今週のメッセージ――主日の説教から


2009年11月29日(日)(降臨節第1主日 C年) くもり
「 降臨節を迎える心得 」

――今日の聖句――[ルカによる福音書 21:25−31]

 今日から教会暦では降臨節に入ります。教会によって「待臨節」、「待降節」と言いますが、聖公会では降臨節という言葉を使います。その意味について説明いたします。「降」というのは「くだること」、「おりること」を意味します。また「臨」というのは「高いところから見下ろすこと」、すなわち「身分の高い者が低い者のところへ出向くこと」を意味します。

 降臨というのは、キリスト教ではない異教の世界で生まれた用語で、神自身が年一回神殿に下ってきて神を信じている人々の前にあらわれることを意味していました。また昔ヨーロッパの王様たちも王の即位、赴任、公式訪問の時この単語を使ったそうです。教会においても早くからイエス・キリストが人間の間に現れたことを表現するためこの用語を使ってきました。「待臨節」、「待降節」、「降臨節」はラテン語「Adventus」の翻訳でキリストの誕生と世界の終末に来るキリストの来臨を待つ、また待つ時期であることを意味しています。わたしたちの救い主であるイエス・キリストが来られること、公的に現れることを意味しています。

 このように降臨は、キリストの誕生と世の終末に来臨することを意味していますので、古くからキリスト教はこの時期には「喜びの中で目を覚まして待つこと」、「希望」、「悔い改め」を強調してきました。今日の福音書はローマ帝国とユダヤ教によって迫害されていた初代教会のクリスチャンたちに「イエス・キリストが再臨する時まで、希望を失わないで喜びの中で目を覚まして待つこと」を強調しています。キリストの誕生と世界の終末に来るキリストの来臨をどのように待ち望めばいいかを思い巡らす降臨節を過ごしたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年11月22日(日)(聖霊降臨後第25主日 B年) くもり
「 真理の王 」

――今日の聖句――[ヨハネによる福音書 18:31−37]

 本日の主日は、教会の一年をめぐる教会暦で最後の主日であり、「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復」という主日の名がつけられています。今日のこの 主日に、私たちは収穫感謝礼拝をお捧げいたします。神様によって、これまでに多くの様々なお恵みを与えられ、今もまさに神様のお恵みに生かされている、と いうことを感謝して、収穫感謝礼拝をお捧げいたします。

 今日の主日はまた、神様との本来の関係に私達を回復して下さった「王であるイエス・キリスト」をおぼえる主日でもあります。聖書を読む時、私たちは王としてのイエス・キリストを知ります。王としてイエスは誕生され、王としてイエスはエルサレムの人々に迎えられ、王としてイエスは十字架の上で死にました。本 日の福音書では、総督ピラトがユダヤ人たちに求められ、捕えられたイエスに尋問する出来事が記されています。それはイエスが「ユダヤ人の王」であると自称 している証拠を確認するためでした。もしイエスが「ユダヤ人の王である」と自ら言うのであれば、反逆罪ですぐに処刑することができました。イエスをピラト のもとへ送った人々は、まさにその処刑を願っていたのでした。しかしイエスは、この世で人と国を支配する権力者としての王ではなく自分は「真理について証 しをする」王であることを明言します。真理とは、すべての人に「確かさ」を与えるものです。イエスは、この世が与え得ない「確かさ」を私たちに与えて下さる真の王なのです。

 私たちは、「真理について証しをする」「確かさを与えて下さる」この真の王によって、本来のあるべき姿に回復され、そこに生かされていくのです。私たち は、「王であるイエス・キリスト」への感謝をもってこの一年をしめくくり、来主日から始まる教会暦の新しい年の始めに、「王であるイエス・キリスト」のご 降誕を、清い心でお迎えすることが、求められています。

(司祭 高橋 顕)


2009年11月15日(日)(聖霊降臨後第24主日 B年) 晴れ
「 遺言を実践するわたしたち 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 13:14−23]

 今日の福音書の箇所も終末に関する恐ろしい内容であります。さらに理解しにくい箇所でもあります。今日の旧約聖書および福音書の箇所は黙示文学とも言われるところです。そもそも黙示文学は紀元前2世紀から1世紀の間にイスラエルで流行っていました。この時代は先ほど申し上げましたようにイスラエル民族がシリア政権の迫害とローマ帝国の支配よって苦しめられた時期でした。現実の中では何の希望も持ってなかった人びとに、宗教的希望を与えるために黙示文学者たちは次のような歴史観を考えました。この世は一つではなく、「この世」と「来る世」であると。すなわち「歴史」と「終末」として分けて考えました。人類の祖先であるアダムが罪を犯してから、サタンとあらゆる悪魔がこの世を支配しているため、この世には罪と悪が満ちている。それゆえに歴史はますます終末に向かっていく。終末が近づくと罪悪はきわめて蔓延するということです。そのつらい時代は終わり裁きの後、神様の正義の世界が来る、という希望が語られています。それに影響を受けた今日の本文にも詳しく内容が記されています。

 マルコによる福音書が書かれた時期の初代教会もその黙示文学の影響を受けイエス来臨の信仰を持っていました。なぜかというと、マルコによる福音書が書かれたA.D.70年頃に、ローマ軍はエルサレムでのユダヤ人反乱を鎮圧し、ローマ軍は城壁を破壊し神殿は崩壊しました。ユダヤ人の独立戦争は敗北に終わりました。その敗北によって1948年イスラエルの建国までユダヤ人は国を持たない民族として苦難の日々を過ごすことになりました。当時初代教会のユダヤ人キリスト者はイエス様が速やかに来臨し救ってくださることを望んでいました。マルコにはこの思いが強く働いたに違いないと思います。結局、マルコは、終末に気をとられて、今がおろそかにされてはならないことを述べています。わたしたちはいつ神様に召されるか、「その時」がいつ訪れてくるかを知ることはできません。わたしたちは「その時」を知らないまま生きていますが、おそらく「その時」を知らないまま生きて行くことが正解かもしれません。ただし「その時」がいつになるかは知らないが、「その時」のために準備しながら生きて行くことはできます。そのためわたしたちに与えられる毎日が「その時」を準備する時間であると思います。

 クリスチャンというのは、「その時」を準備する人です。神様がわたしたちに与えてくださる「その時」のため毎日を忠実に生きて行くことは大切であると思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年11月8日(日)(聖霊降臨後第23主日 B年) 晴れ
「 悲しむ人々は神によって慰められる 」

――今日の聖句――[マタイによる福音書 5:1−12]

 逝去者記念礼拝をささげているわたしたちに今日与えられている福音書の箇所は先ほど読ませていただいたマタイによる福音書の5章いわゆる山上の説教の中の「幸せの宣言」の部分です。

 5章4節には「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と記されています。「悲しむ人々は幸いである?」決してそうではない場合が多いでしょう。悲しみ、また悲しみから来る苦しみを好む人はあまりいないでしょう。また悲しみと苦しみを幸せだと思う人もあまりいないでしょう。悲しみと苦しみによって人生が破壊され自ら死を選ぶ人もいます。また悲しみと苦しみに耐えられなく神様を疑い信仰を捨てる人もいます。今日ここに集まっているわたしたちも悲しんでいます。この1年間に愛する家族、友だち、信仰の仲間を主のみもとに見送ったからです。主のみもとに召された一人ひとりを思い出してみます。彼らが主のみもとで安らかに憩われていることを信じてわたしたちは喜んでいますが、考えてみると悲しいのが当たり前です。天国で彼らと再会するまで会えない別れをしたからです。すぐそばに彼らがいないからです。このようなわたしたちにイエス様は言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

 この箇所を始めイエス様のみ言葉を集めたマタイが活動していた当時は、ローマ帝国によってエルサレムが破壊されキリスト教を信じることも許されませんでした。今わたしたちは信教の自由があり洗礼・堅信を受けイエス様を自分の救い主として迎え入れることはそんなに難しいことではないかもしれません。しかし当時はイエス様を信じることというのは、命をかけることでした。死を覚悟することでした。信仰を守るためローマ帝国によって迫害を受け殉教した人が多くいました。仲間たちが信仰のため迫害され殉教される場面を目撃したマタイは、親しい知人の死に悲しみながら周りの信仰の仲間のためにイエス様から聞いた言葉を書き記します。それが「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」です。新約聖書は元々ギリシャ語で書いてあるため日本語に訳すると本来の意味が伝わらない場合があります。そのため正しく日本語で翻訳したいですが、まずここで書いてある「悲しみ」は喪失の悲しみ、すなわち死別など大切な者が失われ泣いている時使う言葉です。次に「慰められる」という動詞はギリシャ語の独特な表現で、ここで使われている場合主語は「神様」になります。行為者が神様であることを隠す動詞です。すなわち「神様によって慰められる」という意味が正しい表現です。また「慰められる」という動詞は、ギリシャ語の語源から分析すると「わき・そば」と「呼ぶ・声をかける」という二つの言葉が合わさってできた言葉です。すなわち「そばで声をかける」という意味です。したがって5章4節を正しく日本語で翻訳すると「幸いだ、大切な人を失われ悲しみながら泣いている人たちは、神様が彼らのそばに立って声をかけるでしょう」になります。

 苦しんでいる人々の、悲しんでいる人々の近くに神様はおられ「あなたは慰められます。あなたは今の悲しみを乗り越えられる力が得られます。あなたは新たなる道を歩んでいく勇気が与えられます。あなたは新たに息をして新たなる人生を見つけることができます。」と声をかけておられます。また苦しんでいる人々の、悲しんでいる人々の涙をぬぐいとって、力がない時肩を貸してくださる心強い友だちでもあります。悲しんでいるわたしたちは、神様がそばでかけてくださる声に耳を傾けましょう。真心からささげる礼拝と祈りをもって耳を傾けると、神様の声はわたしたちに届けられると思います。その神様の声はわたしたちに慰めを与えてくださると信じます。また悲しみは喜びに変えられ人生における大きな力になっていくと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年11月1日(日)(聖霊降臨後第22主日 B年) 晴れ
「 伝道 」

――今日の聖句――
<その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「・・・行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」>[ルカによる福音書 10:1、3]

 今日は、バザーに目を奪われがちですが、忘れてならないのは、今日は、この練馬聖ガブリエル教会の創立記念日でもあるということです。この教会は、1935年11月3日に創立され、今日は74年目に当たります。教会は何のために存在するか、一言で言えば、「伝道」のためです。これはイエス・キリストの命令だからです。今日は、この教会の原点を改めて心に刻む日であります。

 今日の聖句冒頭このように書かれています。「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」

 「七十二人」は、世界のすべての国への伝道を表していると考えられています。ルカは、全世界への伝道がここに始まった、と言おうとしているのです。この最初の小さな一歩が次第に広がり、約2000年の歳月を経て、この練馬に地にまで伝えられたのです。

 続けて、「ご自分が行くつもりのすべての町や村に遣わされた」とあります。イエスに遣わされた弟子たちのことを、「使徒」と呼びます。イエスが特別に選ばれたペテロやヨハネなど「十二使徒」だけが「使徒」であると教えられてきました。しかし、少し見方を広げれば、弟子たちはすべて使徒であり、今、ここにいるわたしたちも、「使徒」と言ってもおかしくないように思います。

 練馬聖ガブリエル教会は、4年前、創立70周年の時に、「これからの教会のビジョン」を作成しましたが、「伝道」について、このように書かれています。

開かれた教会

『教会の扉は、いつも開かれていなければなりません。教会の周りには第二の輪、第三の輪があって社会に溶け込んでいるのです。だれでも教会に自由に出入りし、そして、だれひとり不必要な者はなく、一人ひとり、その人にふさわしい役割を担います。』

このビジョンに、三つの重要な要素があります。
 (1)地域社会に開かれた教会。
 (2)第二の輪(わたしたちの直ぐ周りにあるグループや人々)を大切に。
 (3)背中でする伝道(「背中の伝道」)。

 三番目の「背中の伝道」は分かり難いですが、朝日新聞の夕刊に『おやじの背中』というコラムがあります。著名人が、親父の言葉からよりも、「親父の背中」、つまり「親父の生き方」からいかに多くのことを学んだかといいう経験を書いています。丁度それと同じように、わたしたちは、自分の周りにいる人々に、そう声高に叫ばないけれども、自分の生き方を通して、イエス・キリストの愛を伝えて行こうではないかということです。

 「背中の伝道」とは、いかにも後ろ向きの伝道のように聞こえますが、そんなに安易な道ではないはずです。私には、むしろ、最も厳しい道であるように思えてなりません。そこでは、日々、自分のありのままの姿が見られ、自分の生き方が問われているわけですから、一時的な取り繕いやパーフォーマンスでは済まないからです。今日のバザーが神様に祝福されたものになりますように、お互いに頑張りたいと思います。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Dec/16/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会