今週のメッセージ――主日の説教から


2009年3月29日(日)(大斎節第5主日 B年) 晴れ
「 イエスの心を生きる―一粒の麦から 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 12:20−33]

 今日の福音書は先ほど申し上げたようにイエス様が十字架を背負うためエルサレムに入城してから交わした話です。一粒の麦の話はイエス様が十字架上で死なれることを念頭に置いて言われた話です。近いうちに弟子たちが去っていくだろうと思い言われた話です。死ななければ実は結びません。しななければ新しい命は生まれません。イエス様が死なれてから弟子たちは実を結ぶことができました。イエス様の生きておられる時は、弟子たちは実を結ぶことができませんでした。

 誰が大きいかと争いました。イエス様の姿が変わられた時はここが良いですから永遠に住みましょうと言います。船であらしにあった時は大騒ぎでした。病者をいやすこともできずイエス様にお願いしました。十字架を負わなければならないとイエス様が言われると「絶対にそのようにむなしく死なれてはいけません」と引き止めて神様のご計画を邪魔します。しかも敵に師匠を売ってしまいます。呪いながら三度も裏切ります。これがいわゆるメシアの弟子たちの姿でした。弟子たちはイエス様が生きておられるときには本当に実を結ぶことができませんでした。世の中ために福音を宣べ伝えるどころか、自分ひとりの身を動かすにも困るように見えました。そしてイエス様が十字架につけられ死なれてからは、きわめて弱い姿を見せました。すべて絶望してばらばらに散らばりました。神の子がむなしく死なれるとは思いもしなかったでしょう。衝撃があまりにも大きかったと思います。しかしこれらの絶望はなくなりました。復活されたイエス様に出会い今までの出来事が新たに解釈されるようになりました。イエス様が昇天しながら言われた召命の言葉が胸の中に生き返り始めたのです。

 五旬祭の日、聖霊を受けて、死んでしまった一粒の麦の種から、力強く根がつき始めました。生命力の強い木が生まれました。そして彼らは世の中にイエス様の福音を宣べ伝え全員が殉教しました。多分イエス様が早く死なれなかったら不可能な事だったと思います。たとえばイエス様が長生きしてイスラエルでのんびり過ごされたとしたらこのような歴史は実現されなかったと思います。弟子たちは成長しないままの姿であったはずです。しかしイエス様があまりにも早く十字架で死なれ、復活され天に昇られた事実に対して悔いが残っていたのだと思います。なぜイエス様がこの世におられたとき、愚かで、イエス様の胸を痛めて、イエス様に対して無理解で、イエス様の苦しみを共に背負うことができなかったか。このような一つ一つが悔いとして残りました。そしてイエス様が死なれ復活され天に昇られてからイエス様の愛がいかに大きくて素晴らしものであったかについて悟るようになったのです。しかし彼らが愛するイエス様に対して恩返しすることができませんでした。もうイエス様はこの世の中にいらっしゃいません。それで弟子たちは一生借金した者になりました。「一生借金した者」です。そうです。それで弟子たちは泣きながら泣きながらその愛に対して恩返しをするために殉教まで拒みませんでした。その借金を返すために福音を宣べ伝え、結局殉教しました。やはりイエス様の弟子たちでした。まことに偉い弟子たちであったと思います。福音書の中に登場する弱い姿ではありませんでした。使徒書および初代教会の歴史に登場する弟子たちの姿は素晴らしい姿でした。3年間のイエス様の公生涯は無駄ではありませんでした。イエス様の働きは失敗ではありませんでした。

 今日の福音書の一粒の麦の話は、イエス様が死なれ栄光の内に復活されることだけを、またイエス様の出来事によって変化された弟子たちの姿だけを意味する話ではないと思います。イエス様は今ここで大斎節を過ごしているわたしたちに語っておられるのではないかと思います。わたしたちの中にもイエス様からいただいた一粒の麦をそれぞれ持っていると思います。しかし地に落ちて死に多くの実を結ぶ一粒の麦になるためには、自分が中心となり弱い人間であったが、イエス様を自分の中心としてから勇気ある殉教者となった弟子たちのように、わたしたちも常にイエス様を自分の中心として、イエス様のみ言葉によって養われ、「自分の心を生きる」ではなく、「自分の思いのまま生きる」ことではなく、我が教会の長期テーマである「イエスの心を生きる」ことを実践するから始まるのではないかと思います。それによってそれぞれの一粒の麦が新たな命となって、イエス様に喜ばれる良い実りとなりますように願います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年3月22日(日)(大斎節第4主日 B年) くもり
「 恵みが、今、ここに 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 6:4−15]

 食べるものを何ももたない大勢の群衆が、イエスと弟子たちの方へ近づいて来ました。イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろう か」と弟子のフィリポにたずねます。フィリポは、二百デナリオンという大金でパンを買っても足りないでしょう、と言います。弟子のアンデレは、パン五つと 魚二匹を持っている少年がいるけれども何の役にもたたないでしょう、と言います。

 フィリポとアンデレの、それぞれの言葉を裏返せば、「<もし>パンを大量に買える大金があればよいのですが」「<もし>みんながこの少年のようにパンや魚 を持っていればよいのですが」という、現実に対してあきらめている言葉です。しかしイエスは、その大勢の人々をその「現実」の場に座らせます。そして、そ の少年の持っている、「現実」にあるパンと魚を用いて、そのすべての人々が満腹するまで、分け与えられたのです。

 「もし〜ならばいいのに」という仮定法の気持ちをもって、現実をあきらめている弟子たちがいます。しかしイエスは、けっして現実から離れません。どこまで も現実にあって、現実のものを用い、感謝し、祈り、奇跡を行い、人々に恵みを与えます。イエスと共に歩もうと願う信仰においては、「もし〜ならいいのに」 「もし〜ならよかったのに」という仮定法の言葉はありません。

 イエスは、まさに今、私たちと共に「現実」を歩んでおられ、イエス自らが私たちの命のパンとなって、私たちを養って下さるのです。神の恵みが、今、ここにあります。

(司祭 高橋 顕)


2009年3月15日(日)(大斎節第3主日 B年) 晴れ
「 隠れクリスチャンを乗り越えて 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 2:13−22]

 今日の福音書である「ヨハネによる福音書」は紀元後 90年以後に書かれたと言われているので、この時はすでにローマ帝国によってのエルサレムは陷落されて神殿は破壊されていた状況でした。ヨハネによる福音書の著者はすでにエルサレムの神殿が破壊されたことを目撃した人です。ということから考えられるのは、イエス様のお話は神殿という物理的な建物は破壊されたが、イエス様の死と三日目に復活された事件によって霊的な神殿が再び建てられたと証言しているということなのです。イエス様のこのようなお話はエルサレムの神殿のみに、神様がおられると信じていたユダヤ人たちの信仰を余地もなく崩したのです。神殿という場所へ行かないと神様に対する礼拝をささげられないと信じていたユダヤ人たちの考えを攻撃したことになるのです。今ではユダヤ人だけでなく誰でも場所にかかわらず神様を霊的に礼拝することができるようになりました。

 私たちの信仰を今日のお話を通して照らし合わせてみましょう。全世界の人口65億人の中で、21億人がキリスト教の信者であり、日本には100万を過ぎる人々が信仰を持っています。にもかかわらずこの世の中は少しも福音を受け入れているような様子が見えません。いやむしろもっと暗い時代になっていくような気がします。世界の3分1がイエス様を救い主と告白し、世における塩と光の役割を担うはずなのに、ますます未来に対する希望よりは絶望ばかりで希望が見えない気がしなくないです。テレビや新聞のニュースを見ればよく分かることです。教会の中では天使のように善良な心を持って生きていくと決心してみるが、教会の門を出ると、自分がクリスチャンという事実を忘れてしまいます。また日本という社会において自分がクリスチャンと言うことをはっきり告白できない場合もあります。やはり教会へ行って礼拝に参加することだけが、教会の活動に熱心に参加することだけが信仰生活の完結だと思うからだと思います。

 私たちは洗礼を受けることによって世の中に対する肉体的な身は死んで霊的な人になりました。したがって時間と空間を超越して神様に礼拝できる営みができる特権を受けました。いつどこにでも神様を自分の救い主と呼ぶことができます。「天におられる私たちの父よ」と呼べる神様の子どもだからです。にもかかわらず教会の中だけ神様がおられると信じて、教会へ行かないと祈れないと信じる人々がたくさんいるのが現実です。日曜日という時間あるいは教会という物理的な空間のみクリスチャンになる場合が多いです。社会の中ではクリスチャンである自分に対して自信がないか、あるいは社会的な状況による問題か分からないのですが、いわゆる隠れクリスチャンになる場合が多いのではないかと思います。

 今日イエス様のみ言葉をじっくり考えてみたいと思います。そしてもう二元論的な考えはやめたいと思います。教会の中でのクリスチャンの姿を教会の外でも捨てないように努力していきたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年3月8日(日)(大斎節第2主日 B年) くもり
「 自分の思いを実現すること&神様のみ旨にかなうこと 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 8:31−38]

 イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちにはっきりと教え始めました。するとペテロはある行動を取ります。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」と32節に書いてあります。その時イエスさまは悪魔の誘惑を思い出します。悪魔はイエスさまを神殿の上に立たせ、神さまの慈しみがイエスさまを守るから、飛び降りてみよ、と誘いました。それを思い出したイエスさまは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」この33節の「思う」について説明いたしますと、人間的な知恵から万物が判断されてはならず、常に神さまの思いが中心にならなければならないという意味です。ペテロのメシア像というのは、神さまの慈しみに包まれた、苦しみを知らないメシア像です。しかしイエスさまは、それは人間の知恵が勝手に描いたメシアであるとペテロを叱ります。神さまが備えてくださった神さまのご計画を人間が妨げようとしたからです。ご計画というのはイエスさまがわたしたちの罪のため、わたしたちを救うため、苦しめられ十字架にはり付けられ死なれること。また3日後復活することなのです。

 また32節にはペテロが「イエスさまをいさめ始めた」と書いてあり、33節のイエスさまが「ペテロを叱って言われた」と書いてあります。この「いさめる」と「叱る」と訳されたギリシャ語の言葉は先ほど少し説明したように元々同じ言葉です。同じ言葉が使われたのはペテロとイエスさまとの対立を際立たせるためだったのではないかと思います。またイエスさまに対する人間の高慢を表す場面でもあります。「いさめる」、「叱る」と訳された言葉は「行為者の優位性や権威を前提とする言葉」です。すでにペテロはイエスさまの上に立っています。

 神さまのことを思わず、人間のことばかりを思っているペテロに対してイエスさまは叱りました。イエスさまは今日の福音書を通してわたしたちに対しても叱っておられます。「人間的な知恵から万物が判断されてはならず、常に神さまの思いが中心にならなければならない」と。わたしたちは常に神さまのみ旨であると信じ込んで物事を決めたり、行動をしたり、話をします。これは日常生活を始め教会における活動の中でも行われることでもあります。しかし神さまのみ旨にかなうことではなく、結果として自分の思いを実現するためだったと気づかされる場合があります。またイエスさまのためだと思ったことが、教会のためだと思ったことが、聖職者のためだと思ったことが、サタンのためになる場合があります。神さまの事を思わないで、人のことを思う場合このようなことが起こりうるのではないかと思います。

 ペテロは人間の事ばかり思っている自分に気づかされるまで長い時間がかかりました。倒れました。泣きました。後悔しました。イエスさまの愛弟子であり立派な使徒さえも気づかされるまで大変な時間と努力と聖霊の導きが必要でした。わたしたちにも出来るでしょうか。これから一緒に祈りましょう。わたしたちの日常生活において、教会生活においてわたしたちの営みが自分の思いの実現のためではなく、神さまのみ旨にかなうものとなりますように。また自分の思いか、神さまのみ旨か分からないときにはそれが判断できるように識別の力と恵みをあたえてくださいますように、と。これからこの祈りがわたしたちの祈りのテーマになっていくことを願うばかりです。

(牧師補 卓 志雄)


2009年3月1日(日)(大斎節第1主日 B年) くもり
「 『いのち』と『死』 」

――今日の聖句――
<イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」>[ヨハネによる福音書 3:5]
<はっきり言っておく。『わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、 死から命へと移っている。』>[ヨハネによる福音書 5:24]
<『罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。>[ローマの信徒への手紙 6:23]

 大斎節は、わたしたちにとって最も基本的な問い、つまり、わたしたちの「いのち」と「死」について、思い巡らす時でもあります。

 「いのち」と「死」いう視点からイエスの生涯を見る時、イエスは、3つの「いのち」を過ぎていかれました。第一は、クリスマスにおける「人間イエスの誕生」、第二は、洗礼における「救い主、イエス・キリストの誕生」、そして、第三は、十字架の死と復活における「永遠の命」に甦られたことです。

 このようなイエスの生涯から、一言で「いのち」と言っても、その内容には3つの側面があることが分かります。

 第一の側面は、「生物的な命」です。この「いのち」をギリシャ人はビオスと呼びました。「自己のために生きる命」と言うこともできます。この「いのち」にとって基本的なことは、一つの「いのち」は、他の「いのち」の犠牲の上に成り立っていることと、この「いのち」が地球上の他のすべての生物の「いのち」と繋がっていることです。ここに、この「いのち」の重さ、尊厳の源があります。

 第二の側面は、「人格的な命」です。これをギリシャ人は、ゾーエーと呼びました。「人を人たらしめている命」です。「いのち」ビオスが「自己のために生きる命」とすれば、「いのち」ゾーエーは「他者のために生きる命」と言うことができます。イエスの『人はパンだけで生きるものではない。』という言葉は、この「いのち」のために、ビオスを犠牲にしなければならない場合があるということを意味しています。

 そして、第三の側面は、イエスが十字架の死と復活によって得られた「永遠の命」です。

 今日の聖句によれば、「イエスの言葉を聞き取ることと、イエス遣わされた方が今も働いておられることを信じること」によって、「永遠の命」に与かることができるのです。   ただ、留意すべきことは、『永遠の命』与かれるかどうかは、もっぱら、一方的な神からの恵みによるということです。わたしたちは、ただひたすら、イエスの約束を信じて、イエスの言葉に耳を傾けることです。それは、不安な営みかもしれません。しかし、この宇宙の中で、ただ神の恵みによって奇跡的に一粒の「いのち」を与えられた者にふさわしい、謙虚にして誠実な生き方ではないでしょうか。

 自己のために生きる「いのち」ビオスから解放されて、他者のために生きる「いのち」ゾーエーに生きようとする時、「永遠に命」の地平が開かれるのです。

 わたしたち「いのち」が、一方で宇宙の大きな「いのち」に繋がっており、もう一方で、「永遠の命」に繋がっていることを思うとき、わたしたちの「いのち」が今ここにあることの不思議さに、ただただ驚くしかありません。今、地球上には、多くの争いがあり、環境破壊が進んでいます。どうか、すべての人が、地球を大切にし、すべての「いのち」を大切にし、幸せに生きられるように祈りたいと思います。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Apr/07/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会