Sunday's Gospel

主日の福音

太田信三司祭による主日の福音メッセージです。最新分を掲載するとともに、過去の説教は PDF でご覧いただけます。

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2026年10月18日

聖霊降臨後第21主日(A年特定24)マタ 22:15-22

「刻印」

       

「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」ファリサイ派の弟子たちとヘロデ党の人々が主イエスに問いかけました。これは巧妙に仕組まれた罠です。当時イスラエルを支配していたローマ帝国への納税は、ユダヤ人にとって経済問題であると同時に宗教的な問題でした。ローマ皇帝は神格化されており、皇帝への納税は、イスラエルの神への忠実さを問う問題でもあったからです。主イエスが「皇帝に税を納めるべきだ」と答えれば、ローマの支配を認める不信仰者だと非難し、人望を失墜させることができます。逆に否定すれば、ローマへの反抗者として訴えることができます。どちらを答えても、主イエスを陥れることができる恐ろしい罠です。

   

彼らの悪意に気付いた主イエスは、「偽善者たち」と呼びかけます。「税金に納める硬貨を見せなさい」と言われた彼らは、デナリオン銀貨を差し出しました。そこにはローマ皇帝の肖像が刻まれています。皇帝への納税を問題にしながら、彼ら自身も皇帝の貨幣を用い、その支配の下で暮らしていました。銀貨を差し出すことで、その事実を自ら明らかにしてしまったのです。日常生活では貨幣に刻まれた皇帝の肖像を問題にしないのに、主イエスを罠にかけるために敬虔ぶる姿は、「この民は唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」(マタイ15:8)という言葉そのものです。

   

主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。ここで心に留めたいのは、銀貨に刻まれた「肖像」です。その原語は「エイコーン」で、「似姿」とも訳されます。創世記において、神はご自分の似姿として人間を造られました。人間には神の似姿が刻まれているのです。また、神はその律法を人々の心に記すと約束されました(創世記1:26、エレミヤ書31:33参照)。ファリサイ派の人々は硬貨に刻まれた皇帝の肖像を見ていますが、自分自身が「神の似姿」であることを忘れてしまっています。主イエスの「神のものは神に」という言葉は、他ならぬ「あなた」に神の像が刻まれていることを思い起こさせます。「神の刻印があるあなた自身を、神にささげなさい」という招きとして受け止めることができるのです。主イエスはこうして、自らを陥れようとしたファリサイ派の人々をも、まことに神に従う道、神の似姿として自らをささげ、神とともに生きる道へと導こうとされたのです。

   

2026年10月11日

聖霊降臨後第20主日(A年特定23)マタ 22:1-14

「感謝と賛美はわたしたちの務めです」

       

今週も主イエスは、祭司長や長老たちに向けてたとえを語ります。最初の「二人の息子」では「洗礼者ヨハネ」が、続く「ぶどう園と農夫」では、隅の親石となる「主イエス」が登場しました。今日の第三のたとえでは、主イエスの復活と再臨の間を生きる「教会」について語られます。

   

主イエスが救いを完成するために再臨する日がやってきます。最後の審判というと「怖い」日を思い浮かべがちですが、主イエスと顔と顔を合わせる、喜びに溢れた日です。だからこそ今日のたとえでは「婚礼の祝宴」として描かれます。王なる神が心を尽くして用意してくださる喜びの宴こそ、再臨の日なのです。

   

王は準備を重ね、招いておいた人々を呼ばせますが、人々は来ようとしません。それでも王はもう一度迎えに行かせます。けれども人々は招きを無視し、家来たちを捕まえて殺してしまう者までいました。この「招いておいた人々」には、祭司長や長老たちをはじめ、神の招きを拒んできたイスラエルの民の姿が重なります。彼らは神のもたらす救いである祝宴に価値を見いださず、目先のことに身も心も注いでいます。殺された家来たちは、神の招きに背く人々によって殺された預言者たちだと読むことができます。しかし、招きを拒んだ人々は王の怒りに触れ、滅ぼされます。つまり、招かれているという立場だけで、救いが保証されるわけではないのです。

   

王は三度目には、道で出会うすべての人を招くよう命じます。そして、「善人も悪人も」皆集まり、祝宴は客でいっぱいになりました。花婿である王子の登場を待つ人々の姿は、死んで復活した主イエスが再び来るのを待つ「教会」の姿を表しています。王はすべての人を招き、教会に迎えます。ただし、そこから追い出される人がいます。教会から「悪人」は排除されませんが、「礼服」を着ていない者は外の暗闇に放り出されてしまうのです。招かれた人々は、王の食事が最高のものであることに気づきました。「礼服を着ていない者」も、その一人です。けれども彼は、誰が招いた祝宴であるかをわきまえていませんでした。それをわきまえていたなら、王への敬意を表し、「礼服」を身に着けたはずだからです。つまり、神が期待することは、ただ食事の席に参加することではなく、招いてくださった方を知って、宴席に連なることなのです。それゆえ「礼服」とは、救いに招かれていることへの感謝だといえます。日々、神の恵みを感じ、その恵みをいただくなかで、感謝とともに生きることこそ、ふさわしい礼服をまとうことなのです。

   

わたしたちもまた、神の宴に招かれています。わたしたちにはすでに、神の大いなる愛と恵みが注がれているということです。その神さまへの感謝の気持ちを込めて礼拝に参加するなら、華美でなくとも、その心は自然とその姿に表れ、神さまに伝わることでしょう。

 

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