主教メッセージ
2003年12月25日  降誕日(C年)


主教 ステパノ 高地 敬

救い主はどこ?

 「救い主がお生まれになった」と、天使に伝えられた羊飼いたちは、驚きながらも、とにかくすぐにベツレヘムまで行って、飼い葉桶の中の乳飲み子を探し当てました。
 でも、羊飼いたちがベツレヘムの町の中に生まれた救い主をどのように探し当てたのか、これもちょっと不思議です。マリアへのお告げについては一般には知られていなかったようですし、飼い葉桶のところで超自然的なことが起こるということもありませんでした。マタイに出てくる占星術の学者たちのときとは違って、目印の星もありません。
 羊飼いたちはベツレヘムまで行ってからずいぶん迷ったのだと思います。救い主はどこで生まれたのか。まず、お金持ちの立派なお屋敷を訪ねます。「こちらに救い主がお生まれになったでしょうか。」門番に簡単に追い払われます。「汚いやつらだ。あっちへ行け。」次に、身分の高そうな人の家を訪ねます。「私たちを救う方がお生まれになりましたか。」「なんでお前たちを助けないといかんのだ。勝手に困ってろ。」やっぱり身分の低い貧しい家に生まれられたに違いないと、貧乏そうな家を訪ねます。「失礼ですがお宅に救い主は?」「こんな夜中になんだ。うちに救いがあっても、分けてなんかやるものか。」
 天使の話したことは間違いだったんだと、あきらめて帰ろうとします。救い主はどこの家にも生まれていないし、元の生活を続けるしかなさそうだ。病気になっても、強盗が来て羊が奪われても、仲間とけんかして独りぼっちになっても、だれも助けてなんかくれない。ただ、つらい毎日でも少しは愉快なこともあるし、それで我慢するということか。今夜はよけいに疲れたなあ。
 帰りかけたとき、赤ん坊のかすかな泣き声が聞こえます。今いるところからそんなに遠くないようです。もう一度だけこのか細い声にかけてみよう。羊飼いたちは飼い葉桶の中の赤ん坊にたどり着きます。それは、どこかの家の中ではなく、屋根も壁も破れた家畜小屋の中でありました。そばには、ガリラヤから来た若い夫婦がおりました。
 消え入りそうな弱々しい泣き声に導かれた羊飼いたちが捜し当てたのは、不思議なことでしたが、彼らと同じように助けを必要とする救い主でありました。このような姿に出会って、羊飼いはどのように感じたでしょうか。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
 救い主自身、これから両親と共にガリラヤへ、そしてまた、エルサレムの十字架にいたるつらい旅を続けていきます。その生涯に何度か頼もしい姿が見られましたが、結局は十字架の上で神様の助けを求めて死んでいきました。私たちの破れ目の多い心の中に、そしてあきらめかけているようなところに弱々しい姿で生まれられた救い主。この方こそが私たちと共に人生を旅し、私たちのために神様の助けを求めてくださいます。