今週のメッセージ――主日の説教から


2009年9月27日(日)(聖霊降臨後第17主日 B年) 晴れ
「 「名」と「命」 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 9:38−43、47−48]

 イエスの名を使って悪霊を追い出している者に対して、イエスの弟子のヨハネは、自分達に従わないという理由で、悪霊を追い出しているその者に、その行為を やめさせようとしました。しかしイエスは、「やめさせてはならない」とヨハネに言います。イエスの弟子であるヨハネ達は、「イエスの名」を自分たちだけで 独占しようとしていました。「イエスの名」を弟子である自分たちは使えるが、自分たち以外の者は使ってはならない、と考えていたのです。しかし「イエスの 名」を信じ、イエスの働きに仕えていこうとする者は、皆、同じ仲間なのです。「イエスの名」を信じるとは、それほど大きな意味があるのです。「イエスの 名」とはイエスご自身そのものにほかなりません。

 一方、「イエスの名」を信じる者をつまずかせる者、あるいは「イエスの名」を悪用する者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と、イエスは厳しいいましめを語ります。「命名」という言葉があります。それは生れた人の「命」に「名」をつけることです。また同時にいろいろ考えられて決められた「名」に生れた人の「命」をこ めることです。「名」と「命」は一体です。このように「名」は大切なものとされていますが、「イエスの名」はまさに私たちを真理に導く「命」なのです。

(司祭 高橋 顕)


2009年9月20日(日)(聖霊降臨後第16主日 B年) 晴れ
「 有り得ないことから当たり前のことへ 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 9:30−37]

 わたしたちが考える「仕える」というのは、下の人が上の人に、奴隷が主人に、兵士が上官に、弱い者が強い者に、持ってない人が持っている人に、行うことです。当たり前だと思うかもしれません。しかし今日の福音書でイエス様が勧めることは全く違う秩序です。何の値打もない者を受け入れることは、イエス様を受け入れることであり、神さまを受け入れることであると促しています。ここで「仕える」ことについて考えてみたいと思います。「仕える」という言葉をわたしたちはよく耳にします。イエス様も「仕えられるため」ではなく「仕えるため」この世に来られたと言われました。わたしたちはみ言葉に従い教会の活動を通して、あるいはそれぞれの立場から仕えていると思います。家庭では家族のために、ボランティア活動では隣人のために、教会の活動では教会のため、信者のため、聖職のため仕えていると思います。イエス様から示された愛と謙遜の姿を持って仕える方は多くおられると思います。

 しかし人に仕えたいと思う時、気をつけなければならないのは、わたしたちは仕える対象を自分が勝手に決めることです。可愛そうな人、小さくされた人、あるいはホームレースなど、いわゆる普段のわたしたちが考えがちの人々です。しかし「仕える」というのは、当たり前だと思う対象に仕えることではなく、有り得ない対象に仕えることではないかと思います。「敵を愛しなさい」とイエス様は言われました。わたしたちの敵まで愛しなさいというのがイエス様の命令であるが、愛するところか、毎日敵を作り続けているのがわたしたちです。仕えたくない人、今まで近づくことができなかった人、自分と合わない人、仕えることが有り得ない対象に対して自ら近づき和解の手を差し伸べることから仕えることが始まるのではないかと思います。また人を愛することも同じです。わたしたちはイエス様が示されたように愛を実践していると思う時があります。配偶者を、自分の子どもを、親を、恋人を、親戚を、自分の気に入る人を。しかしイエス様が言われたのは、当たり前だと思う対象を愛すること、自分が決めた相手を愛することではなく、愛するのに有り得ない相手を愛しなさいということです。

 今日の福音書だけではなく、聖書の物語や神様のみ業はほとんど有り得ないことばかりです。神が人間の姿でこの世に来られたこと。また復活されたこと。2000年前ユダヤ教の社会でイエス様が行われたことも有り得ないことばかりでした。子どもを大切にすること。罪人と共に食事をすること。異邦人を癒したこと。安息日に癒しの奇跡を行ったことなど有り得ないことから当たり前だと宣言したのがイエス様の働きでした。また今イエス様は当たり前のことはもちろん、有り得ないと思われることを実践するのがイエス様に従うキリスト者だと宣言をしておられます。今日の福音書を通して、先ほど申し上げた有り得ない対象に「仕える」こと、有り得ない対象を「愛する」ことについてよく考えていただいて今自分にとって有り得ないこと、仕えることにおいて、愛することにおいて有り得ない対象は誰であるか、またそれが当たり前になるためにはどのようにすればいいかについて思い巡らせて行きたいと思います。またそのようなわたしたちの営みの上に主イエス・キリストの豊かな祝福と導き、励ましがありますように祈りたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年9月13日(日)(聖霊降臨後第15主日 B年) 晴れ
「 顧みない自分 」

――今日の聖句――[マルコによる福音書 8:27−38]

 イエス様に従うためには自分を捨てることから始まります。自分を捨てることというのはどのような意味でしょうか。捨てるという表現は、元々「顧みない」という意味です。自分を否定し自分を虐待することや個人的な行為に関連する禁欲主義だけではありません。自分を否定する暗いイメージではなく、実はいつもイエス様と共にという心強い行いです。また「自分だけを顧みない」、すなわち「イエス様を先に顧みる」という意味になります。

 次は「自分の十字架を背負って」です。十字架というのはイエス様が背負ったものであるため、皆さんよくご存じだと思いますが、ローマ兵士は犯罪人に処刑場所まで十字架を背負わせます。それは肉体的な処罰でもありますが、ローマ帝国に服従していますということを強制的にあらわす意味です。すなわち、「自分が反抗していた権威に従い服従します」ということを公式的にあらわすということです。これは「自分を捨て」と関連があります。イエス様に出会う前のわたしたちは、全ての判断基準は自分自身が人間的な信念にありました。何らかの行動をするにも、考える時も、価値観の基準は自分自身か、他の人間的な信念に基づいた絶対的基準だったかもしれません。そのような権威を捨ててイエス様の教え、イエス様の生き様がそれぞれの判断基準となることです。「自分の十字架を背負って」というのはイエス様に従い服従することをあらわすことになります。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエス様の命令に答える初めのことは、洗礼だと思います。

 洗礼式でわたしたちは、「…神に逆らうサタンを退け…」、「…すべての罪深い思いと言葉と行いを退け…」、「…キリストを主と信じて従い、生涯その模範にならうことを約束します…」などの誓約をたてます。イエス様は今日の福音書のみ言葉を通して、過去にたてたこの誓約をきちんと覚えて毎日従うことを促しています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」をよく見てみると文法的に「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」は「過去単純命令形」と言って過去に一回起きたことを意味しています。すなわち洗礼式、特に洗礼の誓約を通してイエス様からの命令に対し答えたものです。「わたしに従いなさい」は「過去単純命令形」ではありません。一回答えて終わる過去の出来事ではありません。「現在命令形」です。今も命じられている、毎日イエス様に問われている命令です。洗礼によって生まれ変わり新しくなったクリスチャンは、イエス様に従うことを毎日問われていることになります。わたしたちは世の中で生きていながら常に考えていなければならないのは洗礼の時たてた誓約を思い出し、今日もイエス様に従う生活を過ごしていくことです。

 今週一週間洗礼の時たてた誓約を思い起こし、イエス様に従うことはどのようなことであるかを共に思い巡らせて行きたいと思います。

(牧師補 卓 志雄)


2009年9月6日(日)(聖霊降臨後第14主日 B年) 晴れ
「 そのとき、荒れ野に水が湧き出る 」

――今日の聖句――
<そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。>[イザヤ 35:5−6]

 今日の聖句は、私にとって、「希望の聖句」です。疲れた時、辛い時、悲しい時、混乱した時、出口が見えない時、この聖句に大きな希望と慰めを与えられて来ました。

 「そのとき、荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」は、色紙に書いていただいて、書斎の壁に掛けています。

 水は「いのち」の象徴です。エデンの園からは一つの川が流れ出ていました。ヨハネは、幻の中で、神の玉座から水晶のように輝く命の水が流れ出るのを見ました。

 体も、心も、すっかり干上がり、「いのち」が枯渇しようとしている。しかし、いつか、必ず、水が湧き出で、それが川となって流れ始め、「いのち」が甦る時が来る。「そのとき」が必ず来るという希望です。

 「そのとき」とは、救い主が来られる時です。ユダヤの人々は、数百年にわたり、救い主の到来を待ち望んでいました。「そのとき、見えない人の目が開き・・・」は、救い主が現れる時、とんでもないことが起きる、今まで経験したことがないことが起きるということを意味しています。

 当時、ユダヤは、ローマ帝国の植民地で、国民の大多数は貧困に苦しんでいました。ですから、救い主は、先ずはローマ帝国を武力によってユダヤの国から追い払い、国民の生活を豊にしてくれることを待望していました。

 しかし、実際に救い主・イエスがなそうとされたことは、人々の待望とは全く異なっていました。イエスが目を注がれたのは、人々の心の闇であり、諸々の差別でした。イエスは、人々を心の闇、差別から解放し、すべての人に幸せをもたらそうとされました。

 人々は、本当に幸せになったのでしょうか。イエス以前とイエス以降と、一体何が変わったのでしょうか。依然、戦争はなくならず、人々は貧しく、悪がはびこっているではないかと問いたくなる現実があります。しかし、世界は確実に変わったのです。

 今日の聖句の「見えない人の目が開く」は、真実が見えるようになることです。サン・テクジュペリは、童話『星の王子さま』の中で、「かんじんなことは、見えないんだよ」と書きました。「かんじんなこと」を見る目が与えられること、それは、イエスに従って生きることの意味を知ることにほかなりません。イエスは、「わたしに従う者は、永遠の命を得る」と言われました。わたしたちは、イエスに従うことによって、初めてこの世を「希望」を持って歩くことが出来るのです。

 このわたしたちの希望は、心や魂など精神的な領域だけに止まるものではありません。

 神は、わたしたち一人ひとりの肉体的な不自由さや苦しみについても、温かい眼差しを注いでくださっています。私たしたち一人ひとりの病や苦しみがどのように癒されるかは、神に委ねられています。神は、一律にすべての人々の病や苦しみを一斉に無くすようにはされませんでした。もし、そのようにされようとすれば、できたかもしれませんが、しかし、それは、人間を含めてすべての宇宙、自然、生物の創造に関わることです。神は、その中で人間がどのように生きていくかは、人間に自由に委ねられたのです。わたしたちの願いが、文字通りその通りにかなえてくださるかどうかは分かりません。しかし、神は、わたしたちが、イエスに従って歩こうとするとき、一人ひとりに、その人に最もふさわしい仕方で、最も美しい仕方で、願いをかなえてくださるのです。

(協力司祭 広沢敏明)


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Last Update Dec/16/2009 (c)練馬聖ガブリエル教会