ラクダの背を分ける           主教 ステパノ 高地 敬

 

 先日聞いた話。ある人が散髪屋さんに行って、「いやー、これだけになってしまって」と言ったら、散髪屋さんに、「大丈夫ですよ。2本あったら分けられますから」と言われたそうです。それを聞いてとても悲しくなり、泣けてもきました。2本以上あればいいということでしょうか。もっと別の慰め方がいくらでもあると思うのですが。
 その後、日ごとに悲しい気持が薄らいでくると、今度は別のことが気になりました。「分ける」とは何かが複数ないとできないことです。だから、2本あればできるということですが、なぜ分けなければならないのでしょうか。
 散髪屋さんに限らず、私たちは皆、物事を「分ける」ことが大好きです。五つのパンを5千人とかで分ける。うれしい気持をみんなで分かち持つ。とてもいいことです。逆に、気の合う人とそうでない人を見分ける。人を民族で分け隔てする。
 人間は、ごちゃごちゃしたものをそのままの形で認識することができないので、少しでも整理して理解しようとすると言われます。分けると分かる、理解しやすくなる。だから何でも分けようとするのでしょう。しかも、分ける必要がないのに、自分の都合で分けようとします。
 仏教には不二法門と言って、互いに相反する二つのものが、実は別々にあるものではないという考えがあるようです。聖書でも、人間を霊魂と肉体に分けずに「身体」というひとまとまりで捉えようとしています。仲良く物を分けるのはともかく、イエス様がそうだったように、自分勝手に分けない知恵と勇気を得たいと思います。
 えっ、今回も堅かったですか?堅いものと柔らかいものに分けていませんか?

(教区主教)