顔は個性的           主教 ステパノ 高地 敬

 
 5月の連休中の日曜日に奈良の教会に電車で行く途中、平城宮跡に人がいっぱいいるのが電車の中から見えて、車内がどよめくほどでした。遷都1300年の関係だと思いますが、普段ほとんど人影のないところにあれだけの人がいると、何やら異様な感じがします。改めて電車の中を見るとやっぱり観光客がほとんどで、「みんなは観光で、自分は観光じゃない。自分もそうだったら気持ちが全然違うだろうな」とぼんやり考えておりました。
 自分は他の人とはちょっと違っている。そんなふうに思っている私も、他の人からは観光客に見えていたかも知れません。疲れているときなどは特に、多数の中に埋没していたかったり、逆に、個性を持った一人として認めてほしい時もあります。
 「一人ひとりを大切に」とは、教会や幼稚園などでよく言われることです。イエス様はそうされたに違いないと思うのですが、一人ひとりが大切にされると動きがばらばらになって、全体のスピードが遅くなります。スピードが落ちないように、百人、千人といった単位でしか人を見ないことが自分も含めて、とても多いのだと思います。それと共に、「木を見て森を見ず」、枝葉末節にこだわって、全体が見られないこともあります。
 イエス様はどのように当時の人々を受け止められたのでしょうか。多くの人の中に埋もれている人の寂しさに寄り添い、一人の人格として認めてほしい人のしんどさに寄り添い、その上に民全体も見ておられたということでしょうか。
 いや、それよりも、全体と個を同時に大切なものとして見ることができない、そんな人間の限界を自ら経験されて、自分を消し去ることによって、一人ひとりと全体を生かしてくださったのではなかったでしょうか。

(教区主教)