今週のメッセージ――主日の説教から


2009年5月31日(日)(聖霊降臨日 B年)
「 聖霊は教会を導いていく原動力 」

 誰でも自分が歩んできた過去を振り返ってみると、今日の自分を成り立たせているいくつかの結び目に気がつくと思います。「私」という人間が「今ここ」に至るまで明らかに影響を与えてくれた事件があるはずです。このような事件が私たち一人一人の結び目であると思います。このような結び目は個人の歩みのみに存在するのではなく、神様を信じる教会共同体にも存在していると思います。イスラエルという所から生まれたキリスト教がイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、聖霊の働きによって始められた日が今日の「聖霊降臨日」です。

 今日使徒たちが聖霊を受けることによってイエス・キリストがはじめられた救いのみ業がついにイスラエルを超えて世界に広がるきっかけとなりました。聖霊降臨日を起点として肌の色や言語の違いなど関係なく諸々の民族が、イエス・キリストを中心として一つとなり教会が生まれることになりました。したがって聖霊降臨日はキリスト教教会の創立記念日であると言えます。

 今日の福音書ではイエス様が弟子たちに言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」イエス様の死を目撃した弟子たちは非常に恐れており、イエス様の昇天を目の前にして何をどうすればいいか分からなくなりました。その時、聖霊が降ってきて聖霊を受けた弟子たちはユダヤ人による迫害や脅かしに対しても屈することなく堂々と神様のみ言葉を宣べ伝えはじめました。イエス様が十字架に付けられ死なれた時、逃げまくった弱虫たちは聖霊を体験してからは180度変わりまして、イエス様を救い主だと告白し宣べ伝えました。しかも殉教までも怖がらない人となりました。「聖霊降臨」によってすべてが可能となりました。このように聖霊は私たちの教会を生まれさせ、今まで教会を導いて下さいました。しかも日本のキリスト教を、日本聖公会を導いて下さいました。また150年前にこの地に福音を宣べ伝えるようにしてくださったことも聖霊の導きです。

 今日の聖霊降臨日は他の祝日よりみ恵みがあふれる日であります。私たちが戸惑うとき、限界を感じ、耐えられないとき、知恵の聖霊にすべてをゆだね「自分」の人生の歩みを導いて下さるようにお祈りください。教会の原動力である聖霊は私たち一人ひとりを見守ってくださると信じます。

(牧師補 卓 志雄)


2009年5月24日(日)(復活節第7主日 B年)
「 愛のうちに一致する 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 17:11c−19]

 本日の福音書では、イエス・キリストの祈りが記されています。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11c)この祈りは、イエス・キリストが兵士たちに逮捕される直前に、後に残される弟子たちのために神に祈った祈りです。イエスは、弟子たちが一致するために、弟 子たちを守ってくださいと、神に祈ります。イエスが逮捕され、十字架につけられるという事態にあって、残された弟子たちもそのことで様々な試練や困難を受 けることになります。その弟子たちのために、イエスは、一致を願う心をもって神に祈ります。

 お互いに一致するということは、神の愛に生きる者にとって、最もふさわしい姿です。一致のうちに、お互いに愛し合う姿、お互いに仕え合う姿があらわれて います。イエス・キリストの、一致を願う心は、私たち一人一人に、また私たちの教会に、そしてこの世界に向けられています。

 愛が実現され、愛に満ちあふれる私たちの「一致」のために、イエス・キリストはその一致を願う心をもって父なる神に祈って下さいます。しかしまた、私た ち自身こそ一致を願う心をもって父なる神に祈らなければなりません。お互いに愛し合い、お互いに仕え合わなければ生きていくことのできない弱い私たちに、 一致することのできる力を、父なる神に願う心が求められています。

(司祭 高橋 顕)


2009年5月17日(日)(復活節第6主日 B年) くもり
「 頭から心に降りてくる愛 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 15:9−17]

 今日の福音書において愛と訳されている言葉は全部「アガペー」というギリシャ語を用いました。これは無条件的に相手を大切にすること、人々を平等に大切にすることです。神が私達を大切にしてくださったことです。見返りを求めないで大切にすることです。献身的な大切にすることを言います。すなわち、イエス様が語っておられる愛というのは、「アガペー」です。自己中心的な欲望や執着から生まれた愛ではなく、無条件的で、見返りを求めない、献身的な愛を言います。それはイエス様が私たちに示された愛です。イエス様は私たち人間のために、私たちの人間の救いのためにご自身をいけにえとしてささげて亡くなられました。イエス様の苦しみと死がアガペー的愛の決定的な出来事です。

 今日の福音書でイエス様は「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と語っておられます。イエス様は何の値打もない私たちを愛して下さって、その恵みによって私たちは毎日生かされています。イエス様が私たちを愛してくださったように自分が好きな人、自分が選んだ人、自分を愛してくれる人、だけではなく、自分が嫌いな人、自分が苦手な人、苦しめられている人、社会において小さくされた人をも大切に思いなさいというみ言葉です。しかもそれは命令です。掟です。選択の余地がありません。人間には対象を選択して分別する余地がありません。守らなければならないことです。しかし私たちは弱い人間なのでその実践は中々難しいです。

 去る2月韓国にはある方が亡くなられました。日本のローマ・カトリックの土井辰雄枢機卿の次にアジアの2番目の枢機卿となられたキム・スホァン枢機卿です。キム枢機卿のお葬式に直接出席した人は40万人でお葬式のミサはすべてのテレビ放送局が生中継をしました。それほど韓国の社会においてもっとも尊敬されたキリスト教の聖職者でした。彼は次のような言葉を残しました。

 「頭と口で愛をする人は香りがない。本当の愛というのは、理解すること、寛大でよく人を赦し受け入れること、相手をひろく受け入れること、いつも相手の立場にたつこと、自分を低くすることから始まります。私は愛が頭から心に降りてくるまで70年かかりました。」

 聖人のような枢機卿さえも理屈的な頭からの愛が心に降りてくるまで70年かかったと告白します。私たちは何年かかると思いますか。一生出来ないかもしれません。しかしイエス様の愛について知らないで実践しないことと、イエス様の愛について学んで実践しようとする試み、なかなか愛を実践しようとしてもできなくてでも、あきらめずに努力することとは違うと思います。今日私たちはイエス様の掟を守ることは互いに愛し合うことだと学びましたので、イエス様から与えられた掟が何であったかを忘れないで常に思い出して実践しようと努力が大切だと思います。しかしその実践は人間の力だけだは限界を感じると思います。その時は神様にすべてを委ねて、祈りと礼拝をささげることを通して神様とのつながる営みを通して、またそれによって私たちそれぞれが養われて愛の実践ができる毎日となりますように願っております。

(牧師補 卓 志雄)


2009年5月10日(日)(復活節第5主日 B年) 晴れ
「 わたしたちの弁護者 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 14:15−21]

 今日の福音書の16節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と書いてあります。聖霊のもう一つの名前が「弁護者」すなわち、「協力者」です。福音書に書いてある「弁護者」の本来の意味は、「…ために語る者」です。「弁護者」というと比較的に近い意味になると思います。したがって聖霊は神様に私たちのために語ってくださる方、すなわち神様のみ前で私たちの弁護者となります。その聖霊は永遠に私たちと共におられると15節から17節まで記されています。聖霊を約束されたイエス様ご自身は去っていくがそれは永遠に別れることではないことを語っておられます。たとえイエス様の体は去って行くけれど弟子たちの中に生きておられるし、それは神様が弟子たちの中にとどまることであると語っておられます。この話は理解し難いかもしれませんが、その答えのカギとなるのが21節に記されています。

 「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 イエス様のおきてを受け入れ守る人がイエス様を愛する人であり、その愛は神様に向かいますので愛を通して一つになれるということを明らかにされています。一人子であるイエス様を送ってくださった神様は、すでに私たちに対して愛を示して下さいました。したがって私たちもこの世において神様の愛を神様に、また隣人に実践するのであれば、結局私たちは愛の実践によって神様に向かい神様と共にいることが可能となります。その時私たちをよく知っている聖霊が私たちの働きを協力(弁護)してくださいます。今日の福音書は神様からいただいた愛を実践することによって、また愛に基づいておきてを守ることによって私たちは神様と共にいることができるのであると。またその時イエス様を通して、今の世においては聖霊の協力と弁護によって可能となるのであると、語っています。

 昔イスラエルの法廷では被告人に対する宣告が行われるとき、権威ある人が被告人のそばに立つ習慣がありました。彼らを今日の福音書に登場する「弁護者」と同じ言葉で呼びました。権威ある弁護者がそばにいるだけでも、無言の証言だけでも判決が影響され被告人に有利な判決が下されたと伝えられています。被告人にとって弁護者という存在は大きな慰めであり、協力者であり、恩人です。しかし弁護者はただ協力だけをする協力者ではありませんでした。見捨てられ死にそうになった人の命を助けて下さる「協力者」でした。自分自身の全てをかけて愛して下さる協力者です。今も私たちには弁護者、協力者がおられます。イエス様が約束してくださった聖霊です。その方が私たちの上におられ常に慰め、力、勇気、希望、愛を与えてくださることを固く信じます。

(牧師補 卓 志雄)


2009年5月3日(日)(復活節第4主日 B年) 晴れ
「 信徒を一つにする共食 」

――今日の聖句――
(1)<信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。>[使徒言行録 4:32−33]
(2)<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。>[使徒言行録 2:44−47]

 今日の聖句は、生まれたばかりの教会、それが、どのような姿であったのかを記録した極めて貴重な資料です。信徒たちは、共同生活をしていました。しかし、すべての信徒が共同生活をしていたわけではなく、多分、それはガリラヤからイエスに従って来た使徒たちと婦人たちなど、教団の中心をなすグループではなかったかと考えられています。彼らがどのような生活をしていたか。今日の聖句は、@祈ること、A宣教すること、B一緒に食事をすること(共食)、そしてC信徒皆が心を一つにすることの4つを特筆しています。今日は、「心を一つにすること」に注目してみたいと思います。

 イエスが十字架上に殺された後、彼らは、師を失った失意と恐怖心から、エルサレムから故郷ガリラヤに逃げ帰ったのではなかったでしょうか。しかし、間もなく彼らは、エルサレムに戻って来ていました。しかし、そのときの彼らには、十字架直後の失意と恐怖心は消え、彼らは活き活きとし、彼らの心にはイエスの言葉がはっきりと甦り、イエスの約束が今にも実現されるという希望に溢れていました。

 彼らは、イエスの約束を信じる、その一点において、仲間であり、家族になっていたの です。そして、更に、彼らを具体的に一つにしていたのは、「一緒に食事をすること」(共食)でした。今日の聖句(2)に、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」とあるのは、わたしたちが今行なっている「聖餐式」のことです。

 聖餐式が、現在のように儀式化したのは、紀元4世紀、キリスト教がローマ帝国の国教になり、皇帝を初めとして、大勢の人々が礼拝に参加するようになってからだと言われています。それまでは、信徒たちは、主日ごとに信徒の誰かの家に集まりました。彼らが、そこで行なっていたことは、(1)直面する諸問題について討議すること、(2)祈ること、(3)一緒に食事をすることだったでしょう。討議が一段落したところで一緒に食事をすることになります。しかし、これはただの食事ではありませんでした。信徒にとって、この食事に参加することが、信徒である証しであり、いわば、この食事は信徒たちの「固めの杯」でもあったのです。 この背景には二つのことがあったと考えられています。一つは「主イエスの最後の晩餐」であり、もう一つは、「ユダヤ社会の食事の習慣」です。ユダヤ人は、安息日には、親しい友人を招いて食事をしました。そこには、家族と心の許せる友人しか呼ばれませんでした。そこで、主人は、パンを裂いて皆に配り、またぶどう酒を回し飲みしました。これが聖餐式の原型になったとも言われています。

 この共食が聖餐式として儀式化して長い年月が経ちました。現代のわたしたちは、信徒であるから聖餐に与かる資格があるというように考えてはいないでしょうか。しかし、初代教会の共食を思うとき、それは逆で、わたしたちは、この聖餐に与かることによって信徒になる、仲間になる、神の家族になるという側面を、今一度思い返す必要があるのではないかと思います。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Dec/16/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会