今週のメッセージ――主日の説教から


2009年10月25日(日)(聖霊降臨後第21主日 B年) くもり
「 道の意味 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 10:46−52]

 日本語の道(みち)という言葉は、「御地又(みちまた)」の省略形からできました。地又(ちまた)は道が2つに分かれていくY字路のことで、その分かれ 目の所に道の神様が宿っていて、道を行く人の運命を掌っている、と考えられていました。その神聖な地又に御(み)が付き、御地又(みちまた)となり、そし て省略形の「みち」という言葉ができました。ですから、みち(道)は本来、神聖な所と考えられてきました。一方、英語では道のことをWAY(ウェイ)とい います。この「ウェイ」の[ウェ]という意味は、「重さ」を表す言葉です。[ウェ]が使われている他の言葉があります。WAGON(ウァゴン¬=荷車)は 重たい荷物を運ぶ車であり、WEIGHT(ウェイトゥ=重量)は文字通り重さの意味です。ですから英語のWAY(ウェイ)は、重たいものや重みのある責任 を担って進む、大切な所、という意味です。日本語でも英語でも、道は、とても重要な所という意味を含みます。それは世界中の言葉でも同じです。神聖な所で あり、とても重要な所です。そして人はそこを進みます。

 今日の福音書では、道端に座っているバルティマイという盲人の物乞いが、イエスに癒されて見えるようになり、イエスの進んで行く道を共に歩み始めた、と いうことが記されています。バルティマイにとっては、皆から疎外され、追い詰められた場所としてあった道が、イエスと出会って、自分が喜びをもって進んで 行くべき唯一の場所へと変えられていきます。イエスは、すべての人に、生きていくべき道の真の意味を与えます。それは神と共に生きていくという、希望と喜 びです。道のこの真の意味を全うするために、イエスは自らの命をすべての人のためにささげるという、十字架への道を進まれたのです。

(司祭 高橋 顕)


2009年10月18日(日)(聖霊降臨後第20主日 B年) 晴れ
「 遺言を実践するわたしたち 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 10:35−45]

 マルコによる福音書では「イエスさまの死と復活」に関する予告が3回記されています。イエスさまは「人の子は、人々の手に引き渡され多くの苦しみをうけ、殺される。殺されて3日ののちに復活する」という内容を予告しています。そのたびイエス様を用いた神様のご計画に反旗を掲げる者は愛弟子ペテロを始めヤコブ、ヨハネなどの弟子たちです。その弟子たちに対して3回ともイエス様が残した言葉、すなわちご自分の受難と死の前に残した遺言は、

  1. 「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
  2. 「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」
  3. 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
です。

 これを要約すると、「イエス様に従いたい者は、自分を捨てて、皆に仕える者、僕になりなさい」ではないかと思います。これを聞いたわたしたちは「クリスチャンとして当たり前だろう。そうしなければならない」と今は熱く決心をするかもしれませんが、聞いただけでは、理屈的に考えるだけではイエス様の言われたことを実践することの完結ではないからだと思います。イエス様は3回の予告の後、全部命令形で言われました。「わたしに従いなさい」、「すべての人に仕える者になりなさい」、「すべての人の僕になりなさい」と。イエス様の命令に従って実践することが最も大切だと思います。わたしたちはイエス様の福音を毎週聞き従おうとしています。すでに教会の中および外で実践していると思います。

 特に教会の今年のテーマは『イエスの心を生きる − 神さまへの感謝を見える形に』。イエス様の命令を極めるためにサブタイトルの一番目は、「教会の交わりや奉仕の業に進んで参加しよう」と信徒総会で決めました。本当に練馬聖ガブリエル教会の皆さんは熱心にすべての人の僕となり、仕えるものとなってイエス様に従っていることと存じます。礼拝において直接的にサーバ―、アッシャー、聖書朗読、オーガニスト、オルターギルド、花壇の手入れ、愛餐会の料理作り、片づけ、皿洗い、掃除、献金、体の不自由な方の送り迎え、一番大切なお祈りを持って教会を支えてくださると思います。また誰からも見えないところで黙々ご奉仕くださる方がたくさんおられことは非常にありがたいことです。今までなさったとおり熱心にすべての人の僕となり、仕えるものとなってイエス様に従っていただければと思います。いつも感謝です。また11月1日は教会バザーです。ご存知の通りバザーはお金稼ぎではありません。近隣の方が教会に足を運んでもらうことです。教会の宣教活動に必要な物質的な力をいただくことです。教会の交わりを深めることです。また収益の一部を錦華学院、エリザベス・サンダーズ・ホーム、ボーイスカウト練馬第5団教会にささげ、教会ができない教会外における宣教活動を支援することです。これらのことを再認識していただき2週間後開かれるバザーに最善を尽くして迎えたいと思います。もう少し頑張りましょう。

 最後に教会の奉仕の業に参加することではありません。それはボランティアでもありません。時間が余るからやってあげるのではありません。神様の宣教のために建てられたわたしたちの教会をわたしたちの手で支えることであり、神様から任されたことをさせていただくことです。信徒としての義務を果たすことです。これらのことを忘れないで様々な教会活動におけるわたしたちの姿を再認識していきたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年10月11日(日)(聖霊降臨後第19主日 B年) 晴れ
「 イエスが愛した男 」

――今日の聖句――
<イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を 敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。>[マルコによる福音書 10:17−22]

 今日の聖句の物語は、「富める男の物語」としてよく知られています。しかし、この物語は必ずしも分かりやすい物語ではありません。どちらかといえば気を滅入らせる物語です。多分、それは、「お金」と「永遠の命」つまり「救い」とが深く、直接的に結びつけられてからではないでしょうか。わたしたちは、お金というものについて微妙な感覚を持っています。

 「お金」と「救い」の結びつきを理解するためには、イエスが生きられた時代の社会状況を知っておく必要があります。当時、イスラエルにおいて人々の心を支配していたのは、ユダヤ教です。ユダヤ教は、人々が救われるためには、十戒を中心とする律法を徹底して守らなければならないと教えました。一方、イスラエルはローマ帝国の植民地で、国民の大部分は極貧の中にあり、律法を守りたくても守れない状況が続いていました。そして、一握りの支配者階層の人々だけが富を独占し、彼らは熱心に律法を守ろうとしましたが、彼らは律法を守れない人々を、憐れむどころか、罪人として差別し蔑むようになっていました。イエスが、生きられたのは、このような国民の大多数の人々が人間らしく生きられない社会でした。

 イエスは、このような社会、ことに支配者階層に鋭い批判を向けられると共に、その中で、貧しさのために律法を守れない人々に深い共感を覚えられたのです。イエスが、「お金」と「救い」を結びつけられた背景には、このような社会状況があったことを理解しておかねばなりません。現代に生きるわたしたちとしては、イエスに従うことに、何が妨げになっているのかということに注目しなければなりません。

 この男は、財産を売ることができず、イエスから去っていきました。イエスの従うことに失敗したのです。それでは、この男に救いは絶たれたのでしょうか。そうではないと思います。それは、イエスが、この男に「あなたに欠けたものが一つある」と言われたとき、マルコは、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いていることです。「慈しんで」と訳された言葉の原語は、「愛する」という言葉です。財産を捨てきれず、イエスに従え損ねたこの男のどこに取り得があったのでしょうか。決してそうではありません。この男に何かの取り得があったのではなく、この男は、偶々、わたしたち同様、何一つ捨てられない、イエスに従い損ねかねない人間の代表として、イエスの愛を受けたのです。

 わたしたちも、できればすべてを捨てて、イエスの愛の中に飛び込んで行きたいと思います。しかし、そうさせない何かをそれぞれが持っています。イエスがわたしたちを愛してくださっているのですから、そのお返しに、せめて何か一つでの捨てたいと思いますが、それすらもできないわたしたちなのです。それでもイエスは、わたしたちを愛してくださっているのです。このことが分からないと、この物語を読み損なうことになります。

(協力司祭 広沢敏明)


2009年10月4日(日)(聖霊降臨後第18主日 B年) 晴れ
「 頑固な心それは… 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 10:2−9]

 今日の福音書は離縁状に関して話されているのですが、実は人間関係における様々な問題は、人の心の中にある頑固さから始まるのではないかということを指摘しているのではないでしょうか。わたしたちは生きていながら辛さ、苦しみ、痛み、絶望を経験します。それらは様々な理由によるものですが、他人との人間関係から来る場合が多いです。家庭の中で、社会生活の中で、学校生活の中で、教会生活の中で、教会においては、信徒と信徒の間、信徒と聖職の間、聖職と聖職の間の人間関係で大変な時があると思います。その問題が起こる理由は何でしょうか。わたしは今日イエス様が指摘された「頑固さ」から探ってみたいと思います。

 わたしたちもそれぞれの頑固な心で人間関係の亀裂や断絶をもたらしているのではないかと思います。人間関係が悪くなりそうな時、既に悪くなった時、自分には悪い部分がないと判断するのがわたしたち人間です。「相手が悪い」、「なぜわたしを分かってくれないのか」、「相手の考えと行動が少しでも変わって行けば」と考えがちです。もちろん相手にも原因があるかもしれません。しかしわたしたちは、自分の世界の中ですでにつくり上げた自分の考えの枠を壊さないようにするわたしたちの心の頑固さ、すなわち、自分がつくり上げた意地をはり通すことによって自分が変えられる経験を拒否するのではないかと思います。

 今日の福音書の中に登場した「頑固さ」という言葉は新約聖書に3回登場します。今日の福音書、また今日の福音書と同じ内容が書いてあるマルコによる福音書、またもう一か所それはマルコによる福音書16章14節です。

 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 これはイエス様が復活された後の話です。イエス様が復活した話を聞いて、直接弟子たちの前に現れても弟子たちはイエス様の復活を信じようとしませんでした。イエス様はその原因を不信仰と頑固な心だと警告しています。わたしたちが持っている「心の頑固さ」、すなわち自分の世界の中ですでにつくり上げた自分の考えの枠を壊さないようにするわたしたちの心の頑固さ、自分がつくり上げた意地をはり通すことによって自分が変えられる経験を拒否する心の頑固さについてこの一週間思い巡らしてみたいと思います。またわたしたちの間に宿られていつもわたしたちをつなげてくださるイエス様がそれぞれの心の頑固さをやわらげてくださることを信じて祈りたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


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Last Update Dec/16/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会