2008年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
私のクリスマス
 昨年の12月、「マリア」という映画を見ました。映像がとてもきれいな映画で、二千年前のようすをできるだけそのまま伝えようとしているようでした。着ている物、人々の暮らしのようす、マリアやヨセフの年齢、宗教上の考え方や人々の思いを背景とした二人の葛藤など。同じように私たちもできるだけ聖書を忠実に読もうとし、当時のようすを頭の中に再現した上で、伝えようとされていることをくみ取ろうとします。
  先日、これとは全く逆の発想をした絵本に出会いました。一人のこどもがお母さんに馬小屋のクリスマスのお話を聞きます。

 「ずっとむかしのとおいくにのクリスマスのおはなしでしたが、その子には、すぐ近くの馬小屋でおきたことのように思えました」という前置きがあります。次のページからは、何十年か前の欧米の田園地帯の雪景色の絵が続いています。母親から聞く話が、身近でつい最近起こったことだとその子が感じていることが良く分かります。そんなイメージを作り上げるのは、聖書の物語としては非現実的ですが、その子にとっては現実のことになっているようです。
 雪の積もった夜道を、カンテラのようなものを持った男女が歩いています。道の片側には電柱が並んでいます。「とてもつかれたひとりの男の人とひとりの女の人がくらい道をとぼとぼあるいてきました」と、お母さんの話は始っています。  
 二人は泊る所がなくて、ある馬小屋に入ります。そこで眠っていた動物たちは、女の人が「寒さにこごえ、おなかをすかせ、つかれている」ことが分かりました。女の人は馬のたてがみに手を入れて温め、め牛の乳をしぼって飲み、そして羊たちは女の人の体を温めようと身を寄せます。
 夜中に赤ん坊が生まれ、小屋の上に大きな明るい星が現れます。羊飼いたちがそれに気付き、自分たちの馬小屋に戻ってきて、何が起こったか見ます。そこで絵本は終わっていて、天使も占星術の学者たちも出てきません。神様もイエスという名前すら出てきません。
 とても疲れた人を暖め、温かい飲み物を提供している動物たちが描かれ、そのときに赤ん坊が生まれ、星がそれを祝福し、その経緯に気がついた人たちがいたというとても素朴な素敵なお話になっています。
 寒さにこごえ疲れている自分にやさしく手が差し伸べられる時、その手を通して人は神様に出会います。それだけでなく、疲れた人、悲しんでいる人、苦しんでいる人に自分が心から手を差し伸べる時、自分のこごえた心にも目には見えない暖かな手が差し伸べられ、その手を通して自分も神様に出会います。
 降誕物語は、将来、世を救う人が生まれるということと同時に、もっと身近な出来事です。絵本の中では、生まれた赤ちゃんが星に祝福されておりました。ほんの少し暖めることができるだけかも知れないけれど、人に差し伸べる手が神様に今祝福される、それがクリスマスなんだと伝えられているようでありました。(A・リンドグレーン『馬小屋のクリスマス』)