まじわり最新号

 

2017年 3月19日発行 まじわり150号                   

【巻頭言】  『永遠の仲保者』                    司祭 バルナバ 菅原裕治

 前号の「ヘブライ人への手紙」の箇所では、イエス様が、「朽ちることのない」を持つ方であることについて述べられていました。著者は、それを受けて次のように述べます。
この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(七・二六)。 

イエス様は過去も今も、これからも生きておられ、大祭司として、信じる者のために神様にとりなしをしてくださる方です。その方を通して、私たちは、その方を通して完全な救いにあずかるのです。
そのような大祭司であるイエス様は、それまで律法が定めた地上のそして人間の大祭司とは、大きく異なります。そのことについて、著者はさらに続けます。
この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」(七・二七)。
ここでは、イエス様が大祭司であることが、十字架の死と復活に結びつけられています。そしてそこに古い契約の破棄と新しい契約の保証があることが示されています。古い契約では、地上のそして人間の大祭司は、つねに律法に基づいて自分を清く保たなければなりませんでした。具体的に言えば、エルサレムの神殿には、大祭司専用の沐浴場があり、大祭司は毎日そこで綺麗な水を用いて体を清めていたのです。日本ではごく普通の行為のように思えますが、水の少ないエルサレムでは大変なことでした。そしてそのように自分を常に清める大祭司を筆頭とした祭司団が、神殿で罪を犯した人々の罪の許し、贖いのとりなしをしていました。罪に応じた動物の犠牲を捧げていたのです。それが神殿祭儀です。それは、律法に基づいた制度であり、罪の許しと贖いのシステムとしては、最初から悪いものではありませんでした。しかし、祭司、レビ人など世襲制の特別階級が関係し、金銭も関係しているので、実際的には大きな問題を常に持っていました。

著者は、「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです」(七・二八)と述べ、地上のそして人間の大祭司が、存在においても、役割においても、清さにおいても、常に一時的であるのに対して、イエス様は全く異なる方であることを述べます。イエス様は、永遠の大祭司であるからです。つまり、常におられる方であり、自らを唯一の犠牲としてとりなしをして下さる方であり、そこから私たちを完全に救ってくださる方だからです。それが新しい契約です。
このイエス様どこにおられるのか、その問いに対して、著者は、次のように答えます。「今述べていることの要点は~~天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(八・一~二)。

人間の祭司は、この地上に人間が建てた神殿で働きます。本来それはエルサレムの神殿に限定されていませんでしたが、ダビデ・ソロモン以降そのようになりました。その神殿は一回滅ぼされ、イエス様の時代の神殿は、再建された第二の神殿です。大祭司と祭司団は、地上に神殿がなければ働けないのです。もしイエス様がそのような祭司団と同類であるならば、「律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」と著者は述べます。ただし、「ヘブライ人へ手紙」が書かれた時代、すでに第二の神殿も滅ぼされていたと思われますので、著者がこのように述べるのは、イエス様と地上の大祭司との違いを示すためでしょう。
地上の祭司たちは、「天にあるものの写しであり影であるものに仕えて」(八・五)いたのですが、イエス様は、天の幕屋におられ、大祭司として働かれます。「更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」(八・六)。教会は、このイエス様と共に、毎主日そしてすべての礼拝をささげています。かつての聖餐式で、イエス様の犠牲と贖いが強調されたこと、また礼拝堂の正面に、神殿のような祭壇(オルタ―)があったことはこのためでした。このイエス様による犠牲と贖いという意味は、現在も大切な事柄です。

現在の聖餐式は、犠牲や贖いよりも、食事と交わりが強調されているといえます。それも大切なことです。つまり、贖いと交わり、その両方が大切なのです。教会は、「〇〇会」というような単なる人の交わりではなく、排他的な救いを約束する集まりでもなく、天上と地上の両方の交わりがある場所です。つまりいつも生き生きとしていて、尋ねる人の魂の救いとなっているかが、問われる場所なのです。私たちの信仰は、知らないうちに古くなることがあります。食事と交わりが強調されたことは、その意味では新しくするよい機会でした。しかしそれは全く新しい事柄ではなく、すでに聖書が示していたことでした。

現代の教会は、人々の求めに答えられない、あるいは宗教が対立と混乱の原因になっているなど、物事の表明しか見ない意見が語られることがあります。また学問では自然科学が優先、経済では利益が優先される世界が今もあり、人と人との関係においては、多様性よりも排他性を好む現象も再び興ってきました。しかし、人間が生み出す知識も制度も組織も、限界があることを聖書は常に警告しています。そして、地上がどんなに絶望的な状況であっても、犠牲はわたしだけでよいという、イエス様の十字架の愛に満ちた贖いは変わりません。イエス様が仲保者として私たちに示すその救いは、地上の希望として今もこれからも変わらないのです。