らくだは半眼                 主教 ステパノ 高地 敬


 このところ黙想することが割合多くありました。ただ、黙って目をつむっていると雑念が破れた水道管のようにあふれ出てきて仕方がありません。これではいけないと、元のテーマに戻ろうとするのですが、またすぐに余計なことを考えてしまいます。
 禅宗の有名なお坊さんが、「なぜ座る(座禅する)のか」と問われて、「昔からやっていることだから」と答えたそうです。ですから、何か目的を持って黙想するということでもないようです。
 何年か前に黙想会で先輩聖職が黙想に向いた本を読んでくださって、「それではしばらく黙想しましょう」と言われたので、目をつむってじっとしていました。しばらくして目を開くと、その方は椅子に腰掛けておられるのですが、上半身が30度ほど左に傾いたまま静止していて、熟睡の境地のようです。思わずふき出しそうになるのを必死でこらえましたが、おかげでそれまでの緊張が和らぎました。
 黙想や座禅の達人の方に怒られそうですが、何か目的があるから黙想するのでもなく、かと言っていつものように心を騒がせたままでいるのでもなく、なんとなく静かにして、雑念がわいても放っておくのが良いのかも知れません。
 座禅では、目を閉じて自分の中に埋没するのではなく、目を開けてこの世に心を奪われるのでもないと言われるようです。目を開けるのでもなく閉じるのでもない、その中間で揺れ動き、また、雑念のうねりに身を任せながら漂っている。そんな定まりのない私たちだからこそ、イエス様がそっと支えてくださっているのでしょう。そしてたまには何かに気付くことがあるかも知れませんし、全然ないかも知れません。

(教区主教)