――今日の聖句――
<会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言 った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。・・・・
イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。>[マルコによる福音書 5:35b−36、40―42]
今日の聖句は、イエスが会堂長ヤイロの娘を死の床から呼び戻された物語の一節です。 ガリラヤ湖畔、イエスが舟から上がられると、イエスの癒しの評判を聞いた大勢の人々が押しかけて来ます。その中に、会堂長のヤイロもいました。ヤイロは、なりふりかまわず、イエスの前にひざまずき、娘の助けを願います。イエスがヤイロの家に向かわれる途中、娘が死んだとの知らせが届きます。しかし、イエスは、それにかまわず家に行き、少女の前に立たれます。イエスが、「タリタ・クム」といわれると、少女は起き上がり歩き始めました。
この物語は、わたしたちにとって、自分の娘、息子、妻、夫、母、父など身近な愛する人が危機に瀕している時のわたしたち自身の物語でもあるのではないでしょうか。
ヤイロの娘が救われたのはどうしてでしょう。ヤイロの娘を助けたい必死の思いがイエスを動かしたのでしょうか。そうかもしれません。しかし、わたしたちだってそのくらいのことはするかもしれません。自分の命と引き換えに、娘や息子の命の救ってほしいと心からそう祈ることもあるでしょう。それによって、娘や息子が、救われることもあるでしょう。しかし、必死の願い、祈りにも関わらず、その通りにならないこともあるのです。わたしたちの信仰が問われるのは、このような時です。
もう一度問います。この少女が救われたのはどうしてでしょう。私には、それは、イエスの「恐れることはない。ただ信じなさい。」の一言にあるように思えてなりません。「恐れずに、ただ信じる」とは、「すべてを神に委ねること」、「御心のままに」ということです。 ヤイロが、娘の死を聞いた後、どのような思いで家に向かったかを想像してみてください。絶望の余り、倒れそうになりながら、その中で、「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエスの言葉だけが、耳に響いていたのではなかったでしょうか。ヤイロがわれに返ったときには、娘は歩き始めていたのです。その後、彼がどのような人生を歩いたかは何も記されていません。やがて、彼も死にました。しかし、最後まで、彼は「ただ信じる者」であり続けたでしょう。ヤイロを、「ただ信じる者」に変えたのはイエスです。イエスは、ただヤイロの願いに動かされたのではありません。イエスは、自分の方から、ヤイロに近づいていかれたのです。今日の聖句に「イエスはその話をそばで聞いて」とあります。イエスは、娘の死を小耳に挟まれたのです。ヤイロが娘を生き返らして欲しいと願ったわけではありません。ヤイロは、絶望の底にありました。そのヤイロに、イエスは、自ら近づき、一緒に家に行き、娘を死の床から呼び戻されたのです。イエスは、わたしたち一人ひとりのすべてをご存知です。そこに、わたしたちの大きな希望があります。
わたしたちの信仰が、たとえ自己中心的で不十分であったとしても、ご自分からわたしたちに近づき、わたしたちと共に歩きながら、わたしたちを「ただ、信じる者」(神に委ねる者)に変えてくださるのはイエスです。
(協力司祭 広沢敏明)
――今日の聖句――[マルコによる福音書 4:35−41]
牧師補の卓志雄執事が、司祭になるための試験に、そろそろ備える頃でしょう。卓先生が司祭になれば、おそらく東京教区では最も若い司祭が生まれることになり、私はとても心待ちにしております。というのは、私は1995年、30歳になる頃に司祭に按手されたのですが、以来10年以上の間、東京教区で「最年少」でした。今、私は44歳なのですが、いまだに「若手の司祭」と自他共に言い続けるのは、ちょっと恥ずかしい気持ちにもなります。もうおじさん年齢真っ盛りだから、というわけではなくて、10年以上最年少だったということは、私よりも若い聖職志願者が出てこなかったということです。聖職の道を進む希望や夢を感じられるような姿を示してこなかったのかと、私自身、責任を感じます。
かつて私が聖職に志願した頃の神学生や聖職候補生たちは、意外と新卒や青年層が多かったのです。1990年頃です。その数年後から、様々な社会経験を積み重ねた聖職志願者が続いているように思います。そして、気がついたら、10年前に30代の若手聖職たちは、今や40代です。今や、東京教区には、若い聖職がほとんどいなくなってしまった、とも言えるのです。その意味でも、卓執事は希望の星ですし、さらに若い人が聖職に志願してくださるように、私たちは祈り続けたいと思います。
「若い聖職」ということを申してしまっているのは、牧師、聖職者には、様々な働き方があるとは言うものの、やはり体力、気力、そして精神力が必要な職務であるためなのです。牧師、落語家、俳優など、年をとればとるほど味わいが出てくる、というのもまた真実でありますから、若さだけを礼賛するわけではありません。けれども、どうも今の日本聖公会は、ちょっと元気がなくなってるのではないかと感じることがあるのです。
教区や管区の委員会に出ると、フットワークのよさそうな聖職たちが、多忙な中でなんとかやりくりをしながら活動しているのです。やりくりしながら計画実行するので、どうしても「できる範囲内」での計画になってしまいます。「こんなこともやってみようよ」「あんなこともできたらいいな」というような、自由で大きな発想が出にくい状況にあるのです。これは個々の教会においても同様ではないでしょうか。「こんなことも出来たらいいのだが・・・人手がないから・・・予算がとれないから・・・」と、何でも、前年並みに、あるいは前年よりも縮小してしまう傾向がありやしないでしょうか。これは教会にとって、とても危険な状況だと思います。「危ない橋は渡らない」という姿勢が危険なのです。「損失がないように、卒なく、無難に」という姿勢こそ、何より教会の生命の危機だと言えるでしょう。
イエスさまは「向こう岸へ渡ろう」と言われました。湖の向こう岸は、異なる価値観、考え方を持つ地方です。未知の出会いか、対立か、齟齬か、常識や習慣が通じない、そういう何ものか、よく分からないことがありそうな、そんな向こう岸へと「渡ろう!」と、イエスさまは呼びかけられました。そして、「群集を後に残して」、イエスさまと弟子たちを乗せた舟は漕ぎ出しました。こちらの岸には「群集」がいたのですから、そこでしばらく交わりを深めて、腰を落ち着けていたほうが、宣教にとっても効率的だったかもしれないのに、「群集を後に残して」出て行ってしまったのです。「向こう岸に行って、何かいいことあるんですかね」、「ここに留まっていた方が気楽なんだけど・・・」といった弟子たちの率直な思いが、不安や恐れの心情となって、自ら「向かい風」を招いてしまっているようです。
イエスさまが「黙れ。静まれ」と言われると、凪になったと記されています。それはまさに、弟子たちの不安の声に対する叱責でもあり、それゆえ「まだ信じないのか」と、イエスさまは加えて言われたのです。「向こう岸に渡ろう」というイエスさまの呼びかけに全幅の信頼を置けず、未知なる新しい状況へ進むことを恐れてばかりいるとき、それは向かい風にしか感じられなくなってしまう、ということを暗示しているのです。
重ねて申し上げますが、教会は、新しいことや、今までやってきたのとは違うことに対して、不安や恐れ、危機を感じやすいところです。が、そんなわたしたちに向かって主イエスさまは、「黙れ、静まれ」「まだ信じないのか」と言われるのです。
今、わたしたちに必要なことは、教会が、自由で大きな発想、新しいチャレンジをできる場であると信じる、気力、精神的体力をつけてゆくことでしょう。というと、少し、無理に、カラ元気を出してでも踏ん張れ、ともとらえられてしまいそうですが、そうではなくて、「静かに黙して」祈り、そこから信じる心をかためてゆくことが大切なのです。その心を養うために、イエスさまは「向こう岸へ渡ろう」と呼びかけたのです。すなわち、今までの自分の「できる範囲内」ではなく、あえて領域外のところへ行く、ということが、膠着した状況に突破口の風穴を空けるのです。
(司祭 宮ア 光)
――今日の聖句――[マルコによる福音書 4:26−34]
今日の福音書には、種はひとりでに成長すると書いてあります。しかしよく見てみるとひとりでに大きくなるように見えるだけです。その中には見えない根があります。根は深い土の中で芽を吹くために準備します。やがて芽が吹きます。ひとりでに成長するように見えますが、実は根が水と栄養分を上に上げています。根の活動がないと芽は大きくなりません。しかし根は見えません。見えてしまうと根ではありません。
信仰生活も根があります。見えない部分です。人々には見えない部分です。他人は知らない「自分だけの部分」です。その部分を大切にしなければなりません。その部分が丈夫であれば、茎は健康で花と実は自動的に豊に結びます。見えない祈りの生活が根であると思います。見えない良い行いも根であります。見えない奉仕も根であると思います。
からし種も大きな木になります。自分自身の信仰が小さくて微弱だと感じても、神さまに対する愛を持って近づいていけば大きな信仰になると思います。見えない部分が見える部分を左右します。
わたしたちの心に神の国の命が根を下ろされると、わたしたちそれぞれに与えてくださった恵みが大きな力を発揮してこの世とこの教会を変えていけるのではないかと思います。
(牧師補 卓 志雄)
――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 3:1−16]
イエス・キリストは、「風は思いのままに吹く。」と聖霊の有様を説明し、私たちが予想し、想像する状況をはるかに超えて、聖霊が働かれることを教えられま す。そしてその聖霊の働きは、私たちを、限界の向こうに導き連れて行って下さるのです。これが、新たに私たちが生れることです。私たちは聖霊によって新た に生まれ、私たち自身が閉じこもっている限界を超えて、ほんとうの喜びのうちに生きるのです。
14世紀のドイツで描かれた「聖霊降臨」という祭壇画があります。それは、イエスの母マリアとイエスの弟子たち12人が、一つの円いテーブルを囲んで座っている絵です。そしてその合計13人のみんなの口から赤い線が出て、それが中心に向って集まっています。しかし赤い線が集まった所には、ぽっかりと円い穴 が空いています。13人がそれぞれに口で語り、それが一つに集まっているとしても、そのことだけでは空しい出来事です。しかしその絵には重要なものがさら に描かれています。みんなの口から出たその赤い線がつくっている中央の円い穴の、その真上に、一匹の白い鳩が円い穴と同じサイズのパンをくわえて、直滑降 に舞い降りているのです。そしてその鳩は、今まさに円いパンを、円い穴にはめ込もうとしているのです。そのパンはイエス・キリストの体を象徴しており、人 がそれぞれに語り、発言し、主張している、そのバラバラの姿に、イエス・キリストがしっかりと加わって、皆は一致する、ということを表わしています。その イエス・キリストの体であるパンを運んでくるのが、鳩に象徴される「聖霊」です。
私たちだけでは、それぞれバラバラであり、力が限られ、限界におおわれています。しかしイエス・キリストが共におられる時、私たちはそれぞれの限界を超え て、主イエスにある共同体として一致するのです。そのような事態に導いて下さる力が「聖霊」です。聖霊が私たち一人一人を新たに生れさせて下さるのです。
(司祭 高橋 顕)
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