていかざるを得なくなったのです。しかも、それは誰にも言えないことでした。その時に、ヨセフは、神の声を聞いたのです。人は誰も、心の奥に、誰にも言えない悲しみの一隅を持っているものです。神は、そこに働きかけられます。

 ある意味で、自分を裏切ったマリアを妻として迎え入れることは、極めて理不尽なことです。しかし、ヨセフは、夢の中で聞いた心の奥底に迫る神の声に従うことを決心します。ここに、「夢を見る人・ヨセフ」の信仰の真髄があります。ヨセフの正しさは、神の声を聞き漏らさなかったこと、と言ってもよいかもしれません。

 わたしたちは、神の声が聞こえないと嘆きます。神はあなたに、本当に何も語り掛けておられないのでしょうか。そうではないと思います。わたしたちも、ヨセフになることを求められているのです。心の奥底の一隅に囁きかける神のかすかな声を聞き漏らさないようにしたいと思います。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Apr/07/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会